閑 話 「昔話をしよう」



 昔話をしよう。

 二つの昔話。

 一つは人の時間で気の遠くなるような昔の話。

 もう一つは――いや、順を追って話していこう。



   ◇



 昔々。

 このあたりはたいそう賑わっていた。人も妖も活気に溢れた町だった。

 太古に比べればずっと人の世が明るくなっていて、妖と人との世界は徐々に分かれ始めていた。昼は人、夜は妖の時間というようにね。けれど、今よりはずっと二つの境界が曖昧だったのは確かだ。

 とある化け猫はね、そんな時代に妖となった。


 白い毛並みに左右色の違う目。おそらく海外からの船に乗って来てしまったんだろうね。他と違う姿、目立つ姿は同じ猫にも疎まれ、人にも気味悪がられた。挙句のはてには災いを呼ぶとさえ言われたようだね。人は得てして得体の知れないもの、他と違うものを恐れるものだ。

 その猫は、人に嬲り殺された。ぶつけようがない不満や言い知れない恐怖を押し付けて猫に暴力を振った。気味の悪いというその白い体が赤黒い血に塗れて、ともすれば黒猫にすら見えてしまうくらいに。

 あまりに理不尽な暴力だった。母とはぐれ、知らない土地に迷い込み、挙句にわけの分からないまま殺された。それは恐怖から憎悪と恨みへと変わり――そのどろどろとした怨恨は、猫を妖異へと変えた。

 自分を殺した人を呪い、通りかかる人を呪い、最早何を呪っているのか分からなくなった頃。


 ――化け猫は一人の遊女と出会った。


 化け猫が死んだ場所が、ちょうど花街の入り口の裏辺りで、たまたま外へ出る許可を得ていた遊女に見つかったんだ。草むらの中でひそやかに、ぎろりと血走った目を覗かせる子猫の姿をした何かに、遊女は手を差し伸べた。およそ恐ろしい化け物の姿になっていただろう――その白い猫に。


 ――「おまえも、ひとりかい」


 と。

 結局その遊女は、恐ろしい化け物を化け物と思わず、化け猫は遊女に飼われることになる。遊女が猫を飼う話はよくあることで、しかしまあ、凶暴そうな外見だったんだろうね。恨みを抱えた化け猫なんだから。当の遊女以外は近寄りもしなかった。

 遊女は、両親に生活のために売られてきていた。その遊郭で暮らし始めて日は浅く、生活には慣れず、打ち解けることも出来ずにいたんだ。加えて足も悪くなっていて、主人からもあまり可愛がられていなかった。つまるところ、彼女も化け猫と同じく、ひとりだった。

 そんなふたり――ひとりと一匹は次第に心を通わせるようになった。それが恋だったのか、信頼だったのかは定かではないけれど、確かに愛だった。

 鋭かった化け猫の目付きは和らぎ、幼かった遊女はしたたかになった。そうしてふたりは互いを支えに、けして生きやすくはない小さな部屋で暮らした。


 ところが――

 往々にして幸せというものはそう長くは続かない。


 ある富豪の息子がその遊女をたいそう気に入った。足繁く通っては彼女を口説き、その身を請けたいとまで言うほどだった。けれど、息子は大の猫嫌いだった。

 その頃にはおよそ恐ろしさは鳴りを潜め、色こそ変わっているが普通の猫の姿を取れるようになっていた化け猫だったのだけど、息子は身請けするとしてもその猫は連れてこさせないと言う。どころか気味の悪い猫、禍を運ぶ猫と口汚く罵った。禍なんて、当時の化け猫は遊女さえ幸せになるのならそんなもの運ぶ気もなかったのにね。遊女が頷くはずもなかった。

 そうして、痺れを切らした息子は強引に話を進めることにする。金に物を言わせ、遊郭を説得し、最後には遊女がそこへいられないようにさえしてしまった。たぶん、その男も既に意地だったのかもね。遊女如きに誘いを断られるなんて有り得てはならない、って。

 背水の陣となった遊女は、終には逃げ出した。化け猫を連れて。


 化け猫は言ったんだよ。そこまでしてもらうことはない、そっちに行ったほうがこれから幸せになれるだろ、と。オレは他とは違う、禍を呼ぶ猫だから、と。オレのことなんて忘れていい、幸せになってくれと。

