第六話 「術師と椿 中編」
「なあ、暇なら少し歩かないか」
唐突に、珍しく彼の方から誘いがあった。
都内に比べていくらばかりも過ごしやすいとはいえ、夏の日差しが燦々と照りつける日中はあまり外に出たくなかった。大体外に出たところで行く場所もないから、ベランダに腰を下ろして外を眺めるか、ハチさんと他愛ない話をするかの二択しかない。
ハチさんとて暑いのはそう得意ではなさそうで、ベランダが庭の木の陰にすっぽり覆われる時間帯か比較的涼しい午前中のうちに訪れる。
だのにこの日はまだ太陽が頭上のてっぺんに陣取っている、真昼間だった。
「暇は暇ですけど……どうしたんですか」
「いや、な。たまにはいいかと思って」
歯切れはあまり良くはないが、ハチさんは存外に口下手なところがある。よくわからないが、せっかくの誘いだ。乗ることにする。
どうせ家に居ても、階下にいる母の存在がひどく重くて、苦しいだけなのだ。
「わかりました。すぐ外に出るので、庭で待っていて下さい」
「ああ、ちゃんと出かけると母親に言っておいで」
「……ッ、それは」
それは、嫌だ。なんて声を掛けろというのだ。
母との対話は一向に行われていない。ヒヅキさんはちゃんと話をした方が良い、とは言うものの、何を話せばいいのかも分からない。母の顔を見ると、どうしてもあの父の白い顔と、新しい婚約者を連れてきたときの母の顔が交互に見えてしまって苦しい。口を開けばそのことを訊いてしまいそうで、しかしそんなこと聞けない。
母の口から明確な答えを得てしまったら、それこそ何かが崩れてしまう、そんな予感があった。もうもとに戻れないくらい母のことを嫌いになってしまうのか、それとももっと別の、なんならいい方向へ転ぶのかもしれないが、その変化はきっと決定的だ。
今をよしとするわけではない。こんな息苦しさは嫌だ。だから衝動の赴くままここへ逃げてきたのではないか。
結局ハチさんには曖昧に返事をして、玄関脇の居間にいた祖母に「いってきます」と告げるだけで出てきてしまった。
後ろめたくて、ハチさんの顔を見ずに「お待たせしました」と告げる。なんとなく、白いサンダルが目に入る。少し土で汚れた部分がいやに浮いて見える。
けれど、そんな心配とは裏腹にハチさんは「行こうか」と特に追及することもなく歩き始めた。
「あの、ほんとうに……珍しい、ですね。ハチさん、暑いの苦手だと思っていました」
「まあな、苦手だ。あと、やっぱりおまえを外に連れまわしたくないんだ」
ハチさんはひょいと塀の上にのぼり、軽やかに歩く。
必然的に見上げる形になるが、逆光でどうもうまくない。白いはずのハチさんの姿が黒く見えて、思わず瞬きをする。目を細めたところで陽光には勝てず、諦めて目線を落とした。
「連れまわしたくない、ですか?」
「そうだ。家の中にいる方が、アカガネも他の連中も手を出せないし、何より見鬼(けんき)の子がいると周りに知らしめなくて済む。知れ渡ればまた、危険もたくさん降りかかるからな」
まだ、私が見鬼の才を持つことを知らないでいる妖は多いらしい。
ずっとヒヅキさんが匿っていてくれたし、アカガネさんほど鼻の利く輩もそうはいない。そも、人の世たるこちら側の事情がそうそう向こう側に抜けることもないが、用心するに越したことはない、とハチさんは言う。
「でも今日は特別だ。おまえがこの町にいる間、なんかないとも限らないからな、できることはしておかないと」
「なんか……? アカガネさんのことですか?」
「いんや、おまえの赤い目を良く思わない奴がいる」
この言い方、それは妖ではないのか。しかし、人の世と妖の世は分かたれて久しいと聞いた。人の世に未だ関わることを知るヒトがいるのだろうか。
涼やかな鈴の音が頭上で鳴る。二股に分かれた尾の片方につけられた鈴だ。白い毛並みに良く映えるそれは、尾に揺られるたびに太陽の光を受けて反射する。つられて、彼を見遣る。化け猫さんはぴるぴると耳を動かし、周囲をよく気にしているようだ。
それにしても暑い。じっとりと背に汗が流れるのが分かる。袖と背中、足を大きく露出したワンピースを着てきたはいいものの、肌が焼けていくのが痛いほどよくわかる。というか、物理的に大変痛い。
