𝒇𝒇𝒇 - Forgotten For Fate -

第一楽章

1

　入院生活は三ヶ月目を迎え、窓の外はすっかり秋模様となっていた。

　いや、秋模様なんていっても窓からは紅葉どころか植物のひとつも見えない。そう感じられるのは、病室の涼しさが先入観となって、風景の雰囲気を捻じ曲げているからなのだろう。

　先入観。

　なんだか嬉しい言葉だ。

　入院生活が三ヶ月目を迎えたということは、僕がこれまでの人生18年間の記憶を完全に忘却してから三ヶ月が経ったということになる。

　記憶喪失——というか、今の僕の記憶はまさにそこから始まっているので、気分としては記憶獲得みたいな事件だが。

　あるいは、事故か。

　交通事故だったらしい。

　ハイドロプレーニング現象がどうとかこうとかいった話が、テレビで流れていた。

　雨の日なんかにタイヤが水に浮くことで摩擦がなくなり、車がスリップしてしまう現象——なのだとか。

　僕が目を覚ました時にはすでに事故から一ヶ月以上が経過していたためか、そこまでセンセーショナルなニュースでもなくなっていたので細かいところは先生からの口伝てになるが、とにかくビリヤードのごとき玉突き事故の結果、奇跡的に車の山の下から生還したのがこの僕、五味衛自（ごみえいじ）ということらしい。

　記憶と家族の、そのすべてを引き換えにして。

　どうやら僕は、生き返ったらしかった。

　もしそのまま死んでいたらと思うと、そしてこれまでの人生のすべてから切り離されてしまったことを思うと、それはかなりそら寒い話ではあったが、しかしそんな不安感もすぐに薄れていってしまった。

　ひょっとしたら僕が酷く淡白な性格をしていたというだけなのかもしれないが、しかし実際、人生のすべてを失ってしまえば、人は案外こんなものなのではないかとも思う。

　欲しいものも惜しいものも、結局は過去の自分が重なる分だけ強まる錯覚にすぎない。

　自分が生まれなかった可能性についての考察や忘れたことも忘れてしまった過去の追懐など、そんなことは暇なときにやるものだ。

　いや、確かに僕は暇ではあったが、それは暇なだけでやっとだから暇なのであって、どうでもいいよしなしごとを考えるための暇ではない。

　先生いわく、記憶の損傷を鑑みれば奇跡としかいいようがないほど脳や意識・認識に残る後遺症は薄く、知識もかなり高い水準で留めているらしい。いまでは大掛かり検査もなく、一日一回の問診や知識・一般常識の補完を旨とする種々のリハビリのとき以外はひたすら読書を続けるという、生まれたてのフランケンシュタインみたいな日々を送っていた(フランケンシュタインもそうして読んだ本のひとつである)。

　そしてこれはこの三ヶ月のあいだで何度も思ったことだが、記憶——というか、『自分が何者か』という意識は、ないならないで案外困らないものだった。

　というのはなにも、それが普遍的な真理だという話ではない。アイデンティティなんてその程度のもんだぜ、なんてひねくれことがたい訳ではなく、これは単なる医療福祉の充実ぶりへの称賛だ。

　本当に記憶を失くした人間がいうと説得力があるんだかないんだかよくわからないところではあるが、病院というのは記憶喪失者のためにあるのではないかと思ってしまうほど、とにかく僕にとって生きやすい空間だった。

