梅田発なかもず行き

高丘真介

プロローグ

 少女が目を覚ましたときにはすでに車内の照明は消えていて、外からのうっすらとしたりん光だけが、視界をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 耳に痛いほどの静寂が落ちている。


 思わず飲み込んだ唾が喉を通る音が、妙に大きく聞こえた。

 しだいに霧が晴れていく脳から、少女の体に緊急信号が送られてくる。身の危険を知らせるものだ。それと同時に、心臓が大きく脈打ち始めるのが意識できた。呼吸が速くなる。 


 額にじわりという気持ちの悪い湿り気を感じた少女は、手でぬぐう。

 それでも次から次に、しゅわしゅわと吹き出す汗に、少女は思わず両手で一度、顔の表面をゆっくりとなでていく。ぬるっとした、今までに感じたことの無い感触。それは、持久走大会で完走したときとも、辛口のカレーを食べたときとも異なっていた。頭の芯から、徐々に血の気が失せ、冷えていく感覚。

 ともすれば、気を失いそうになった少女は、まずはその場に立ち上がった。

 

 辺りを見回す。


 人間こそ誰もいないけれど、間違いなく電車の中だ。

 対面に設置された緑の長い座席には、ところどころ、黒い染みのようなものや、誰かの忘れ物らしきものが見られる。ただ、暗くてそれが何なのかまでは判然としない。


 少女は目を閉じた。


 すると、様々なことが脳裏によみがえってくる。

 まずは、四畳半ほどの小さな薄暗い和室だった。そこで一日中正座をしている自分の姿が、じっとりと湿り気を帯びた障子越しに、なぜか浮き上がって見える。

 次に、キッチンでエプロンを付けてリンゴの皮をむいている後姿、そして、授業参観で必死に手を上げようともがいている自分が、浮かんでは消え、また浮かんでくる。答えは分かっているのだ。それでも、手を上げるというその動作が、彼女には出来ない。見ている人々の視線が、少女に突き刺さってくる。ついには周囲の風景が目だけになる。つりあがった目、笑っている目、怒っている目、冷めた目、血走った目――


 少女は目を開けた。

 

 自分が今、なぜここにいるのか、冷静に考えようと意識を集中する。それでも、考えをまとめようとすればするほど、焦燥感だけが胸いっぱいに広がり、どんどんと思考が支離滅裂になっていく。


 とにかく家に帰らなければならない、ということだけは分かっていた。

 それ以上のことを考えることを諦めた少女は、意を決して立ち上がる。おそるおそる足を踏み出した。とにかくここを出なければならない。左右に首を振り、近いほうの連結部位へと歩き出した。

 

 明らかに電車は止まっているのに、扉が開いていないのだ。窓から外を見ると、薄暗い中にぼんやりとではあるが、駅によくある立て看板や、さらにその奥には階段のようなシルエットが見える。

 駅に着いてはいるのだ。降りなければならないのに……少しずつ現実が認識されるにつれて、今度はその焦りが、少女の鼓動をいっそう速めていた。

 自分の足が、自分のものではないように、ぎこちなくひょこひょことしか前へと動かない。ただ、視線は常に隣の車両へと続くドアだけに集中している。


 ゆっくりと、慎重に歩を進めた少女は、ドアに手をかける。


 開かない。


 じわり、と額からさらに嫌な汗が吹き出したのが感じられた。

 もう一度、今度は逆の方向に取っ手を回してみる。

 それでも、ドアが開く気配はない。

 何度か力ずくで取っ手を横向きに引っ張ってみるけれど、ピクリともしない。最初からそのように作られているような錯覚をしてしまうほど、そのドアからは手ごたえが伝わってこなかった。


 諦めて振り返り、逆の連結部位へと向かう。

 いくぶんは慣れてきて早足で歩けるようになった少女は、今度は小走りになる。

 ドアに体当たりするように突っ込んでいくと、取っ手に手をかけて何度か回してみる。先ほどと同じ手ごたえを感じた少女は無茶苦茶に押したり引っ張ったりしていると、次第に自分ではどうしても抑えきれない怒りにも似た感情がわきあがり、そのドアを思いっきり蹴飛ばしていた。

 じん、とつま先に鈍痛が走る。

 少女は小さくあえぎ声を上げて、その場に座り込み靴を脱ぎ、そのまま靴下も脱ぎ去った。親指のつめの部分が黒く変色している。内出血だ。

 それを見たとたんに、涙があふれてきた。

 喉の奥からは声にならないえづきがこみあがり、どうにも止まらなくなった感情は、しゃっくりとすすり泣きになって体から出ていく。

 と、少女が鼻をすするのと重なって、ぴんっという小さな音が、どこかから聞こえたような気がした。少女は泣くのを止め、しばらくその場でしゃがみこんだまま、耳を澄ませていた。

 