裾に施された繊細なレースが汗で微妙に足に張り付くのが気持ち悪い。
「そういう服。ずっとヒヅキのとこの浴衣ばかり来ていたから見慣れないな」
「まあ、私もあまり見慣れた服ではないんですけどね……」
この服は実のところ、私物ではないのだ。祖母の家に仕舞い込まれていた服を、着替えもなにも持っていなかった私のために着られるように直してくれたものだ。結局それは着ることなく、アカガネさんの誘いに乗ってしまったのだが。とりあえず順当に考えて、母か祖母のおさがりということになるのだろうが、詳しくはよく知らない。
さすがに出かけるというのに、寝間着ではいけないと思い、引っ張り出してきたのである。
外は暑いから、と祖母が貸してくれた白いリボンの麦わら帽子は非常に優秀だけど――薄手の上着も持ってくれば良かった。焼ける。
「……日焼けか」
ちりちりと痛む肌を撫でる私に一目視線を落としたと思うと、ハチさんは考え込むように足を止めた。
「日焼けなんて縁がなかったのになあ……」
「ハチさん?」
「いいや、ほら。気が回らなくて悪かったな、こんなものしかないが」
時間が時間だけに、影の背は低い。
ハチさんは懐から折りたたまれた布を取り出した。大きな華の刺繍が施された赤が基調の布だ。広げるといっそう華やかで、少々困惑する。
足を止めたハチさんはそれをふわっと私の肩に掛けてくれる。厚手ではあるものの、日差しを防ぐのにはちょうどよさそうだ。肌触り的に、安い布ではないことは確かなのが気がかりだ。
「あの、ハチさん、でも汗とか色褪せとかしちゃったら……」
「気にしなくていい。それより――よく似合ってる」
「に、にあ……!?」
目を細めて、眉尻を下げて、あたたかい笑顔で、そんなことを――言う。
不覚にも顔が熱くなるのを覚える。どっどっと脈が激しく打つ。きっとひどい顔をしている。そんな顔を見られたくなくて即座に目線を下げた。
だって、似合うだなんて言われたこともない。母や父には言われたことがあったとは思うが、それ以外の人に――言ってもらえるような関係を作れたためしがなかった、からだ。
こんなにもまっすぐな目で、なんの裏もなく似合うと告げられて。
その柔らかい笑みと穏やかな声を肌で感じて、ようやく悟る。
顔が熱くなって、胸が切ないくらいに痛くなって、手を伸ばしたくなる。その衝動の、この気持ちの答えは――きっと。
「どうした?」
「あ……いえ、なにも。なにも、ないです」
きっと、恋をしている、というほかになさそうだ。
自覚すればあとはもう早い。角の無い丸みを帯びた、心配する言葉に鼓動が早くなって、息が出来なくなる。恋なんてしたことはないけれど、胸が痛い。
けれど言うつもりも、言える気もしなかった。だってハチさんは、妖の世のことなんて忘れてしまえと、こちらに逃げ道を探すのは間違っていると事あるごとに言うのだ。望んだところで、困らせてしまうのは目に見えていた。
だから、
「なんでも、ないです。行きましょう」
と。少しだけ笑って、彼の先を歩いた。
ハチさんもそれ以上問うことはなく、再び塀の上を歩き出す。肩に羽織った布のおかげで肌を焼く熱はひき、少し歩きやすい。
「もうそう遠くないはずだ。ヒヅキに確認してきたし」
「ヒヅキさん?」
ヒヅキさんがこの町に詳しいことは今更不思議にも思わないが、ハチさんとヒヅキさんの仲がいいのは良く考えると不思議ではある。
ハチさんが真面目で慎重だと言うなら、ヒヅキさんはいい加減で大雑把だ。アカガネさんの羽織を返していなかったことも、ハチさんの口ぶりからして案外抜けているのだろう、ヒヅキさんは。
それでもヒヅキさんの家と言っても差し支えない社にハチさんを泊めるのが不自然ではないくらいには仲が良いのだと思う。いくらハチさんが今にも死にそうであっても、この土地の一番大事なところにそうそうやすやすと上げていいわけでもないし。
それは――どんな、きっかけだったのだろう。