　いや、実際にこれほどまでに気遣いに満ち満ちた空間が他にあるだろうか。

　ここにいる人間は、みな病んでいる。

　その共通認識があればこそ、誰もが互いに割れ物を扱うような丁寧さを発揮することができるのだろう。

　世界が病院だったらよかったのに。

　まあ、そんなことを言っても社会は医療で回っているわけではない。

　天涯孤独となった僕の身の上には今後の処遇やこの理想郷への入院費など、様々な問題が山のように積み上がっていることだろうが。

　しかしそんなことは僕にどうこうできるような問題ではない。

　記憶喪失でなくとも、当年とって18歳(らしい。正直年齢を実感する機会なんてないが、僕は僕に関する個人情報を信じて、とにかく学習するしかなかった)の未成年なのだ。

　いや、成人年齢が引き下げられたからもう未成年ではないんだっけ。

　まあとにかく、そういうわけで僕は、21時消灯・6時起床の健康的で文化的な最大限度の生活に、ぬくぬくと預かっていた。

　だから。

　だから正確な時間もわからないような真夜中にふいに目を覚ますというのはそれだけで、僕にとってはすでに戦慄にたる異常事態だったのだ。

2

　かち、かち、かち。

　と。

　秒針の音が耳につくほどの静寂である。

　しかし、だからといってその音に起こされたわけではない。目覚まし時計がそんなアホな代物ではないことくらいは僕でも知っている。

　僕は本当に窓が付いているのか疑うほどの真っ暗闇に包まれたこの部屋の中に、確かに異様な気配を察知していた。

　異様な気配、というか。

　人の——気配だった。

「……」

　目だけを動かして、その方向を見遣る。

　なにやら黒い塊としか認識できないが、とにかく、壁にもたれるようにして、部屋のすみに誰かが立っているようだった。

「…起きてる？」

　黒い塊は、ささやくような小さな声で、そう言った

　どうやら女性のようだ。

「起きてる？」

　影は先ほどよりもしっかりとした発音でそういうと、一歩、僕に歩み寄った。

「起きてますよ」

　僕はとっさに答えて体を起こす。

　狸寝入りを決め込んでいればよかったのかもしれないが、彼女——"彼女"なのだろう、多分——にこれ以上の接近を許したくなかったのだ。

　はっきり言って、怖気づいていた。

「そっか。ごめんね、起こすつもりは——まあ、あったんだけどさ」

　彼女はまた声のトーンを落としてそう言った。

「…何者ですか」

　妙に芝居がかった台詞になってしまったが、これが今の僕の脳内に渦巻く疑問をもっとも正確に表した言葉だった。

　こんな時間に、それも僕に用がある人間などいるはずがないのだ。

　看護師さんにしても他の入院患者にしても、用があるなら昼間に済ませられるし、こんな時間になにか急用ができるような立場に僕はいない。

　では、誰かに忍び込まれたか。

　しかしなんのために？

　行きずりの強盗というのが辛うじて現実的にあり得る可能性だったが、それでもわざわざ入院棟を襲うような物好きがいるとは思えないし、なにより彼女の口ぶりからすれば、それはもっともあり得ない可能性にさえ思えた。

　つまり、いるはずのない人間がそこにいるのだ。

　ならば、問うべきはやはり、"何者なのか"のひとつだろう。

　可能性はふたつ。

　過去の僕に会いにきたのか、今の僕に会いにきたのか——。

「ふふ、何者だろうね……なんて、ちゃんと答えるから安心してよ。これからね」

　彼女はやはりささやき声で、しかし淀みなく言う。

「次の質問は『なんの用だ？』かな。そうだね、わたしはきみにこれからの話をしにきたんだよ。安心して話すには、けっこうシチュエーションに気を遣うからさ…」

　ネタバレって気にする人は気にするからね、と言って彼女は笑う。

　僕は、なにも言わない。

　言わないというか、言えなかった。

　ただでさえ少ない言葉数を失ってしまった。

　なんだ、これ。

　頭の回転が夢でも見ているかのように鈍い。

　これはどんな状況で、僕はなにをすればいいんだ？

「まず、来週のうちにきみを引き取る人が決まるよ。おめでとう。病院が実家の状態からはおさらばってわけだね——まあ、人はみんな病院で生まれるんだから、『病院が実家』っていうのもあながち間違いじゃないんだろうけどさ」

「…はあ」

　なにも言わないのもさすがに不安なので、僕は最低限のリアクションはしておくことにした。温室育ちとはいえ、少なくともこの状況に諾々と流されることを良しとできるほど緊張感の欠けた人間ではない。

「それで、その人は誰なんですか？あなたとの関係は？」

　具体的な話は聞いていないが、僕に親戚筋のようなものは少なく、だから誰かの家に引き取ってもらうことは難しい——といったようなことを、遠回しに言われていたのだが。

「おっと…毎度良い質問だね。でもそれはまだ秘密。わたしからは言えないんだよ」

「…ならせめて、どうしてあなたがそれを知っているのかを教えてくださいよ」

「知ってるからだよ」

「……」

　答える気が全くないということをこの上なくわかりやすく示してくれる返答だった。

　あくまで話をしにきただけで、僕になにか聞かせてくれる訳ではないらしい。

　なにやら嬉し気に、彼女は続ける。

「でも気を付けた方がいいよ——。きみには前のことも後のことも、先のことも後のこともわからないだろうけど、それでも気を付けるべきだよ。なにせ家族が味方とは限らないからね……」