 しかし遊女も頑固だった。

 私が行けばおまえはひとりだろうと、おまえが私にくれたのは幸せだけだったよ、と。


 逃げるうちに、外を走りなれておらず足も悪い遊女は力尽きる。そう遠くまで来ないうちに倒れ、追っ手は彼女を見つけた。――そこで彼女は殺されることとなる。

 というのも、彼女が逃げ出したことを知った富豪の息子がね、甚だ自尊心を傷つけられたんだ。見つけ次第殺してしまえ――と、そう言っていたそうな。

 彼女は殺された。それもひどく屈辱を浴びせたあとに、素人仕事だったために楽には殺してもらえず、ただ化け猫だけはその体の下に庇って。

 そこからはもうそれは語るにも辛い惨劇だったそうだよ。

 遊女と過ごす間に薄らいだ化け猫の怨嗟や憎悪が、遊女が徐々に生き絶えていくのを見て膨れ上がった。小さな化け猫はそのどろどろとした感情を大きく孕み、ただそこにいてその姿を見るだけで呪いを振り撒いて、遊女を嬲った者どもは直ちに死んだ。呪いはそれだけにとどまらず、彼女を買おうとした富豪の息子と、その血族をもろとも根絶やしにした。人というものに絶望しちゃったんだろうね、もう見境なんてなかった。ものの数秒、遠く離れた血縁にまで及ぶ呪いだ。ただの化け猫が抱えるには重すぎるしできたものじゃないのは語らずとも分かるだろう。そんな条理を軽く打ち超えるくらい、彼の感情は激しかった。

 ところが、呪いがそれ以上に範囲を広げる前に、化け猫を止めたのは遊女だった。遊女は最後の息へ言葉を乗せた。彼女の最後の言葉は、その化け猫がもらったもの。

 なんて言ったかは定かではないけれど。きっと当人しか知らないけれど。

 一つだけ確かなのは、遊女と化け猫が何か約束をしたということ。約束を守るために呪いにあふれた心を静めたんだって。あるいは――呪いを静めるために約束というよりどころを与えたのかもしれないけれど。

 以来、化け猫は約束のために己が本能を抑えるようになる。幾月、幾年――ずっと、約束の果たされる日を待ちわびた。


   ◇


 次は二つ目の話をしよう。

 昔話というよりは原点の話だね。


   ◇


 この話の前提として、俺の話をしよう。

 そう、俺。興味なかったらごめんね。

 俺は見ての通り百目だ。何なら袖とか捲って見てもいいよ、触られると流石に痛いからやめてくれると嬉しい。見ないか。怖いもんね。


 今は明らかに妖だけれど、今は、だ。昔からこうだったわけじゃない。

 実のところ、俺はもともと人間だったんだ。具体的には七十年か、そこら前まで。

 俺の生きてた時代にそうだったかというとそうでもないんだけど、境界が曖昧だった頃にはよくある話だったんだよね。人が妖になったり、妖が人になったり。まあ、どっちにしてもそんなに簡単なことじゃあないけど。


 俺がどうして百目になったかっていうと――ああ、美珠が零していたか。

 うん、そのとおり。美珠が人と妖との恋に嫌がるのは俺が原因だね。美珠は俺に人として幸せになって欲しかったみたいだから。悪いことをしたとは思うけど、後悔はないよ。美珠、あれで人の子の幸せな話は大好きなんだ。


 この町の主はね、ああ、今眠っている子じゃなくて、その母親。そのひとはたったひとりでこの土地を平和におさめていてね。俺は影も形もこの世になかったくらい昔だからよく知らないけど、彼女も人と恋に落ちた。

 人と妖が当たり前に関わっていた時代――ええと、安倍や蘆屋が全盛期だった時代だっていうから、平安時代くらいかな? その頃かがみを治めていた術師の男と和平の意味も兼ねての交際だったのだろうけど、まあ、二人の間には一人の女の子が産まれた。半妖を産むのって楽なことじゃないらしくて、母親は産んですぐに亡くなってしまった。産まれた半妖は父親の家に引き取られたものの、屋敷に監禁されていたらしい。

 あまりにも強い妖だったからか、その娘も半妖にしてはすさまじい力を持っていたんだって。だから外に触れさせるのを恐れたんだろうね。

 人である父親が亡くなってもたったひとり、ずっと監禁されていた娘はこの土地に帰ってくるまでに実に千年近く要した。すごいよね、ずうっと屋敷の奥に隠していたんだもの。

 当然治める主のいないかがみの地は荒れに荒れた。神隠しや祟りなんて他の土地と比べ物にならないくらいに多い土地になって、禍(まが)つ鏡(かがみ)なんて言われたりね。

 娘――今の主が戻ってきた頃にはもう手におえないくらいひどいことになっていて、その子は最終的に自分の膨大な妖力を土地に溶かすことを選んだ。そうすれば腹を空かせる妖も飢えて消える妖もいなくなるからね。それが今のかがみの在り方になった。