仲良くなるのにきっと時間はたくさんかかったはずだ。今のようになるのには、それこそ何年も、何年も。だって私は肉親で、二十年弱も一緒にいたふたりと腹を割って話せる仲にもなれなかった。
肉親という切っても切れない縁で出会った二人ではないなら、なにか特別な出会いがあったのだろう。だって、私は死にかけの猫に出会った。その猫が妖だなんて、そうあることじゃない。
だから、二人は、どんな特別な出会いをしたのだろう。
「……ハチさんと、ヒヅキさんはいつから仲が良いんですか?」
「は? いや、別に仲良くはねえな?」
聞こえなくてもいい、とぼそと尋ねたのだが、届いたらしい。何言ってんだ、とばかりに首を傾げて振り返った。
「え、あれ……仲良くないですか?」
「まったく? 世話にはなっちゃいるが、食うもんも趣味も話も何一つ合わん。あんな若造と合う話なんか持ってねえんだよ」
すごい言いようだ。予想通りではある。
ハチさんは肩を竦め、両手を振って「ねえわ」と繰りかえす。
「そもそもあいつと知り合ったのだってここ数十年だ、浅い仲だよ」
「数十年なのに?」
「人と違って、妖にとっての数十年は瞬きにも等しいものだからな」
命の長さが、人と妖では違う。時間の流れの感じ方も違って当たり前か。人が数十年を長く感じるように、同じ感覚だったら……だったら、どうなるんだろう。生きているのも嫌になるのか。
「……まあ、ヒヅキにとって同じかは知らんがな」
「え?」
「ヒヅキは若造だからって話だ」
ヒヅキさん、社守になって長いようだけど、それでも若造なのか。見た目は私と変わらないか、もう少し年上くらいなのに。いや、それを言ったらハチさんだってだいぶ若い見た目だけども。
「ヒヅキとの出会いはそうだなあ……飯をな、貰った」
「ごはん?」
「腹減っていっそ吐きそうなときに。あの飯だけは美味かったんだよなあ」
思い出しているのか、軽く舌なめずりをするハチさん。ヒヅキさんのごはんはどれも非常に美味しかったのだが、ハチさんの口にはそんなに合っていないらしい。
と、そんな思いをこめて「そうなんですね……」と相槌を打つと、「ああ、いや、味の問題でもねえよ」と返答があった。味の問題ではない?
「そこじゃあねえの、オレみたいなやつは特にな。おまえにはいらん知識だから教えてやらんけど」
「ええ、なんですか、それ……」
「何度も言ってるだろ、妖の世側のことなんて知ったところで危ないだけだ。下手な興味は身を滅ぼすぞ」
そう言われてしまえば、私は口を噤むほかない。このひとにあまり嫌われたくない……というか、悪い印象を持ってほしくなかった。どうせすぐに別れが来るのだ、それならば良い子でいたい。
けれど――そう、けれど。
妖怪に興味があるわけではない。ハチさんのことだから訊きたい、知りたい、同じことを考えたいと思うのだ。教えてやらない、との線引きは彼なりに私を慮ってのことだと知っているけれど、その線が拒絶に思えてひどく寂しくなる。
勝手な、言い草だとは分かっているけれど。
「ほら、そんなことより、着いた」
「着いた、って……ここ、お寺、ですか?」
白い階段が二十段ほど続き、厳かな門が佇んでいる。階段横には道に乗り出すほど大きな樹が聳(そび)え立ち、大きな日陰が出来ている。高さの関係で良く門の向こうは見えないが、門と同じく随分古い建物であることは伺えた。最近できた寺ではなさそうだ。
ハチさんは塀に腰を下ろし、足を投げ出す。距離が少しだけ縮まり、図らずして体温が二度ほど上がる。
「大事な話だ、ちゃんと聞け」
「う、あ、はい」
体を折り、私の耳元に顔を近付けたハチさんの、いつになく真面目な声音。指先を寺に向けて、私もその先を注視する。吐息がかかってくすぐったいとか、そんな思考を飛ばすように目頭に力が入った。
「この町にいる間、オレやヒヅキがそばにいなくて、何かあったとき。あの寺に逃げ込め、幸いそう遠くないから、走れば二分としないで着けるはずだ」
「な、なにかって、アカガネさんが来たりとか、ですか?」
「いや。アカガネだったら家に閉じこもっていた方が安全だ。あいつは妖だからオレたち同様許しがなければ家には入れないつーか、おまえの緊急時はアカガネしかねえのか」
