掬うゆめ
日櫃 類
掬うゆめ
どこからか、祭囃子が聞こえてくる。遠のくような、近づいているような、不思議な音だ。音の出所はどうやらこの林の先らしい。林というには密度の高いここは薄暗い。
お囃子に誘われるようにして林の中に足を踏み入れる。木々の先にあたたかい赤色がうすぼんやりと浮いているのが見える。その灯りに向かって進むと、それは提灯であることがわかる。一定感覚に吊られ丸い提灯の赤が辺りに塗りこめる黒の中で一際目立っている。
その赤の中へ一歩入ってしまえば、もう、振り返っても何も見えない。ただただ闇が広がるのみである。提灯に彩られたこの道だけが浮世から切り離されてしまったと錯覚する。
祭囃子は大きくなる。太鼓の音に笛の音。不思議と人の声はしない。提灯の道を進むにつれて腹の底に響く重みを増した。
「おや、祭りに参加かい」
あと少しで祭りの会場に着くだろうというところで、声を掛けられた。横からだった。
驚いてそちらに顔を向けると、浴衣を着たすらりとした男が立っていた。艶のある黒髪は襟足が長い。顔は半分、白い狐面で隠しているが、それでも薄い唇、透き通るような肌、黒々とした瞳から相当の美人であることが伺える。紺色の浴衣がよく似合っていた。
一瞬、反応に遅れた。見とれていら、といえばそうかもしれない。こんな美人を見たことがなかった。すると、男は寄り掛かっていた樹木から離れ、一歩近づいてきた。
「……ええ、まあ」
「そう。学生とは、珍しいお客さんだね」
不思議な声音だ。声と呼ぶよりは何かの楽器の音だと言ったほうが納得できるかもしれない。男は形のいい顎を、男にしては細い指で撫で、ふむ、と唸った。爪は黒く塗られている。
「私は今暇をしていてね、良ければ祭りの案内をしたいと思うのだが、どうかな」
そういって男は手を差し伸べてきた。皮の下にすぐ骨のあるような、細い腕だった。
この祭りは、確かに初めてだ。勢いで来てしまったのだが、ただでさえ日が沈んでもう大分経つ。その上林が思ったより長かった。それに不安を煽られたのは確かだし、実を言うと緊張していた。一人で行くことを避けられるならありがたい申し出ではあった。
しかし、だ。よく知りもしない人と二人きりというのは、それはそれで、不安がある。提案を額面通り受け取ってよいものなのか。
地面の表面を泳がせていた視線をちらりと上げると、黒曜石の瞳と目があった。小首を傾げて、微笑まれる。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
「よしきた。任せろ」
結局頼んでしまった。さっき目を合わせてしまったことでなんとなく断りがたい雰囲気になってしまったのだ。男はなぜか満足げだ。
では行こう、という男の声について、歩き出す。祭りはもうすぐそこなのだろう。囁きのような人の声が祭囃子の中に混じって聞こえる。
「そうだ、まだ名前を教えていなかったね。私はサクヤ。好きに呼んでくれ。君は、と」
その前に、とサクヤが手招きをしたので、一歩歩み寄る。サクヤはその口を耳元に寄せ、囁くように言った。
「ここで本名は良くない。本名は聞く人に聞かれてしまえば大変なことになる。気をつけて」
「じゃあ、どうすればいいですか」
「そうだね、本名をもじればいいのかな」
「じゃあ……ハツ、で」
顔を離して、サクヤは笑ってみせた。
大変なこと。名前を知られてはならない。ハツは背中に空寒いものを感じて、ふと後ろを振り返ってしまった。来た道が変わらず提灯に照られているだけではあったが。