「……あなたは、違うみたいな言い草ですね」

「そうだよ。わたしには前のことも後のこともわかるし、いつだってきみの味方の中の味方だよ」

　……印象でものを言わせてもらえるなら、とてもそうとは思えなかった。

　印象どころか、文字通り影と形がかろうじてわかるくらいだが——それでも。

　それでも、その存在感だけで僕を恐怖させるにたる異様さを、彼女は湛えていた。

　いや、これは逆か。

　影と形しかわからないからこそ、不安が脳内で反響してしまうのかもしれない。

　しかしどちらにしたところで、敵対的でこそないが、味方のようにはどうしたって見えなかった。

　味方の中の味方。

　敵の敵が味方ならば、味方の中の味方は何なのだろう。

　彼女は、僕のそんな思いを知ってか知らずか——いや、知っているはずはないのだが、彼女はなにか、奇妙な確信のようなものに突き動かされているように見えてならなかったのだ——僕の言葉を待つことなく、言う。

「じゃあ最後の予言です。ふふ、最後はね、きみはね——」

　今までより一際嬉しそうに、聞き間違いようもないほどにはっきりと、言葉を続けた。

「わたしと両思いになります」

「——は？」

　僕はここに至ってようやく、今見ているのは本当に夢なのではないかと思い始めた。

　どうして病院に忍び込んできた少女になんの脈絡もなく告白されているんだ。

「だから違うって。告白っていうよりは予告なんだよ、これは」

　これからの話。

　だったか。

　……いや、だからどういうことなんだ。

　いったい、僕のなにを知っている？

　いや、違う。

　少なくとも過去の僕について何を知っていたところで、そんなことはどっちだって同じことなのだ。

　それは僕の中で、塵も残らないほど木端微塵に破壊されてしまっている。

　だったら——彼女が知っているのは、今の僕か。

　今からの僕と、そしてこれからの僕と。

　過去の堆積とは無関係に、関係しているとでもいうのだろうか——。

「……うん。ここで話すことは話したから、わたしはもう行くよ」

　彼女は一方的にそう言うと、まるで最初から存在しなかったかのように闇に溶けていく——はずもなく、普通にドアを開け、この部屋から出ていく。

「あ、そうだ。1番大事なことを忘れてた」

　部屋から半歩出た状態で、彼女は振りむいた。

　距離が近づいたせいか、その輪郭をよりはっきり見て取れる。

　その姿に、なぜだか、見惚れてしまいそうな思いだった。

　相変わらず、ただの黒い影にしか見えないのに——。

「このことは誰にも内緒ね。絶対、ずっときみの秘密だから。わかった？」　

3

　数日間、同じような日々が何事もなく過ぎていった。

　食事とリハビリ、あとはときどきある看護師さん見回りのとき以外は、ひたすら読書を続ける日々。

　そう、表面上は何事もない。

　しかし内心ではあの夜の記憶が、まるで喉に骨でもひっかかったかのように、ジリジリと休みなくその異物感を主張していた。

　あの夜。

　結局あの後、僕は『狐につままれたような』というなにやらよくわからない形容がピッタリと嵌るような気分でしばらく呆然としてから、普通に寝た。もっとするべきことあったのかもしれないが——例えば彼女を追いかけてもう一度その正体を問いただすとか——、僕はついに動けなかった。

　ろくに考えを巡らせることすらできなかった。

　それは単純に空前絶後の深夜帯に起こされたために睡魔が限界を迎えていたというのもあるが、それを差し引いたところで、やはり僕は同じようになにをすることも出来なかったことだろう。