だって、これまで生きてきて一番死にそうになった出来事はアカガネさんのくだりだ。素直に伝えると、アカガネなんかよりももっとやばいやつだ、と。ハチさんは苦々しげに吐き捨てた。
「さっき言っただろ、おまえの赤い目をよく思わない奴がいるって。それはあれだ、おまえと同じ人間なんだよ」
「……え?」
人? 私と同じ、人がどうして赤い目をよく思わないのか。
想像していた災厄よりもすっと身近で意外な答えに素っ頓狂な声が出た。確か、この町はもう二つに分かたれて長いのではなかったか。だからてっきり、アカガネさんのような脅威だと思ったのだけど。
「妖側の管理者は主と、眠る主の代わりのヒヅキだ。だけど、人の世にまでは干渉できない、できてしまえば分けた意味がないからな。……なら、人の世は誰が統率するんだ?」
「……あ」
この土地を分けたという話、どうも妖の主の独断で行われたものでもなくて、人と協定を結んだ上でのことらしい。よく考えればそれはそうだ。妖が人に害を為すことがあったのなら、その脅威から人を守ることを生業にする存在がいてもおかしくない。そしてその者たちにしてみれば見鬼が育たない土地になること、二つの世界を分けることは食い扶持を奪われると同義だ。
今この町で人の世に出てくる妖は、きっとイレギュラーなのだ。ヒヅキさんは知っていて、でもすべて止めにいくことはできない。彼の本業は社守、社を離れすぎては元も子もない。
だけれど、人を食べたがる妖はいると言っていた。夜中に一刻程度だけ繋がる木戸を抜けて、こっそり町を練り歩き、食べられそうな人を探す。たとえば、ほら、私――みたいな。こぼれ出てきたものを拭い、人々の安寧を守るのが人側の統率者、ということだろう。
私はよそで育った見鬼だから、例外かもしれないけれど。
「そいつらにとって、見鬼の赤い目はその均衡を崩す可能性のあるものだから放っておけない。人側の統率者にとってはあっちゃいけねえものだから、よそで育った見鬼がいるなら排除の対象ってわけだ」
「排除って?」
「見鬼を引き剥がす。たぶん」
はがす、とは……物騒な。ぞっと背中が寒くなり、両目に寒気が届いて痛む。
人の世を治めるのが目的というのなら、人の世に酷い痕跡を残すことはしないだろう。そのため、剥がすと言えどほんとうに引きずり出されたりはしないと思うけれど、しかし怖い話だ。
「で、そこの寺は唯一その連中が手を出せない領域だ。駆け込めば庇うくらいはしてくれる」
「……あの、ハチさん。私の赤い目、失くしてしまえばハチさんたちとの縁も切れてしまうのでしょうか」
「そう、なるだろうな」
ハチさんはすうっと目を細めて告げる。
常々、自分たちとは縁を持つな深めるなというハチさんらしくない。ほとんど人の身体に戻ってきている以上、いっそこの目なんて捨ててしまったほうが、よいのではないか。
いや、もちろん。もちろん、この赤い目を捨てればハチさんには二度と会えなくなる。そこにいたとしても見えなく、感じなく、分からなくなる。かろうじて交わっている私とハチさんの世界は、二度と交わらなくなるだろう。分かっているから、ほんとうは黙っていたかった。
ハチさんが無意識のうちに、あるいは口では反対していても私との縁が切れることを恐れて、策を講じてくれているのならそれは蜜が滴る熟れた果実の如く、私の飢えた心を潤すだろう。想いを寄せた相手にそんなふうに想い返してもらえるなら、それはひどく甘美で、幸福だ。
だけれど、私の心は潤されることより不確かなものに依存して期待して、裏切られることの方が怖かった。私はたぶん、夢を見ることすら満足にできないのだ。夢を夢と割り切って、楽しむことができない。
明らかにしないまま、心の中で飼ってしまえば徐々に肥大化して膨れ上がり、たった一度、ハチさんにそんな気はないと知らされてしまった時点で破裂する。
そしたら、立ち直ることなんてできない。
ああ、なんて――なんて、弱虫で臆病な脆弱さ。
だからハチさんには、私との縁を切りたくないという理由だけは持っていてほしくなかった。そんな甘い毒は、ほしくなかった。