再び歩き出したサクヤの後ろを着いていくこと数分、ようやく出店の並ぶ祭りの開催地に着いた。提灯の柔らかい灯りが店頭や頭上に下げられていて、明るい。提灯がたくさんある所為で少し暑いが、祭りらしい熱気だ。
一番近い店では面を売っていた。面を吊った台が二つあり、その中央に店主が座っている。店主は肌を全く見せないよう長布を頭の先から首まで覆っている。息苦しそうだし、どうやってものを見ているのだろうとハツは思った。商品の方はサクヤのつけている狐面はなかったのだが、犬面や鬼面などが吊る下がっている。ハツは何気なく見ていたのだが、その一番下の列が目に留まった。他の面とは違い、ただ白いだけの面がそこに並んでいる。作りかけ、なのだろうか。そうだとすればなぜ店頭に並んでいるのだろう。
「あれは死に面だよ。付けたものの死に顔の形になる」
疑問が駄々漏れだったのだろうか、面屋を凝視するハツにサクヤが言った。死に面などという物騒なものにぎょっとしてサクヤを見遣ると、サクヤはふふっとおかしそうに笑い、反対側の面棚を指した。
「あちらの一番上は想い人につけさせると意中の相手の顔になる面、その下は愛しい人になれる面。ああ、あと、相手の血で顔を書けばその相手の顔に思うがままに傷をつけられるようなものもあるね」
「……物騒ですね」
「そうかい?」
サクヤがつらつらと並べ立てる説明に、ハツはぼんやりとした感想しか出てこなかった。面のいくつもの目玉に見られている気がして、そんなことはないとは分かっているのだが、今の説明を聞いた後ではあまり見ていたいとも思わず、すっと視線を外した。視界の端に映った面屋は微動だにしていない。
最初の面屋が異常だったのではないことは、すぐに分かった。見た目は普通の祭りと変わらない出店もあるが、サクヤの説明を聞くと、そうも言っていられない。
「ああ、あれは想い人の心を射止めることの出来る射的だね。難しいって評判だからお勧めはしないよ。向かいの店は金平糖屋だね、もちろん普通の金平糖じゃあない。カラフルなあれらは食べれば自分の『いいところ』だとか『わるいところ』が分かるようになっている。味は食べるものに依るね。その奥は、うん、あれは人気だな。知恵を得られるりんご飴。学校の勉強だけじゃないよ、生きる上であったほうが絶対いい、いろんな知恵ね。あとは――」
石畳の上を真っ直ぐ行き当たるまで歩いた。途中に二箇所ほど十字路になっていたのだが、そちらまで回る前に先に奥まで来ておこうというサクヤの提案にのったのだ。
石階段の中腹に腰掛けて、ハツは大きくため息を吐いた。石階段の上には何があるかは分からない。提灯の道はここで途切れていた。
「……この上、何があるんですか」
「この上? お社だよ」
「お社?」
「そう、ここの祭神の、コトユイ様のね」
コトユイ様。
確か、この祭りの名前が言結祭りだった。恐らく漢字もそれと同じものをあてるのだろう。
首だけを上に向ける。空は想像以上に遠い。周囲の林の木々の背が高い所為だろう。さらに角度をあげてみても、石階段がまだ続くだけでお社とやらは見えそうもない。
「どうだい、祭りは」
「なんか、聞いていたとおり不思議な祭りですね。まともなものは何一つ売ってない」
ハツは言結神社で夏のたった七日間、開かれる祭りがあると聞いて訪れた。麓の町では廃神社として有名なここで開かれる祭りなど、信じているものの方が少ない。
言結神社で行われる祭りは、普通の祭りではない。
訪れたものの願いを叶える祭り。
何でも一つ、願いの叶う幽世の祭り。
されど――祝はふりと呪かしりは紙一重。
町にいる者ならば誰でも知る、言結祭りの唄である。
