第九話 「迎えにいく、会いにいく 前編」
走った。走った。走った。
猫を抱えて、着物の裾を引き摺って、走る。
冷えて冷えて、抱いている感覚も地に足がつく感覚もない。けれど足を止めない。止めたらおしまいだ。この命も、抱えた猫の命も。
『おい、やめろ! まだ引き返せる、オレはいい、帰ってあの男のところに行け!』
「いやだよ、ばか言わないでくれ……ッ」
『ばかはおまえだ! なあ、猫嫌いくらい目を瞑ればいいやつだっただろう!』
抱えた猫が今までにないくらいの勢いで叫び、着物に強く爪を立てて抵抗を示す。体に噛みついてこないあたりにこの猫の優しさが垣間見える。――垣間見なくたって、この数年のうちに優しいことなんて全部知り尽くしたのだ。
確かに買い受けたいと言ってくれた男は金持ちで、それでいて穏やかなひとだった。一晩中を買ってくれて、ただ話だけをするだけで過ごしてくれる日も多かった。大切に思ってくれるのは分かるし、丁寧にも扱ってくれる。
けれど――
「猫は、きらいだ。捨てて行ってくれ」
その一言だけで、すべて覆されてしまったのだ。
食べたこともないような美味しい食事を食べて、男を誘うためのものじゃない着物を纏い、考えられるよりも思いつくよりもずっとずっと贅沢な生活が出来たとしても――
「私は、おまえがいなければそのどれもがなんの意味もないんだよ……」
『…………ッ』
転ぶ。足がもう擦り切れて血塗れで、一度転んでしまったからにはもう立ち上がる気力もない。けれど、立たなければ。追いつかれる。足音が迫ってきている。あれはもう、命を狩り立てに来る死神の足音。
だから、走らなければ。
逃げなければ。
死神に棒で殴られて。
着物を破き裂かれて。
血塗れの肌をあばき。
体の下に庇った猫だけは守りたくて、なのに。
『――――――、――――』
猫が叫ぶ。一回りも二回りも毛並みが膨らんで、叫んでいる。
何を言っているのか分からない。泣きそうな顔をしている。
痛い。泣かないで。大丈夫、痛い。痛いけど、大丈夫。
ああ、そうだ。早くこんなやつらを蹴散らして逃げよう。
とおくに。私のことを誰も知らない、誰も知らない場所に。
一緒に。ふたりで。
『――――目を、目を開けろ……っ』
「あ、あ――――――」
視界が遠い。赤い。揺れている。白猫の姿も見えない。誰もいない。音も遠い。なんにも――なくなっていく。
もう――痛みもない。意識が遠退く。
周りにいたなにかが吹っ飛ぶのが、かろうじて見えた。丸くて黒い、もやのようなものがずあっと広がり、周りをぜんぶ飲み込んだ。
それがなんなのかは分からない。だけど、痛くない。
手を伸ばす。
そこにいるはずの、愛しい猫に。
世界を変え、優しくしてくれた唯一の猫に。
手が――――――触れる。
ああ、よかった。そこにいる。
「ああ、ねえ、いこう……」
どこかとおくへ。
二人で居られる場所に。
「こんなところ、はや、く……」
そういえば、この猫に名前をつけてあげなかった。
呼んでしまえば離せなくなる気がして、怖くて。
ああ、いや、もう――こんなことになるくらいなら早くあげてしまえばよかった。
声には出さずにずっと呼んでいた――なまえ。
「ねえ、きいてくれ――」
『――――――――――』
幸せを願うすえひろがり。
遠くに行きたい私の願い。
祝福と願いをありったけ込めたなまえ。
どうか、うけとって。
黒い視界がゆるやかに元に戻っていく。
そこに現れた白い白い、猫。
よかった。見える、そこにいる。
「おまえの名前は――だ。もっと、呼べたら、よかった」
掠れた声でなまえを呼ぶ。何度も。抜けていく力を必死にこめて、願いが叶うように。
呼んで。
呼んで。
呼んで。
別れが惜しくて惜しくて仕方がなくて。
もう離れ離れになってしまう。
夢を見られる時間すらない。
だから――ずっと隠していた本音が、零れてしまった。
「また――会いに行くよ、どれほど遠くなっても、どれだけの時間がかかっても必ず――――」
だから。
待っていて。
*
「社守の緋月だ、覚えておいて。俺はこの土地の主を守るものだ」
しゃんと涼やかな音が張り詰めた空気を裂いた。緊張が解けたことで、ぶわと汗が噴き出す。
それが自分に向けられたものではないと分かっていても、これだけの緊張。普段抜けているヒヅキさんの本質が垣間見えたような気がする。もりもり山盛りご飯を食べたり、アカガネさんに羽織を返すのを忘れるヒヅキさんからは想像もつかない。
――いや、裏を返せば彼を名前で縛る、縛ろうとした行為は知らず地雷を踏みぬいたのかもしれない。呼ばれることは厭わなくても、簡単に触れることを許さない。それほどまでに想われた相手が、あの社の主。
「さ、緋織。俺ね、あなたを迎えに来たんだよ」
「……え?」
完全に気圧された幸音に背を向け、歩み寄るヒヅキさんは既に凄絶さを潜めていた。穏やかな声音に、いくらか安堵を覚える。
「日向の術師が来たってことはあなたもここには長くいられないし、何よりもうあのひとがもたない」
「あのひと、って――ハチさん?」
うん、とヒヅキさんは頷く。もたない――って、それは、だからハチさんはこのところ来なかったのだろうか。私に対してどうとかそういうんじゃなくて、体がもう来られないほどひどかった……?