ハチさんは「おまえにここを教えておこうと思ったのは」と風に揺られる階段横の大樹を眺めながら語り出す。道路向こうの大樹はいくつか、葉を散らしている。
「あいつらの剥し方は痛いらしい。おまえがその目を持って帰ることは反対だけど、わざわざ痛い思いをさせたくはないからな。帰るときにはきちんとその目、引き取るよ、ヒヅキが」
「い、痛いのは……嫌ですね」
「そうだろ? もう妖の力を借りたり妖との命のやり取りをする必要が無くなったから、人もひどく弱くなったよ。中途半端な術しか使えねえ」
そうなんですね、と相槌を打つ裏では安堵に胸を撫でおろす。よかった、恐れた答えはない。ハチさんは今も変わらず、私があの日死にかけたハチさんを助けたことに対する恩を返すためだけに私を案じてくれている。
このくらいの、心配はほんの少し目頭を熱くさせるだけだ。
「……っていうのが八割。ほんとうはさ、オレはおまえとそんな突然別れが訪れてほしくない」
「……ッ」
あ、だめだ。その先は。その先は聞きたく、ない。
ハチさんは泣きそうな顔を私に向けて、でも手を伸ばしたりとかはしなくて。喉に痞えるなにかを堪えて飲み下そうとしているような苦しげな表情だけを私に落とした。
「おまえがいなくなるのが、どうしたって、やっぱり、寂しいんだよ」
「――ッあ、ハチさ、ん」
期待したくなる。期待してしまう。あの日の恩以上に彼が私に何か思うことがあるかもしれない。ともすれば同じ思いを抱いてくれているかもしれない。
あと二週間足らずで八月は終わるのに。八月の終わりを待たずに私はこの町を出て行くかもしれないのに。
終わりが決まっている期待は身を滅ぼす。だのに形容しがたい、置いて行かれるのが寂しくて仕方がないなんて顔、されたら。
ハチさんに思わず手を伸ばして、わざと距離を置くために塀の上に座る彼に触れようとした――その時。
ハチさんが弾かれたように素早く塀からくるりと降り立ち、着地と同時に私を強く、道路の方へ押し出した。私は二、三歩後ろへよろめき、バランスを崩して倒れ込む。反対側にあった大樹の日陰に入り込んでしまったらしく、視界が一気に暗くなる。あまりに突然のことに驚いた。
「はちさ――ぐ、む!?」
こちらに背を向けたハチさんに何故を問おうとして、それは口を塞がれることで阻まれる。ひやりとした柔らかい何か。背後から回されたこれは手だ。
次いで、ふわりと花の匂いがしたかと思うと耳元に吐息が掛かる。
「静かにしなさい、化け猫の咄嗟の判断を無駄にするのかしら」
抑えた中にも分かる愛らしい声音。年端もいかない少女の声だ。先ほどまでこの樹の下には誰もいなかったのに、どこから現れたのか。
その手の主は振り返ることどころか身じろぎひとつ許さない力で口を塞いでいる。ハチさんの名前を出された以上、無為に抵抗することは躊躇われた。
「そう、静かにしていなさい。あの化け猫もきっと彼奴らの醜悪さは知っているはずだから、うまくやり過ごしてくれるはずだわ」
彼奴ら、というのが何を指すのか。その答えは数秒と待たずに発覚した。
「やあ、化け猫風情がどうして真昼間の、こちら側にいるのかな?」
それは、黒く艶やかな髪を高い位置で二つに結わえた女だった。サイドの髪が一房だけ鮮やかな青色なのが目を引く。一際強い日差しの日だと言うのに黒いワンピースを着ている。ゴシックロリータ、に分類される服装だ。フリルに縁取られたスカートは生地やボリュームこそ薄目なものの、真黒である一点がひどく夏の光景に似合わない。
薄く引いた笑みには感情が乗らず、真意が読めない。彼女は緩やかな歩調で化け猫さんに近付く。両手で支える日傘を悪戯にくるくると回している。
「ただの散歩だ、天気が良いからな」
「あれ、散歩ぉ? そんなもの向こう側で勝手に済ませなさいな。それより――まさか、人の子と逢瀬を重ねていたり、しないよね?」
その問答で、彼女が誰なのか、否が応でも悟ってしまった。白魚のような指先でハチさんの心臓辺りを突いているあの少女は、先の話で出た『赤い目を、見鬼をよく思わない者』の一人だろう。