この祭りへは、ハツが来たとおり、存外簡単に来ることが出来る。だが、町で育つ子どもは皆、行ってはならぬと教えられる。当然大人もこの祭りへ来ることもなく、ハツ自身、疑いながら来たのだ。
果たして、確かに祭りは開かれていた。噂と違わず、確かに普通の祭りではなかった。
「それで?」
しゃがみこんだまま、指先を玩んでいたハツにサクヤが訊ねる。
「今見てきた中に、君の願い事に沿う店はあったのかな」
ハツは重い首をもたげた。見てきた、立ち並ぶ店々に目を向ける。死に面を始めとする不思議な面を売る面屋。心を射止める射的に自分を分かる金平糖、知恵を得られるりんご飴。どれも魅力的で、欲しいと思わないわけではない。だが。
「いえ、なかった」
あの中に、ハツの望むものはなかった。
答えを聞いたサクヤは「そうだろうね」と頷いた。面が顔の半分を隠している所為で、表情が量り知れない。切れ長の目を細めて、口角を吊り上げ、サクヤは問うた。
「じゃあ、君は何を求めて祭りへ来たんだい?」
ハツは、一瞬の逡巡の後、ちらりとサクヤを見遣ってから、二度目のため息とともに口を開いた。しばらく歩いてみて分かった、この祭りで一人だとしたら、多分目的にはたどり着けない。サクヤに素直に話しておいた方が得策と思えた。
「……ここは『何でも』願いが叶うと聞いたから。死んだ幼馴染に会いたいんだ」
「ほう、死んだ。そういう願いは毎年いるね」
癖なのだろうか。サクヤはまた顎に触れて頷いた。
ハツは「毎年いる」という部分にバッと顔を上げた。ここへ来てからもずっと消えなかった、荒唐無稽な噂話を信じた自分を嘲るような気持ちが薄らいだ。死者に会う、なんて半分も信じていなかった。ところが、ちゃんと『何でも』の範疇に入っているらしい。
「ん、ん、まあ条件が難しかったりお高かったりするけれどね。その子が亡くなったのはいつ?」
「五日前、です」
「ふむ」
サクヤは自分の指を折り曲げて何かを計算しているようだ。白く、長い指が折り曲げられていく様は妙に不安を煽った。ハツはサクヤの次の言葉を手に汗握りながらじっと待った。
「祭りが始まったのは六日前だから、うん、それくらいじゃあ大丈夫だろ。ハツ、案内してやる」
「本当ですか!?」
よっこらせと重そうな腰を持ち上げたサクヤに、ハツが掴みかかる勢いで後を追い立った。それを薄情にもサクヤがひらりと避けたために、ハツは危うく階段から転げ落ちそうになった。なんとか爪先で踏ん張り、腕でバランスを取って落ちずにすんだハツをおいてサクヤは悠々と石階段を下りた。
「本当かそうかは自分の目で確かめるといい。私には案内しようとしているものが君の求めるものであるものか、判断がつかないのだよ」
肩越しにそういうと、サクヤは一つ悪戯っぽく笑って歩き出した。サクヤの履いた下駄がかろんころんと気持ちいい音を立てていく。
ハツもそれを慌てて追う。ハツの安いサンダルが石畳を蹴り、ざりっと砂が舞った。
来た道を戻る。その途中、一つ目の十字路をサクヤは左に曲がった。曲がった先もすぐに行き止まりになっているわけではなく、ともすれば入り口から石階段までよりもずっと長そうだ。
サクヤが最初に紹介してくれた店よりも一段と浮世離れした店が並んでいる。この世のものとは思えない美しい玉を大きな桶に浮かべている店や、くじ引きであることは分かるのだが紐の先の景品が明らかに蠢いている怪しげな店。しかし、ハツはそれらがまったく目に入らなかった。ただひたすら、サクヤの後を着いて行く。
やがて、サクヤは一つの店の前で足を止めた。曲がってからそうは歩いていない。
「やあ、いいかな」
「これは、サクヤさん。珍しい、何かお探しですか」
「いや、私ではなくてね」