「ううん、動けはする。けど、本能がね、抑えきれなくなってきてる」
「本能……」
「うん、今は社で無理に眠っている。一刻も惜しいんだけれど、来られる?」
ハチさんに何かあるというのなら当然行く。嫌に思われたくないとかそういうのは抜いて、行かなければならない。どう繕ったところで美珠さんに見抜かれたとおり、結局私はハチさんが好きだから。
即答しようと開いた口は、返事をするより先に美珠さんに止められた。
「行けばすべてなくすとしても、行くの? あの化け猫は自我さえ失っているかもしれない、行けばその愛しい化け猫に殺されるかもしれない――そういう、危険はちゃんとわかっているかしら」
「――――」
「あなたを失くして惜しむ人がいるのではなくて? いいえ、いないから行くというのならなお止めるわ。いくら緋月の大事な友人だとしても生半可に人の子が関わるのはお互いを傷だらけにするだけだもの」
私がいなくなって惜しむ人。祖母は悲しんでくれる。優しいひとだから、帰ってこなくなった私に責任を感じるだろう。
父は、そんな私をあの世で会えたとして、悲しむだろうか。
……母は。
母は、泣きもせず、清々とするかもしれないとはもう思えなかった。来たばかりの頃であれば迷いもしないでハチさんのもとに行く決断をしただろう。
――「緋織、話をしましょう。これまでのことも、これからのこともひとつずつ。ずいぶん気付くのが遅くなってしまったけど、今日までの分も」
話をしようと言ってくれた。分かる努力をしようと、歩み寄ろうと抱きしめてくれた。私がいなくなって一番心配するのは母だと、今は思える。
母が泣きながら私に平手打ちした時の顔を思い出す。おかあさんにそんな顔をさせたくないのはほんとうだった。ハチさんにもしも私が殺されるなんてことがあれば、させてしまうことも、分かっている。
「――行きます。ハチさんに会いに行きます」
美珠さんの目を見据えて、振り絞って言った。
一瞬目を細めた美珠さんは大きくため息を吐く。ひどく不機嫌そうだ。ふいっと顔を逸らした美珠さんの頭を、ヒヅキさんが撫でる。
「そう苛めないであげて、美珠。大丈夫、未練はちゃんとあるみたいだ。残すものがある子はちゃんと帰って来るよ」
「……緋月」
美珠さんは複雑な感情を押し込めて呼ぶ。目を伏せ、着物の袖をきゅっと握っている。
「美珠、大丈夫。緋織はちゃんと返すよ、俺と同じになることもないから」
「……こんな小娘、わたしはどうでもいいのよ。緋月が言えばわたし、結局なんにも言えなくなるんだから」
「うん、ごめんね、美珠。未鞠(みまり)と一緒に日向の子を見ていてくれる?」
「……ええ、それが、緋月のお願いなら」
悲しそうに頷いた美珠さんをもう一度撫で、「ありがとう」と告げて私に向き直る。ヒヅキさんは錫杖を脇に挟み、私を抱えた。美珠さんから赤い番傘を手渡され、差す。
「ありがとう、緋織。行くって言ってくれて。ちょっと急ぐからごめんね」
「えっ、あの、はい。お礼を言われることなんてなんにもないです、私がハチさんに会いたいだけ、だから」
「うん、そう。――ちゃんとつかまっていてね」
はい、との答えを持たず、ヒヅキさんは地面を蹴った。初動で揺れた傘の端から雨粒が顔に跳ねてくる。拭って、しっかりと傘を支えた。
ぬるくて湿気を多く含んだ風が肌を撫ぜる。あまり気持ちいいものでもなく、ただ不安だけを煽られていく。
「あのひとのところに行く前にね、聞いてほしいことがある。もし聞いて嫌になったら引き返して家に送ってあげる」
屋根や塀の上を急ぎ走り渡りながら、言う。言い方からして、気持ちのいい話でも楽しい話でもないのは確かだ。だからヒヅキさんもこんな言い方をしている。そして私は聞かずにハチさんのもとに駆けつけてはいけないのだ。
「はい、聞かせてください。きっと、帰りたがることもないです」
「うん、よかった。じゃあそのままで聞いて」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます