第七話 「術師と椿 後編」
胸がざわついていた。
まさかあそこで日向の術師に見つかるとは想定外だ。この町がこうなってからは日向の術師でさえ感知能力が鈍ったと聞いている。大妖怪ならばともかく、自分程度の死にかけの化け猫など見つけられるはずもないと高をくくった。
見鬼を気配だけで見つけるのはもうできないらしいから、あの子が見つかることはないだろう。見つかったのがあの寺の前で良かった。
あの椿の木精、人嫌いともっぱら噂だったが、突き飛ばしたあの子を樹の陰へと引き込んで隠してくれた。最後に葉に乗せて『返しておくから行け』と教えてくれたところを見るあたり、おそらくあの子は無事だ。
だが、ひとりきりで家へ帰す羽目になってしまった。胸がざわつく原因だ。
ひとまず、社に戻ってヒヅキに報告しよう。あいつは夜、あの子の様子を見に行くから伝えておけば念入りに調子を見てくれるはずだ。
社まで続く長い階段はまだ日が高いのに薄暗い。左右の林から伸びる背の高い木々が日の光を遮っているのだ。
とはいえ上るのにさして労もない。数段飛ばしに上ればすぐに社だ。
古びた戸を開け、草履を脱ぎすててずかずかと上り込む。祭壇を抜ければすぐに居間で、開けるといつも通りののほほんとお茶を啜るヒヅキがいた。
「あれ、おかえり。早かったね」
「日向の術師に遭った。寺の椿があの子を匿ってくれたから、あの子に目を付けられても厄介だしさっさと逃げてきた」
「ふうん、災難だね」
ハチは横に置きっぱなしの布団にずぼっと倒れ込む。干して数日が経つ布団はあまり優しくは受け止めてくれなかったが、気に留めることでもない。普段、奥にも自室があるのになぜかこの居間か祭壇で眠るヒヅキが横着で出しっぱなしにしている布団だ。干してあるだけまだいい。
ヒヅキが台所との戸の横にある棚から湯呑みを取り出し、とくとくと茶を入れた。
「彼女が助けたならまあ、安心だ。今頃は無事に家に帰ってると思うけど……日向の術師に遭ったのがあなたを疲れさせたわけじゃなさそうだね」
煮干しでも食べて落ち着くといいよ、と窓の外の笊に入った煮干しと鮭の皮をカリカリに上げたものを大皿にあける。魚と塩の良い匂いが鼻を擽るが、今はそれにつられる気力すらなかった。
「あなたがそんなにも取り乱すのも珍しいねえ」
「いや……ほんとう、言うつもりなんて欠片もなかったのに、失態だ」
「んん、失態?」
それも二度もだ。夏の熱に浮かされていたとしか言えない。それか、名前を貰えたことに舞い上がっていたか。
術師との帰路がほぼ無言であったことが思い返すことに拍車をかけた。
白いワンピースがよく似合っていた。同じくらい白い肌が眩しくて、日差しに焼かれて赤くなっていくのが見ていられなくて。だからあの赤い切れ端を貸した。他に貸せるものもなかったのが主な理由ではあるが、今となってはあれでなければこんなにも心揺れなかったかもしれない。遠い記憶にあるものとはずいぶん違っていたけれど、すごく、すごく――
「に、にあって、るとか……」
「え、言ったの? うわあ、ほんとうに? あなたが? やるねえ」
顔が熱くなる。色の変わるはずのない耳まで赤くなっている気がする。布団にさらに埋め込み、唸る。そしてにやにやしているヒヅキの視線が刺さる刺さる。いや、どうせ表情自体は薄いのだ。
そのくせ百の視線は雄弁に語る。うるさいほどだ。
「あなた、そういうこと言えたんだね。昔も褒めるの出来なかった、って言ってなかった?」
「うるせえな、出来てねえわ! だけどほら、その……すげー優しくしてもらってるから? あー、もーやっぱり浮かれてるわオレ!」
がばっと起きあがってがあーっと叫ぶ。叫ばずにいられるか!
ヒヅキは相も変わらず無表情で、しかしこいつ「そうかあ、いいねえ」とか呟いているのが変に腹が立つ。なんでこんな若造に微笑ましく思われにゃならんのか。
「まあ、女の子にそういうのは大事だよ。いいことしたね」
「あーうっせ、うるさい! そういうおまえだって言いそうにねえわ!」
「ええ、俺? 残念、俺はこまめに褒める」
冗談か本気か知らないが、無表情で褒めていてもちゃんと笑って褒めていても、どちらにしても見てはいけないものを見た気分になりそうだ。そんな相手がいるのかも――ああ、いや、いるのか。今は褒めたり言葉を交わす機会がないだけで。
「俺の話はいいよ、ほかには? なんか進展ないの?」
「あるわけねえだろ、オレはあの子に人として生き、てほし……」
「ははあ、あるんだ。喋ってしまえ、ほらほらほら」
いつになく饒舌にけしかけてくる。こいつこんな話に食いつく奴だったのか、と内心後悔しながらも嘘は吐けないハチだ。いっそう顔を赤くし、真白の三角耳が後ろへぺたんと垂れて、尻尾も落ち着かなく動く。百の目のどこにも合わないように目線を逸らし、
「……き、急に会えなくなるのは、さ、寂しいな、とか」
「――――あなた、ほんとうに普段素直じゃないんだね」
「笑うな!」
テーブルに両肘を着いて顔を覆ったヒヅキはどこをどう見ても笑っていた。肩が震えている。くそが。
顔がしゅうしゅうと音を立てて煙を立てているようだ。顔だけでなく首も手足も全部熱い。あの子に言った時はこんなにも恥ずかしくなんてなかったのに。
「ちっ、どうせ面白いと思ってんだろ……」
「いいや? 幸せなのは良いことだ、たくさん幸せになってくれると俺は嬉しいねえ」
ちっともうひとつ舌打ちをして、腕を組んでヒヅキの方は向けない。ヒヅキのほうがずっと若造だというのにこういうことに関しては向こうのほうがよほど経験値を積んでいるので、なんにも言えない。
「それで? あの子はなんて?」
――その一言で、現実に立ち返る。
そう、あれは今思い出して恥ずかしいくらい、口説き文句であったはずなのだ。あの子に少なからずの好意を寄せていると伝わるはずの言葉。
けれどあの子は、俯いてすぐに何事もなかったかのように話を逸らした。迷惑なのだ、きっと。浮かれているのは自分だけ。
そう思ったら途端に熱が引いた。あれだけ熱かったというのに冷え込んでしまった。ぼす、と布団に再び倒れ込む。
「……悪いことを言ったかな、ごめんね」
「いや、おまえが謝ることはない。どうせ結ばれることはないと分かっていた。だからいっそ吹っ切れてよかったよ」
大丈夫、と繰り返したのはヒヅキに向けてだったのか、それとも自分に対して言い聞かせたものだったのか。定かではないが、きっと前向きな言葉ではなかった。
この日以来、化け猫ハチの容体はゆるやかに低下していくことになる。
――百目の社守は翠玉の目をすっと細め、何も言わずに無理をして笑う化け猫を捉えた。
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