サクヤがハツをそっと前へ押し出した。
店は、祭りらしい雰囲気を保ちつつもどこか透明感がある。店の前に置かれた大きな水槽。夏らしいガラス細工のような模様が入っており、張られた水に揺れてとても綺麗だ。そこを泳ぐのは、ひらりひらりと尾をたゆたわせる金魚たち。祭りの定番であろう、金魚掬いの店だった。
「ほうほう。少年、何をお探しかな」
「あ、えと」
「幼馴染に会いたいそうだ。亡くなったのは五日前」
途惑ってサクヤを振り返ると、サクヤが代わりに店主に告げた。
どういうつもりだろう。ハツが探しているのは金魚ではなく、五日前に亡くなった幼馴染だ。意図が掴めない。
店主は深くフードを被っている。頷いて、フードの中から流れ落ちた髪は驚くほど真っ白だった。店主がハツを見る。店主は見上げていて、ハツはそれを見下ろしている筈なのにフードの中身が見えなかった。
「少年、ではそこへしゃがんで。これをどうぞ。その方の特徴を思い浮かべて」
「えっ、あの、でも」
「大丈夫、言いたいことは分かっていますよ」
カキ氷を食べるときに使うような厚いガラスの鉢と細い針金に和紙を張ったポイを渡されたハツは手元のそれと店主、背後のサクヤを順番に見遣った。店主は口元を柔らかく綻ばせ、大丈夫と言うが、何が大丈夫なのか。
サクヤはただ微笑むだけで何も助言をくれない。この期に及んで信頼できる人だったのか、なんて疑問は意味を為さない。覚悟を決めてハツは水槽の前にしゃがんだ。
言われたとおり、思い浮かべる。
「ああ、口に出したほうがイメージしやすいかもしれない」
思い出したように店主が付け加えるので、先に言えばいいのに、と内心思ってしまった。せめてもの抵抗に、ハツの声はか細いものとなった。
「……年は、同じ。誕生日はあいつの方が早かったけど。髪は薄い茶色、目の色とか肌の色も薄くて。そんで、ちっちゃかった。でもそれ言うと怒る。世話焼きで、ことあるごとにオレに説教して、でも、なんだかんだ一緒にいた。ほとんど、家族みたいなもんだった」
そう、ずっと一緒だった。目を閉じれば自分の前を歩く自分よりふたまわりも小さな女の子。怒った顔も泣いた顔も、拗ねた顔も笑った顔も。細かいところまで、ちゃんと思い出せる。ただ。
「事故死だった。市民祭りの帰りに、酔っ払ったおっさんに轢かれて。すぐに病院に運ばれていればよかったんだけど、結局轢き逃げで。その日のうちにもう亡くなった」
ハツが彼女の遺体を見たのはもうきれいに死に化粧を施されたあとだった。祭りに一緒に行って、帰り。送らなかった自分が、そのとき送っていれば。彼女は死ななかっただろうか。自分が庇えただろうか。
十七という若さは、あるいは幼さは、死を受け入れるには死が現実ではなさすぎた。こんな別れ方を誰が想定していたのだろう。彼女は最後の言葉すら、誰の耳にも残せなかった。
葬式が終わっても彼女の死に実感が沸かず、ふらふらと歩いているときにこの祭りの噂を思い出した。ここならば。これならば。もしかしたら、もう一度会えるかもしれない。会ってどうしたいまで考えているわけではなかった。ただもう一度、話がしたかった。
「ひやかしではないようで、なによりです」
金魚掬いの店主の声でばつんと集中が切れた。ハツは目を開いた。
「では、最後に、その方の名前を呼んであげてください」
「……つづり。小鷺こさぎつづり」
そして、すぅっと店主が水槽を指差す。ああ、あれは女の指だ、とハツは場違いにも思う。
「そのポイで、器に一匹だけ。金魚を掬いなさいな。さきほど浮かべた会いたい人を思い浮かべながら」
「ハツ。大丈夫、祭りはおまえの敵にはならない」
「……わかりました」