　つまるところあの時、僕は彼女とその言葉について考える気力を、完全に喪失してしまっていたのだ。

　言ってしまえばふて寝である。

　真夜中に、見知らぬ少女が、僕の病室に忍び込み、意味深な予言を残して去っていく。

　そんな5W1Hすべてが意味不明の不条理な事態に、脳が完全にオーバーフローを起こしていた。

　理解を試みることすら諦めてしまった。

　我ながら情けない話だし、実際にこれは少なからず後悔を感じずにはいられない記憶だった。

　愚行だったと、そう思う。

　なにせ、そこで真相をはっきりさせてこなかったがために、僕は何日も、あの夜を反芻することとなってしまっているのだから。

　しかも、単に思い出であるばかりではない。

　これからのこと。

　"あの夜"だなんて、あたかも過ぎ去った過去のことのように連呼しているが、しかし事態は未だ収束していないのだ。

　その意味深な予言が、成就するか否か。

　それが明らかになるまで、少なくともあの夢のようなシーンは僕の中で解決を、終結を見ることはないだろう。

　そしてそのために僕にできることといえば、ひたすらに時間が経過するのを待つことしかなかった。

　正直言って、『来るかもわからない"なにか"』を待ち続けるというのは想像以上の苦痛だった。

　　予言や占いといえばもっと将来への安心や指針を与えてくれるものと思っていたが、どうやらそれは実際に『先の見えない現実社会』とやらを生きている人々に限った話だったらしい。

　今までいかに先行きの透明な日々を送ってきたかを思い知らされる気分だ。

　真偽不明の情報ひとつで、僕はこんなにも揺れてしまう。

　そして、それを知っているのが僕一人であるということもまた、僕の抱える不安の大きな要因となっていた。

　考えてみれば、僕にはこれまでプライバシーというものがなかった。

　なかったし、必要なかったし、ない必要があった。

　記憶を失った僕が僕として生きるためにはその個人情報を病院から受け取らなければならなかったし、僕が健康に生存するためには僕の生活が病院に管理されている必要があった。

