第4話

 朝食を終えたコマチは、散歩に行かず、居室の方へ歩を進めた。

 一九九九号室を通り過ぎる。

 居室の並びはずっと続いている。映像を見たときから引っかかっていたが、どの居室も損壊していないのだ。誰かが直したのだろうか、翼竜が襲来した形跡など、どこにもない。

 何度となく通り過ぎている通路も、普段と向かう方向が違うと、どこか見知らぬものに思えてくる。果たして自分は何かの手がかりを得ることができるのだろうか、そんな先の見えない不安が押し寄せる。

 コマチは立ち止まる。

 彼女の視線の先に、八〇一号室の扉がある。映像の中で、吹き飛ばされていた扉だ。傷一つなく、何も起こっていないかのように、壁面にはまっている。

 コマチはそっと近寄り、ドアノブに触れる。

 扉はすんなりと開いた。中に入ると、セミダブルのベッドが目の前に見える。それ以外には、小型のモニターが一つ、手洗い用と思しきシンクと蛇口、ごみ箱、背の低い冷蔵庫。

 それだけだった。

 映像にあったスケッチブックもクレヨンもない。そもそも生活の跡がないのだ。ベッドは小ぎれいに整えられ、あるべきものはあるべきところに収まっている。

 手がかりも何もあったものではない。コマチはゆっくりと扉の方へ振り返る。

 扉の横には姿見があった。通り過ぎざまに、自分を見やる。

 硬い表情をして肩を落とした女の姿がそこにあった。


 コマチは冷凍睡眠室を訪れた。楕円形のいかにもなカプセルが、十個ほど並んでいる。かつて、コマチは、一番奥のカプセルで目覚めた。今は、すべてのカプセルの蓋が開いている。眠っている者は誰もいないのだ。

 部屋は三室に分かれている。一つ奥の部屋へ進むと、小柄なカプセルが同じく十個ほど並ぶ。子ども用だ。蓋はすべて開いている。

 一番奥の部屋には、犬猫用の四角いカプセルが、ロッカーのように積み上げられている。しかし、中が空なのは見なくてもわかる。コマチが冷凍睡眠に入る以前に、船内の犬や猫は絶滅してしまったからだ。

 生物はやがて滅びる定めなのかもしれない。そんなことを思いながら、コマチは引き返す。もう一度、冷凍睡眠に入ったらどうだろう。目覚めをうんと未来に設定して、ひたすら夢を見て過ごす。

 それも悪くないのかもしれない。


 ロイドはカレーライスを用意して待っていた。

 いつもの椅子に腰かけ、手掛かりを得られなかったことを伝える。

「まだ時間はたくさんあります。がんばりましょう」

「そもそもメアリの形跡が何も残っていないのが不思議よ。壊れている箇所だって、一つもなかったわ」

「当然です。本船には当時最新の自己修復機能が備えられていましたから」

 コマチは、開いた口が塞がらなかった。

「自己修復機能? 何それ?」

 ロイドは首を傾げた。あれ、お伝えしていませんでしたっけ、というような様子だ。

「コマチ様とお母さまが冷凍睡眠に入られた後、この船は何度かアップデートを行いました。その一つとして、自己修復機能があったのです。壊れた個所があれば、船のAIが感知し、復元を行います。廃棄物対策として、一定期間放置されている物品に関しても、自動的に分解・回収します」

 スケッチブックが見つからないわけだ。部屋だって、誰かが直したわけでも、片づけたわけでもない。

 おそらく、人類が消えた後、船が自動的に修復してしまっただけなのだ。


 数日の間、コマチは動画とのにらめっこを続けた。

 日中は映画館と八〇一号室の間を行き来し、夜になって自棄になったようにアルコールを摂取する。人生初めての二日酔いも経験した。

 『メアリのスケッチブック』

 ヒントはたったそれだけ。

 彼女には、頼れるものが何もないのだ。

 宇宙船は浮かぶ。


 ある日、彼女は百貨店でゴルフクラブを手に入れた。

 手ごろな居室の前に行き、クラブを振り上げる。

 あっけなく、扉は破られた。

 なおも振り下ろす。

 倒れた扉を踏み越えて、鏡を割る。

 壁に穴をあけ、シンクを砕く。

 ベッドに何度もクラブを叩きつけるが、布団が音を立てるだけだった。

 コマチは荒い息をつく。

 船の自己修復機能を確かめるつもりだった。

 彼女はゴルフクラブを放り投げ、ベッドに腰を下ろす。

 しかし、彼女が眺めている間、倒れた扉も、割れた鏡も、壁の穴も、砕けたシンクも、ぴくりとも動こうとしなかった。


「修復にはもっと長い時間がかかりますよ。特に、人が壊した場合には、何らかの事件の証拠となる可能性があるため、しばらくの間修復機能が働かないようにプログラムされています。コマチさんが壊した部屋について、修復が完了するのは数年先でしょうね」

 コマチは憮然としてロイドの言葉を聞いていた。これではただの八つ当たりだ。

 しかし、何も得られなかったわけではなかった。散らかった部屋を見ているうち、一つの可能性に行きついたのだ。

「ロイド、もう一度挑戦してもいいかしら」

「もちろん」

 部屋の入り口付近には、どの居室にも大きな姿見があるのだ。砕けた鏡が、カメラの方へ飛んだとしても不思議ではない。

「E8」

 番号を告げる。

 デジタル時計のような記号。それは、カメラが鏡の破片ごしに映したものだったのではないか。

 83は反転した数字。

 ロイドはわずかな時間沈黙した。

 無論、彼の回路が、入力された言葉を照合しているだけだとは分かっている。しかし、コマチには、ロイドが息をのんだように見えた。

 やがてロボットは、いつもより柔らかく聞こえる声で告げた。

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