とん、とサクヤが肩を叩いた。金魚掬いは得意だ。昔から毎年市民祭りで友人たちと勝負してきて、ハツは毎年優勝していた。
す、と水にポイを潜らせ、金魚を掬う。
尾の長い、白と赤の可愛らしい金魚だ。他の金魚と比べて少し小さいようだ。手元の鉢の中に入れると、狭そうにくるくると回っている。
「お上手ですね」
「どうも。それで、どうすれば」
「袋に入れますね。どうぞ、大切にしてあげてください」
「え、あの、待って下さい! どういうことですか」
店主は慣れた手付きで金魚を鉢からビニールの袋に水と金魚を移し替えた。店主はその袋を差し出して、言う。
「わたしの金魚は、祭りをしている七日間のみしか生きられません。いえ、生きてはいないのです。この子達は、死者の魂を入れる器。いとおしいひと、のこしてきたひとに呼ばれて魂は帰ってきます。祭りをしている七日間、それも夜の間だけ、金魚に宿り。そして今日は祭りの六日目。あなたがその子を連れて帰っても、明日には金魚は死んでしまいます」
金魚に魂が宿る。ハツは差し出された手に吊られた小さな水の中の金魚をちらりと見る。
「魂が金魚に馴染むまで今しばらく掛かりますので、今ならまだ取り返しはつきます。この水槽に金魚を返せば今の取引はなかったことに出来ます」
この金魚を連れ帰って、つづりに会えたとしても、たった一夜。ハツはカラカラになる喉に唾を流し込み、振り絞った。
「……今この取引を止めて、もし来年、来年もう一度来て、同じ人を呼び戻そうとしても」
「それは出来ません。その夏、亡くなった方しか、金魚に宿すことが出来ません」
「それにね、ハツ。この祭りで叶えられる願いは一つだけ。この一夜限りの逢瀬を叶えてしまったらおまえは二度とこの祭りを使うことは出来ない」
どうします、と、どうする、という二つの声が重なった。
来年はだめ、しかし、今夜会えたとしてもやはり一夜限り。祭りを今まで見てきたが、それらはハツの興味をそそるものはたくさんあった。これほどの祭りで、それなのに、今このときだけかもしれない感情のままに一度きりの機会を使うのは間違っているだろうか。
ハツが金魚をじっと見つめて悩んでいる間も、サクヤや店主は黙って待っていた。それなのに早く結論を出さなくてはと思わされることもない。待つことに慣れているのだろう。
「オレ、それでいいです」
思考が終わったわけではなかった。だが、零れた。口をついて出た。それを訂正しようとも、思わなかった。
背後のサクヤがふっと笑う気配がした。店主は受け取れと言わんばかりに金魚の入った袋を揺らした。店の提灯に照らされて、水がほのかに色を持つ。ハツはそっとそれを受け取った。
「名前を教えて、少年」
「え? あ、でも」
本名は駄目だと、最初にサクヤが言っていた。誰が何に使うか分からない、大変なことになる。逡巡するハツに、サクヤが耳打ちする。
「本名はこの取引の時のみ使うんだ。大丈夫、取引の時に名乗った名前は他には聞こえない」
どういう仕組みなのかは知らないが、ここは人の世ではない。名前が大事なのは、空間自体が曖昧でそこに存在する自分たちも曖昧なものとなっているからだろう。昔からの習慣の強く残るハツの町では、名前というものは殊更大切にされているため、理解できる。
「火尾ひのお八貴はつきです」
「ああ、だから、ハツなのですね。ありがとう、もう大丈夫よ」
「あの、お代は」
「お金はいらない。この祭りではお金のやり取りはしないんだ」
祭りのことは知らないんだった、と説明を設けてくれたのはサクヤだ。店主は自らの商売のこと以外の説明をするつもりはないらしく、指先を水槽に入れて水に波を立てている。