 お察しの通り、俺はその子が好きでね。

 ひとりきりで未来永劫土地のために文字通り身を粉にさせるのはどうにも耐えられなかった。だってあの子、すごい寂しがりなのに強がりだったからさ。


 そんなわけで、俺が今守っているお社に眠っているのはその狐の半妖なの。

 人の世と妖の世を切り離したのは彼女の妖力が人の生活に強く作用してしまうものだったからなんだけど――最近はそもそも彼女の眠りが浅くて、行き渡りが悪い。厳密に分けておく必要性が薄くてどうにも繋がりやすくなってるのはいささか問題だけど。アカガネが不安がるしね。

 ちなみに、この土地で見鬼の子が育たないのはこちら側に関わる力の全てが土地の養分になるから、だね。


 さて、俺が元人間で、百目になった経緯はこんなものかな。

 ここからはあなたの話だ。


 俺はあなたがここへ来ることを知っていた。あなたがその『緋織』という名前を付けられたその日からね。

 俺とあなたには、あなたが生まれた日からの縁がある。

 もう、分かるかな。


 俺の名はヒヅキ。漢字では――緋色の月と書く。


 うん。

 あなたのおばあちゃんと俺は、かつて良き友人だった。

 あの子が俺の名を一文字取ってあなたに付けたのは、俺との縁を作るため。


 この地であなたが生まれて育てばあなたの見鬼は土地に溶けて消えるから心配はいらないけれど、あなたは別の土地で育つ。そうだとすれば、いつどこでその才に目覚めるかわかったものじゃあない。

 見鬼っていうのはもちろん突発的な発現もあるけど、血縁にいればより可能性は高くなるからね。あの子はそれを危惧した。

 だから俺と縁を結び、この地に来るように仕向けた。この地にくれば誘発するし、俺の近くなら他よりいくらか安全だからね。

 あなたが生まれた瞬間から弱っていたのは、そうだね。奥底に眠る見鬼の力に目敏く気づいた妖がいたんだ。それを食べようとして、食べる前にいたぶって遊んでいた。あなたのお母さんが、あなたのおばあちゃんを頼らなければ、あなたはきっとそいつに食べられていた。あなたと俺に縁ができて、俺はあなたの危機を知ったから、手遅れになる前に手が打てたよ。

 そしていつかあなたがここへ来ることを知る。


 ずっとね、あなたを待っていたよ、俺。

 あなたと俺の友人を繋ぐ赤い縁があることに、あなたと俺の縁が結ばれたときに気付けたからね。

 その友人はずうっと待っていた。俺が出会った頃もだいぶ死にそうだったし、焦がれすぎてこじらせていたけど。


 あのね。

 妖っていうのはほんとうに不便で、人のように感情の扱いが上手くない。人は時が経てば忘れてまた立って進める。人の短い生では立ち止まることほど無為なことはないから。

 けれど、妖はそうもいかない。忘れるのも傷を癒すのもへたくそなんだ。だから何百年も前の約束一つに縋って、それだけを拠り所にひたすら待ち続けることだってできてしまう。

 心が摩耗するのは同じなのにね。忘れられないんだ、人にとっては何世代も前のことでも昨日のことのように思い出せてしまうから。

 存在証明はまた別の問題だから、自分のことはどんどん分からなくなっていく中で自分を救った約束のことだけは忘れなかったんだよ。


 ――これは推測。その約束は再会の約束だったのだと思う。

 その赤い糸はようやく今、ふたりを再会させた。今この時代で出会えなければ切れてしまっていたと明らかに分かる、掠れて解れた糸の最後の一本がようやく出会わせてくれた。

 彼はよくもった方だ。ただの化け猫にしては出来すぎたくらいに。

 そしてそれでもう満足してしまったの。最後に良い夢を見させてもらった、一目見られただけでもう満足だって朗らかに笑えてしまう。


 俺はね。

 彼に幸せになって欲しい。きっと余計なお世話だっていうけれど、友の幸せを願うのは当たり前なんだから。こんなにも一生懸命待ったのに報われないなんてのは嘘だ。

 幸せにしているのならオレはいらないだろう、なんて寂しいこと言ってほしくない気持ち、わかるでしょう? なのに、自分に依存もしてほしくない。幸せでないのならなおのことオレに会っちゃいけない、人に苦しめられるあの子にもう一度会えばオレは我慢できずに連れて来てしまうから、なんて言うんだよ。まったく。


 ――――――うん。

 あのね、あなたはあの化け猫と約束した遊女だ。

 彼女があなたとなってここへ来るまでにずいぶん時間がかかってしまったけれど、でも辿り着いた。細い切れかけの糸に導かれてやってこられたんだ。これを――運命と呼ばずになんというの?

 あなたに人の生を捨ててほしいわけじゃあない。俺みたいになるのはお勧めできない。ただ、あのひとを抱きしめてあげてほしいんだ。



 ――触るともう戻れないことを知っているから。

 ――欲しくて仕方がない本能を知っているから。

 臆病で優しいあのひとからは触れないから、あなたが抱きしめてあげてほしい。


 

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