ハチさんが粗雑とはいえ私を離れさせた意味が分かった。当然にハチさんの姿を捉え、あんなふうに喧嘩腰になるくらいだ。私に見鬼の力があると知られればどうされるかなんてわかったものではない。
遠いのと、目を細めて笑っているせいでよく見えないが、きっと彼女も赤い目をしているに違いない。
「するわけないだろう、バカ言うのも大概にしてくれ」
「そお? なら疑われるようなことはしないでいただきたいな。ボクは日向の当代、怪しいものは排除しないとね。それがあの白狐との協定らしいし」
「そんな物騒なものでもねえだろ。お互い関わらないってだけで」
「そう、そうだよ」
ハチさんが嫌そうながら彼女の肩を押し、距離を置く。日向、と名乗った彼女はそれになんの不満も示さず、笑顔も崩さなかった――が。
「けれどね? おまえたちにそのつもりがなくともそこにいるだけで影響を受けるのがヨワイ人の子なのよ。分かったら用もないのにこっちに出てこないでくれる?」
急にすっと真顔になったかと思うと、猫なで声から一転、低く威圧するような物言いに変わった。なまじ形の良い顔であるがゆえに凄みが効いている。一歩間違えばハチさんの首根っこでも掴みかねない勢いだ。名前を呼びそうになったけれど、相変わらず口が塞がれているおかげで留まれた。
ハチさんはというと、さして動揺する素振りもなく平然と少女を見下ろしている。少女の物言いに対する返答は一つ、
「もう帰るからいいだろう、そんな喧嘩腰ではするつもりもない神隠しも――したくなるぞ?」
と、負けず劣らず煽りを含めたものだった。実際ハチさんが神隠しすることなんてないだろうけど、ちりっとした痛みが走る。ハチさんはハチさんで、威嚇しているみたいだ。尻尾の毛が少し逆立っている。
思っていたよりも、ずっと人と妖の溝は深いようだ。協定は仕方なかったものであって、両者積極的な合意に基づいて結ばれたものでもないように思える。
「――なんて、冗談だ。今日はほんとうに散歩に来ただけだ。帰るから、おまえもさっさと家に戻れ」
「ボクに指図しないでくれる? 大体猫の散歩なんて当てにならないよ、無類の人好きのくせに」
「オレはもう野良もいいところだ。家猫と一緒にしないでほしいな」
「どうだか。木戸までボクも着いていくから、さっさと帰れよ化け猫」
ほら、と少女が日傘を軽く振って帰路を指す。ハチさんは舌打ちでもしそうな顔をして、しかし素直に彼女の言うことに従うことにしたらしい。一瞬こちらに目を向け、何か探すように揺らぐ。もしかしたら、今私が誰かに捕まっている様子を心配しての動作かもしれない。
すると、ざわざわと大樹の葉が揺れた。不思議と風もないのに一枚の緑葉がふわりとハチさんのもとへ届いた。少女は既に歩き始めており、その葉に気付くことはなかった。
その葉を受け取ったハチさんは一抹の不安を残しながらも安堵し、少女の後を追った。
置いて、いかれてしまった。それはきっと彼女の目から私を隠すためのものだった。しっているけれど、あの背中を見ていると胸が締め付けられた。
「行ったわね。まったく、あの家の術師はどうしてああも性悪なのかしら」
「ッは、あの、あなたは……?」
二人が見えなくなったところで、口を塞ぎ身動きを封じていた誰かが離れた。急に拘束を解かれてよろめきつつ、匿ってくれた誰かに振り返る。
流れる黒髪に赤い花飾りが良く映え、落ち着いた赤い着物がよく似合う童女がいた。あの赤い花は椿だろうか? 独特の大ぶりの形が愛らしい。
「わたしはこの樹の精。べつに助けたくて助けたわけではないから、馴れ馴れしくしないで」
「はあ……」
木精だから、誰もいないところに急に現れたのか、と一人納得する。
それよりもさっきの真黒の少女のことが気になって仕方がなかった。ふたりきりで、ハチさんは大丈夫なのか。
「大丈夫よ。あの猫にはあなたをわたしが隠していることを伝えたし、変にことを荒立てなければなんなく返してもらえるわ」
「ふ、ふたりきりでも大丈夫ですか?」
「ええ。あの黒づくめは性悪だけれど、積極的に境界を犯すことはしないわ」
それなら、よかった。ハチさんはきっと上手くやるし、ほっと息を吐く。