「町に伝わる唄にもあるだろう? 『祝』と『呪』は紙一重。『祝』とはつまり、願い事を叶えてくれることだね。では『呪』、これは取引を受けた君に一つ、呪いをかけるということ」
「呪い、ですか」
「ああ。受けた『祝』に見合う『呪』だよ。君の場合は、そうだな……」
サクヤはじっとハツの顔を見つめる。深い漆黒に意識が飲まれそうになるのをぐっと堪え、ハツの頭に不安の影が過ぎる。お代として提示された言葉があまりいいイメージのある言葉ではないからだろう。
「うん、考え方によっては、重いかもしれないね。内容は明日になればわかるだろう」
「教えてはくれないんですね」
「そういう決まりだからね」
誰の、とは聞かなかった。ここは言結祭り。コトユイ様の祭りだ。そういう決まりならば、決めたのはコトユイ様ということだ。
恐らく時刻は日付の変わる直前だろう。そろそろ帰らなくては放任主義のハツの両親といえど心配する。ずいぶん長居した。
サクヤが「途中まで送ろう」と帰り道の付きそいも買って出てくれたので、迷子になることもなく林の入り口まで難なく戻ってこられた。行きは店の説明によく喋っていたサクヤだが、帰りは一言も喋らなかった。祭りもまばらに人がいるのは分かるのだが、不思議と喧騒にはならない。来た時と変わらない祭囃子だけが鼓膜を揺らしている。
「さあ、ここからは帰れるね。振り返ってはだめだよ、まっすぐ帰りなさい」
「はい、いろいろと、ありがとうございました」
提灯の赤に濡れる一本道は不気味だ。足元は悪い。手に持った金魚が時々ちゃぷ、と音を立てていた。
家に着くと、電気はついていなかった。どうやら両親は帰ってきていないらしい。もしかしたら、つづりの両親のもとにいるのかもしれない。つづりと八貴が幼馴染であったのは、両親が四人揃って仲が良かったからでもあるのだ。娘を失ってたった五日。つづりの両親は未だに塞ぎこんでいる。
八貴はまず仕舞いこんでいた金魚鉢を一度水で流した。昔は取った金魚を貰って帰って来ていたが、高校に入ってからは店に返すようになっていたから、使わなくなって久しい。少しすすけていた。
鉢に水を注ぐと、申し訳程度に作り物の水草を入れ、部屋に持っていく。部屋中央の丸テーブルの上に金魚鉢を置き、袋から金魚を放してやる。広くなった水の中に、心なしか、嬉しそうに見えた。
八貴は一度シャワーを浴びに部屋を後にした。あの祭りは暑かった。汗がTシャツと背中の間を流れていくのが分かり、気持ち悪かった。
そうして部屋に戻り、電気を点けるために天井から下がっている紐を探しているとき。
ぴちゃん。
水が跳ねる音がした。金魚だ。金魚が泳ぎまわっている。電気を点けた。自然と視線は金魚鉢に向き――
金魚鉢の中に、金魚はいなかった。
揺れる水面、心許無く揺れる水草。そこにいて、鉢にぺたりと掌をはりつけて、八貴を見上げているのは、金魚と変わらない大きさの、少女だった。白地の着物に、赤いアクセント。帯は腰で蝶著結びにされていて、たゆたう布の先はまるで金魚の尾だ。水の中でふわりと浮かぶのは薄い茶色の、柔らかそうな髪。色素の薄いからだ、見覚えのある愛らしい顔立ち――
「つ、づり?」
口の中が乾いて、言葉は思った以上に音になっていなかった。だが、そんなことはどうでもいい。鉢の前にへたりと腰が落ちる。ガラス越しに指を触れると、彼女は両手を指に合わせて八貴を見上げた。八貴を見て、大粒の涙を零していた。
「つづり、つづり」
ただでさえガラスと水で歪む彼女の顔が見えない。机に額を押し付けて呼ぶ声が震える。
小さいけど。金魚が化けたものだけど。間違いない、これは小鷺つづりだと確信する。