 しばらくは物音一つ聞こえなかった。さっきの音は気のせいだったのか、と立ち上がろうとしたその瞬間、今度は明らかに分かるほど床に振動が走った。

 少女は反射的に窓の外を見る。

 と、ぼんやりとではあるが、確かに景色が動いている。

 小さく悲鳴を上げた少女は、席にひざ立ちになり外を覗き込む。


「駅が……」


 思わず呟いた。

 足元からは、もう何の振動も伝わってこない。

 少女の視線は、窓の外の景色に釘付けになっていた。

 次から次へと、通り過ぎる立て看板。必死に目で追うが、ただでさえ薄い闇につつまれているうえに動く文字をとらえることは少女にはできない。

 ここがどこの駅なのか、少女は無意識にそのことを確認しようとしていたのだけれど、そういう問題ではないことにすぐに気付く。

 少女は床に降りて感触を確かめる。間違いない。電車は止まっている。

 しかし、窓の外の風景は動いている。

 これはどういうことなのか。これまでの人生を振り返ってみたけれど、今目の前で起きている現象をうまく説明する言葉は、少女の中にはない。ただ、呆然とその光景を眺めていることしか出来ない。

 と、思考がまとまらないうちに、しだいに景色の動きが緩やかになってきた。

 みるみるうちに減速し、少女の目の前で止まる。

 どこかから空気の抜けるような音が聞こえたと思った刹那、外への扉が開いた。

 あまりの呆気なさに、一瞬どうしていいか分からなかったけれど、とにかく何か行動をする方を選択することにした。


 駅に降り立つと、まず、周囲を見渡す。


 天井はコンクリートで埋められており、これが地下鉄の駅であることは想像がついたけれど、どこの駅かは分からない。というより、今自分が立っているこの駅が、動いていたという事実は、どう考えればいいのか、少女の中ではまだまとまっていない。

 と、ふっとある映像が思い浮かぶ。それは今までのものよりも鮮明で、現実味のある場面だ。


 少女は一人、駅にたたずんでいた。

 周囲を行きかう人々は皆、ちらちらと少女を伺うような仕草はするものの、声をかけてはこない。

 そんな少女の肩を、だれかが叩いた。振り返り見上げる少女。暗くて顔は分からない。ゆっくりと差し出された手に触れた瞬間、少女の意識は急速に昇っていき、だだっ広い空間に投げ出される。

 なぜ自分がここにいるのか。

 そのことを考えようとしても、もう何も思いつかない。ただ、映画でも見ているかのように、見覚えのある記憶が再生される。母の顔、父の顔――

 そうだ、あれは父の顔だ。

 少女の意識は収束し、ある一点へと収斂していく。


「お父さん」


 口に出してみる。

 それをどこで見たのか分からない。それでもその姿は、少女の記憶の中にある父に間違いなかった。どこで見たのか、それが何を意味するのか……と考え始めると、再び思考が拡散していく。必死で繋ぎとめようと両手で何もない空間をかき乱す。

 ふらふらとまとまりの無い霧のようであった周囲の景色がしだいにくっきりと意識できるようになってくる。輪郭が整ってくる。

 少女はぶるぶると頭を振り、そして大きく息を吸い込んで、吐き出す。周囲を見まわした。どうやらまだ駅にはいるようだった。今度は色々と考えることはやめて、足を踏み出す。

 闇につつまれていて先のほうは見えないけれど、どうにかして地上に出れば何とかなるはずだ、と考えた少女は、とにかく上へと登る階段を探すことにした。

 

 しばらく歩いてから、ふと違和感を覚えて自分の手のひらを確認する。


「あ、荷物!」


 少女はもといた車両へと駆け戻る。

 と、耳につくブザー音が鳴り響き、その後、アナウンスが流れ始めた。


「ミナサマ

 エキガ、シュッパツシマス

 オノリノカタハ

 オハヤメニ、デンシャカラオリテクダサイ

 クリカエシマス

 エキガ、シュッパツシマス――」

 

 駅が出発する?

 

 混乱する頭を振り払って、今は走ることに全力を尽くす。

 目の前に、覚えのある看板が見えてくる。

 その目の前の扉の奥にうっすらと、少女が持っていたピンク色の小さなポーチと、青い傘らしき一群が見える。

 少女は足を速める。あと十メートルも無さそう。扉はまだ閉まる気配を示していない。何とか間に合う、と目算した少女は、次の瞬間には宙に舞っていた。

 ぐるぐると視界が反転する。

 何が起こったのか、瞬時には判断できなかったけれど、じわじわと押し寄せてくる痛みで、自分が転んでしまったことが分かった。

 顔を上げて前を見る。そんな少女の目の前で、ぷしゅっという無機質な機械音だけを残して、扉が閉まった。

 なすすべもなく見守る少女に、今度は地面の下からの振動が伝わってくる。体が、後ろに引っ張られる感覚。それは、電車が動き出したときのそれと酷似していた。

 

 もう、何がなんだか分からない。


 しだいに速度を増していく駅の上で、少女は堰を切ったように、大声で泣いた。ただただ、恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、それをぐっと耐えるのではなく外へと発散するという手段を使ったのだった。

 もちろん少女にその自覚はなかったけれど、人間が持つ本能がそうさせていた。泣くことで、何とか正気を保っていた。

 

 そんな姿には無頓着に、駅は走り続ける。

 

 泣き叫ぶ少女の声は、果てしなく続く暗闇のかなたへと吸い込まれていった。



 あとには電車だけが残った。

 その座席の上には、持ち主を失ったポーチと傘がひっそりと寄り添うのみである。

 

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