木精はふん、と鼻を鳴らし、腕を組む。
「あなた、安心するのは早いわ。あの性悪は目敏いから、きっとすぐ見つかるわよ。――この町、早く出て行きなさいな」
「……えっ」
「え、じゃないわ。化け猫が今庇ってくれたことも無駄にしたいの?」
童女は童女らしからぬ無表情さで嘆息混じりに言う。
それは、ハチさんも言っていた。私をよく思わない人は私を探す。居るかどうかの確信がなくても、普段こちら側に来ない妖がいれば疑いもする。この木精の言うことは正しいのは、分かる。
「で、でも……まだ、帰れなくて。もうおばあちゃんちから、出ないですし」
「なあに、あなた、日向の卑陋(ひろう)さを知らないの? ……ああ、いえ、あなた見鬼だものね。この地で育っていなければ知る由もないかしら」
「あの、すみません……ひなた、って人側を治める人の名前、なんですか?」
「個人の名前ではなくて、家の名前だけれどね」
つまり、苗字だろうか。そういえば彼女は『日向の当代』と自称していた。恐らく連綿と続く家系なのだ。
「日向はこの町で唯一、見鬼の目を持つ家よ。いくらか弱くなったといえ、術も見鬼を剥す術も健在、見鬼を排除する気概もひどくあるわ。あなた、さっさとこの町を出て二度と来ない方が良いのよ」
「木精さん、は……どうしてそんなふうに……」
「助けるつもりはないわよ。わたしは人の子なんか嫌いなんだから」
木精をはじめとする自然物に宿る妖は基本、本体からそう遠くに離れて生きることは出来ない。木であるならなおさら動かすことは容易ではなく、多くのそれらは二つに分かたれた後も人の世に残っているのだという。
もとより木精は穏やかで、人に積極的に関わる性質でもない。関われるだけの妖力を蓄える頃には生の短い人如きに心を寄せたりはしないから、日向に目の敵にされないらしい。案外、きっちり分けられているわけではない。
「……けれど、そんな木精の心を動かす人の子だっているから、こんな分け方意味がないのに」
「心があれば絶対に動かされないなんてことはない、ってことでしょうか」
「ええ、そういうことね。……どうしたの?」
何の、言葉だっけ。誰の言葉だったっけ。口を衝いて出た言葉は紛れもなく自分の声で紡がれたのに、なんでそれを言ったのか、わからない。
自分ではない誰かの言葉だ。私はそんなふうに思えたことはない。心動かすなんて大層なこと、したこともしようとしたこともない。ない、はず。
「…………あなた」
木精が怪訝に、あるいは不機嫌に顔を顰めている。私の両頬を抑えて彼女と強引に目を合わせられた。
「あなた、あの化け猫に心を寄せているのね」
と。とんでもなく不愉快なものを見せられたかのように椿の木精は鋭い目つきで静かに言い放つ。責めるような、許せないものをみるようなそんな目だ。
見抜かれた、いや、見透かされた。浅ましく、ハチさんと離れるが惜しくて今すぐに離れる選択をできない。だから帰るとすぐに言えなかったことを。
顔が熱い。恥ずかしい。そんな私に木精は「忌々しい」と強く舌打ちをする。
「やめておきなさい、人と妖の恋なんて辛いだけだわ。大切な何かを差し出して、それだってひとつじゃあ足りないの。恋以外の全てを捨ててなんにもなくなったとしても、報われるモノじゃない」
頬を挟む手がぎりぎりと締め付け、言葉に御しきれぬ感情が迸る。奥歯をかみ砕く勢い、歯が軋む音がするくらいの強い感情。
「そうやって全部捨てた人の子を知っているわ。ろくなものじゃない。人の家族を捨て、友人を捨て、傷ついた心を癒す術を捨て、限りあるから美しく穏やかな眠りを得られるはずの命を捨てて。ただひとりの女のために、人であることを捨てた子。そんなにしてまで、あの子は未だひとりきり。それだけ捨ててもふたり結ばれて幸せに、なんてなれないのよ」
捲し立てる木精の言葉。木精はさらに言葉を――現実を、突き付けた。
「早く、この町から出て行きなさい。そのほうがあなたのためだわ」
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