　唯一、僕が個人的にしてきたことといえば読書だが、これだって病院に置いてある本である。

　誰でも読めるし、読めば誰でも同じ内容を読むことができる。

　小説はプライベートじゃない。

　そう考えると、あの夜が唯一、僕にとって"内面"と呼ばれるべきものなのかもしれなかった。

　そして。

　きみはね——

　私と両思いになります

「はーあ」

　大げさに溜息をつき、僕は本を閉じる。

　文字を追ってこそいたが、全く内容が頭に入ってこなかったから——とかではなく、普通に読み終えたからだ。

　だけど、なんだか、今まで使っていなかった脳の領域が動き出したような気分だった。

　小説を読んでいるときとは別の部分が、常にがちゃがちゃと動き回っているような——。

　なんの気なしにドアの方を眺める。

　普段は本を読み終えたときは窓の外を見て余韻に浸っていたものだが、あの日以降はなんとなく逆方向を見てしまう。

　まるでトラウマだ。

　PTSDだかPTSRだか…小説じゃない本は斜め読みしていたから、いまいち覚えていないが。

　しかし考えてみれば、今まさに記憶喪失になっているのだから、そういった心理学・脳科学みたいなものにもっと関心を持って然るべきなのかもしれないな……。

　などとつらつら考えていると、ふいにドアの向こうから話し声が近づいてくる。

　いつもの看護師さんと——知らない男性の声だ。

　看護師さんの声音から、先生でも他の入院患者でもない、病院の外からきた人間だとすぐに察した。

　僕はとっさに身構える。

　身構える、なんていったところで、患者衣の襟を正し、本をベッドの脇の机の上に置くくらいしか、僕にすることはないのだけれど。

「…はい、こちらの部屋です。五味さーん。面会の方がいらっしゃいましたよ」

「あ、は…はい、どうぞ」

　やはりか。

　鬼が出るか蛇が出るか——といった思いで、僕はドアを睨む。

　なにせ記憶喪失の身だ、誰がきたところで僕にとっては重要な過去との接点である。それなりに心身が復調した段階で面会の許可には同意していた。

　まあ、面会者はひとりとしていなかったが。

　少なくとも、これまでは。

　しかし今、扉の向こうにいるのは、僕の過去に関わる以上に、未来に関わることになるだろう、そんな人間のはずだ。

　そんな直感——というには、どうも作為的に植え付けられてるような気がしてならないが——が過去にないほどの緊張を、僕に強いていた。

　扉が開く。

4

「…はじめまして」

　とりあえず僕は、記憶喪失者の礼儀としてそう切り出す。

　看護師さんに連れられてきた男は——なんというか、当たり前なのかもしれないが、病院ではとてもお目にかかれないような風体をしていた。

　猫背だが180はゆうに超えるだろう長身に、病人に引けを取らないような痩躯。しかし縮れたような癖のついた長い前髪から覗く両目は、鈍くも異様な眼光を放っている。

「はじめまして、だな」

　勝手知ったるとばかりに、その男は見舞客用のパイプ椅子を引っ張り出し、足を組んで腰掛けた。

　瘦せている上に足が長いせいで、二本の足が交差しているだけなのに、なにか複雑に組まれた鉄骨の一部のようにも見えた。

「看護師さん。差し支えなければ、少し外していただけないでしょうか」

　二人きりで話したいこともありますので、と男が慇懃にそう言う。

　僕は看護師さんに向かって、大丈夫です、という意味を込めて頷いた。

「わかりました。それでは、ごゆっくり」

　看護師さんが出ていくと、部屋には一瞬、沈黙が訪れた。

　いや、沈黙というなら訪れるまでもなくこの部屋に元から住み着いている住人のようなものなのだが、しかしそれが帰ってきたという気は全くしない。

　考えるまでもなく、その沈黙が僕だけのものではないせいだろう。

「…えっと、すみません。ご存知かとは思いますが、僕は事故で18年間の記憶を失くしてしまっていまして。差し支えなければ、あなたとの関係を教えていただけないでしょうか」

　とにかく、僕は用意しておいた台詞を読み上げる。

　見舞客が来たらとりあえずこれを言っておけば、相手が知りたいことと僕が知りたいことの両方をスムーズに交換できるだろうという考えのもとで編み出したフレーズだ。

　しかし、やはりというべきか、その男の返答は僕のそんな予想を大きく外れたものだった。

「関係はない。『はじめまして』と言ったはずだぜ、俺は。今この場が、俺とお前の初対面のシーンだ」

「そうだったんですね。じゃあ、僕の親兄弟とか、友達とかの——」

「それもない。この俺、入江蟻江（いりえありえ）のこれまでの人生に、お前の存在は影ほども影響していなかったし、逆も然りだ」

「……それじゃあ」

　それじゃあ、なんだ？

　どうして知らない病人の面会になんて来るんだ？

　脳内に、あのときの感覚がフラッシュバックする。

　意味不明にして理解不能。

　素性不詳の身でありながら動機不在のままに、僕の前に現れる人間。

　一体どういうことなんだ。

　僕は、本当になにもしていないのに——。

「まあ、さすがに説明が必要だろう」

　男は足を組み直す。

「まずは自己紹介だ。俺は名前を入江蟻江という。ここにはお前を『七方位家』に引き取るに当たっての説明にきた。七方位家の長男であり、私立探偵であり——未来予知者（プレコグニション）だ」

　そう言いながら、彼は——入江さんは、ベッドの脇の机に、放るように名刺を置いた。

　といっても、名刺を出されたからといって僕に返せるものもなければ、そもそもなにを読めばいいのかもわからない。

　名前が書いてある。

　職業が書いてある。

　それくらいだ。

　いや、やけにスタイリッシュな蟻のシルエットも入っていたが、それはともかく——。

　未来予知能力。

　私立探偵というのも大概フィクションの住人だが、少なくとも名刺を出せる程度にはれっきとした職業だが、これは。

　しかし唐突に現れたこの非現実的な単語に、僕は動揺よりもむしろ納得を覚えていた。

　なるほど、ここで彼女のことを連想したのは、僕が今まで出会った外界の人間が1人しかいないことを差し引いても、あながち間違いではなかったらしい。

　これからの話をする彼女と、未来予知能力。

　やはり——繋がりがあるのだろうか。

　それが事実だとしたら、『影ほども影響していない』という点にはどうやら訂正が必要なようだ。

　影というならあまりにも巨大な影を、僕の人生に落としていることになるのだから。

「……平然としたもんだな。驚かせるつもりはなくとも、驚くとは思っていたんだが」

　まあ、記憶喪失ってのはそういうものなのかもしれんが。そういって入江さんはまた足を組み直す。

「続けよう。『七方位家』というのは、わかりやすい言葉で表現するならシェアハウスのようなものだ。実情はもう少し混み入っているがな…。入居条件はひとつ、"予知能力者であること"——そんな風変わりな家だと思ってくれればいい」