声を押し殺して泣く八貴のむき出しのうなじに水が飛んできた。飛ばしたのは無論金魚のつづりだ。八貴は金魚鉢に張り付いて何かを懸命に訴えるつづりを見た。口を精一杯開き、大粒の涙とともに何か。
な。
――なかないで。
「……つづり、無茶言うなよ。おまえ、死んじゃって、まだ五日だぞ」
――八貴。泣かないで。笑った顔が見たい。
「あー、待てって、今ちょっと難しいから。おまえこそ泣いてんじゃねえか」
互いに涙に濡れた顔を見せ合って、それがなんだかおかしくて。涙は止まらないのだけど、自然に笑顔になった。
涙が治まるまでにいくつか話をした。
「なあ、つづり。オレさ、おまえをここに連れて帰ってきて、話したいことはたくさんあったんだ」
しかし、金魚掬いの店主は言った。金魚に魂が宿るのは、祭りの間の、その夜だけ。明日は祭りの最終日で、口ぶりからして明日の夜には祭りは終わっているのだろう。
東の空はすでに白み始めている。直に朝が来る。八貴は目頭に再び帯びた熱を感じる。
話せる時間は有限だ。だから、もう、一番言いたいことを、言おう。
なあ、つづり。
「オレ、おまえと幼馴染でいれて、良かった。おまえに出会えて、良かったよ」
ずっと、おまえのことが好きだった。おまえがいなかった日が思い出せないくらい、ずっと好きだったんだよ。
つづりの涙はどうやら枯れてしまったらしい。額を無理に突合せ、金魚鉢の薄いガラス越しにつづりの声を聞いたような気がした。
気の強く、虚勢を張るのが上手い不器用な彼女の、精一杯の強がり。勘繰るまでもない、返答の言葉。最初からそのくらい素直に伝えて、返してもらえれば良かったのにと思わずにはいられない、そんなことば。
――わたしも。
――わたしも、八貴が好きだったわ。
*
「やあ、どうだった」
翌日、同じ時間。同じように林の中を通っていった先にサクヤはいた。昨日は暑いまでの提灯に彩られていた道が今日は疎らになっていた。祭囃子も聞こえず、祭りはもう終わりに近いのだと分かった。
ハツの手には水の入ったビニール。白と赤の金魚が沈んでいた。
「これは、ここへ返すものだと思って」
「うん、私が預かろう」
狐面は提灯の赤を受けない所為か、少し怖い。サクヤは金魚を受け取ると、手首に紐を通した。
「代償が何なのか、分かったかい」
「……はい。たしかに、オレの考え方次第ですね」
ハツは視線を落とした。今朝を思い出す。
両親は朝になってから帰ってきた。小鷺家に泊まったらしい。行った時に比べて妙に機嫌がよく、話を聞いていると、『小鷺つづり』が死んだことを覚えていなかった。『小鷺つづり』は、最初からいないことになっていたのだ。金魚の代償として彼が支払うことになったのは、つまりそれだ。
「オレしかつづりを覚えてない。手元には何も残っていないのに、オレはあいつを忘れることは出来ない、そうですよね」
きっといつか。
この忘れられないひりつく想いに苦しみ狂う日が来るかもしれない。寂しさに押しつぶされて、夢か嘘か自分で作ったものではないかと疑う日が来るかもしれない。
――けれど。
「ああ、そうだね。辛いと思うかい」
ざわ、と林が泣いた。木の葉の擦れる音が次第に大きくなり、二人の会話を遮る。サクヤは顎に手を当て、ひとつ頷くと石畳を歩いていった。
――いいえ、思いません。
その日が来ても、忘れる方がずっと痛くて、悲しかった。
ハツもその場を去った。彼がこの祭りを訪れることはもうないだろう。
掬うゆめ 日櫃 類 @ruisaider
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