　入江さんは言う。

　そうだ、探偵やら未来予知やら非現実的なワードに目が行ってしまうが、その『七方位家』とやらもよくわからない名詞だった。そこの説明をしてくれているのだろう——でも。

「でも、それだと…」

「そう。それだとお前は入居できないことになる。…だがまあ、今回は特例だ。お前はいずれ予知能力を手にすると、そんな未来がすでに決定しているからな」

「……」

　また、予言か。

　勘弁してくれ、というのが正直な思いだった。

　こっちは過去のすべてを失っているのだ、未来像ばかり与えられても挨拶に困る。

　件の定型文も、過去を少しでも手に入れるためのものだったのに。

　これじゃあ、未来を不確定にするために未来を見ているようなものじゃないか。

　いや、それともそういうことなのか？

　未来が不確定だから未来を求めるのではなく、未来を求めるから未来が不確定になる。

　ならば——実際に未来を手にするというのは、どんな気分なのだろう。

「まあ、言いたいことはいくらでもあると思うが、ここではひとつだけ聞かせてくれ。お前が七方位家に引き取られる気があるかどうかだ」

「…え？」

　決める？

　僕が？

「お前以外の誰が決めるんだ。もう一度聞くぞ。お前は七方位家になりたいか？」

　沈黙。

　僕は考え込んだ。

　もちろん、"彼女"の予言のことだ。

『まず、来週のうちにきみを引き取る人が決まるよ』

　不思議と今まで思いもよらなかったが、そんなことは彼女はもちろん、誰にだって決められない。

　僕をおいて他に、その予言を成就させる人間はいないのだ。

　つまり彼女が残した数々の意味深な言葉の真偽が、僕の返答次第で決まってしまう。

　これは単なる決断ではなく、決断すること自体がすでに大きな問題の形をしているような問題だった。

　頭を抱えたい気分だ。

　それを差し引いたところで、ただでさえ難しい、そして果てしなく重い選択なのに……。

　諸々の文脈を排除して、つまり入江さんがこの部屋に入ったそのときから与えられた条件で考えるならば、断るしかないところだろう。

　なにせ未来予知能力者である。

　そう、今さらながら未来予知能力者だ。

　そして、そんな人間のサロン紛いのシェアハウス。

　胡散臭いなんて言ったら人間の持つ疑念という感情への冒涜にさえなるようなレベルの胡散臭さである。

　少なくともまともな人間がまともな人生を送る上で関わりあいになっていいような相手ではない。

　しかしそれでも、それでも僕はこの誘いを一蹴してしまう訳には行かなかった。

　考え込むに足る、理由があった。

　第一に、僕はまとも人間ではないということがある。

　例えば、僕が今から再びレールに戻り、真っ当な人生を歩むにはどうすればいいのだろう。

　高卒認定試験でも受けて、就職なりなんなりをして、とにかく日銭を稼ぎながら生きていけばいいのだろうか。

　正直いって、そのごく現実的なルートはあまり現実的ではないように思えた。

　僕が今や非現実的な人間だからだろう。

　社会どころか学校も知らない、病院から出たこともない僕をしたところで、その程度は容易に想像がつく。

　普通の日々というものは、与えられれば二度と手放せないが、手に入れるにはあまりにも難しい、そういうものなのだろう。

　であれば、蛇に付いて蛇の道を行くのも、どうせ大した違いはないはずだ。

　どんな道を選んだところで、僕にとっては茨の道なのだから。

　そしてもう1つ。

　あの夜に出会った彼女と入江さんとを繋ぐ、『未来予知』というワードだ。　

　もし仮に、僕がここで入江さんの誘いを断り、なんらかの施設での支援を受け、問題なくとは行かないまでも十全な生活を送れるようになったとしよう。

　いや、それは決して低い可能性の話ではない。

　もちろん確実かと言われればそんな楽観はできないが、かといってあり得ないとしてしまうのはいささか悲観がすぎるだろう。

　しかしそうして彼女の予言に逆らって、胡乱な超能力とも謎めいた一家とも関わらずに生きていくとしたなら、あの夜は僕にとって、どうなるだろうか。

　当たり前だがどうにもならない。

　つまりこのまま一生、喉につかえた骨と共に生きていくことになるだろう。

　それは嫌だった。

　それだけは御免だった。

　そもそも、そんな簡単に忘れ去ってなかったことにできたなら、こんなに思い悩んでなどいない。

　だから現実的な手段は、真っ当な可能性は、やはりあり得ないというべきなのだ。

　それが可能性として存在しているのは、あくまで現実の話である。

　僕はどうしようもなく、あの夢のように不確かで非現実的な邂逅に、囚えられてしまっていた。

　だったら決めるべきは選択肢ではなく——覚悟か。

「——わかりました」

　僕はようやく口を開く。

　心に決め、覚悟を決め、決断する。

「お願いします、入江さん。僕を助けてください」