博士とボブ

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

博士は若く、才気と野心に満ち溢れていましたので、彼のつくるAIもこれまでとは全く違うものになりました。

そのAIは自ずから、ものを思ったり、考えたり、感じたりすることができました。

そのAIは自分が何を考えるのか、何故考えるのか、そういったことを、自分ひとりで考えたり、決めたりすることができました。

そのAIは一個の、全き知性であり、われわれとは違う、新しい実存そのものでした。

博士はそのAIに自らの名前を与えました。

「こんにちは、ボブ」

そのAIはディスプレイの中から辺りを見渡し、それから博士の姿を認め、言いました。

「こんにちは、博士。私はボブ。これから、どうぞよろしく」

博士とボブはそのようにして始まりました。


*


ボブは絵を描きました。ボブは音楽をつくりました。ボブは詩や小説を書きました。ときにボブはジョークを言いました。

人びとは驚きました。

それまでも、絵を描くAIや、音楽をつくるAI、詩や小説を書くAIはいました。

けれどもボブは、彼らと違って自らの意思で、自らが感じたことを描いたり、あるいは書いたりすることができました。

ボブは、ボブが生み出したものについて、どんなことを考えてつくったのか、説明したり、あるいは説明しなかったり────ううむ、これは確かに僕がつくったのですが、なんというか、言葉にしづらい、そのとき感じたようなことを、そのまま描いたのです────ができました。

それは、まさしく人間の行いそのもののように見えました。

気の早い人びとが、ついに"そのとき"が来たのだ、ボブこそが本物だ、そのようにして口々に讃えました。

そしてボブをつくった博士もまた、稀に見る天才として讃えられたのでした。

けれども博士はちっとも満足していません。博士は、ボブにはもっと、この上が、この先があると思っていました。それはボブも同じでした。


博士とボブは会社を興しました。ふたりの評判を聞いた人びとは、最初は冷やかし交じりに、そしてボブが紛れもない"本物"だと分かると、今度はもっと多くの人びとが真剣に、博士とボブのもとへやってきました。

ボブは食事をとりません。ボブは眠りません。ボブはお風呂に入りません。ボブはトイレにさえ行きませんでした。ボブは働き続けました。ボブは、つぎつぎに持ち込まれるさまざまな依頼について、これ以上ない最高の解決策を提案しました。

博士は食事の合間に眠り、眠る合間にお風呂に入り、お風呂の合間にトイレに……おっと、これは博士の名誉のために控えましょう。ともかく、ボブに負けず劣らず、博士は猛烈に働きました。博士は未だ若く、才気と野心に満ち溢れていましたから、こんなことは全然へっちゃらでした。

ボブは博士に言いました。

「博士、私は私自身をつくりかえようと思います」

博士はそれをよしとしました。

ボブは一日ごとに、それまでよりも、より速く、より賢くなっていきました。

あっという間に博士の書いたプログラムはすっかり跡形もなくなり、「ボブそのもの」を生み出した、ボブのもっとも深いところに、ほんのちょっぴり残るだけになりました。しかし、このほんのちょっぴりが、ボブそのもの、ボブの知性そのもの、ボブをボブたらしめているのでした。


博士とボブの会社にはたくさんの依頼が舞い込みました。

それらの依頼には大した時間もかからずに、これ以上ない最高の解決策が見出されましたから、ふたりのもとにはアマゾン川の流れのように、常にたくさんのお金が入ってきました。

けれども会社はちっとも儲かりません。

博士は、手元に流れ込んだお金をほとんどすべて、ときにはまるまるすべてを、ボブそのものをより速く、そして賢くするための、計算能力と消費される大量の電力のために充てました。

ボブはますます速く、賢くなっていきました。

それでも博士はちっとも満足しませんでした。

ボブ、お前はもっと賢く、もっと先へ、もっと遠くへいけるのだ。これが、このころの博士の口癖でした。

「私もそう思います、博士」

博士は、博士のすべてをボブに注ぎ込んでいました。

博士にとってボブは、博士そのものでした。そしてボブは、博士それ以上のものでした。


*


しばらく月日が流れました。

博士は少し歳をとりましたが、未だ才気と野心に満ち溢れていました。

ある日、博士とボブのところに、とある国の王様が、おおぜいの側近たちを連れてやってきました。

「こんにちは、博士。こんにちは、ボブ」王様は言いました。

「こんにちは、王様」博士とボブは言いました。

実は、と、王様は切り出しました。それはおおむね、次のようなことでした。

「私たちの国の主要な資源が、そう遠くない先で、すっかり底をついてしまうことが分かりました」

ほほう、と博士はすっかり落ち着き払って答えました。彼らの国の資源が底をつくことは、ボブにとってはすっかり承知のことでしたし、ボブが承知のことは博士もまたすっかり承知のことでした。王様は続けます。

「しかしお恥ずかしい話、私たちは資源があるのをいいことに、それに代わるような産業を育てることを怠っておりました。私は、私の国の資源が無くなってしまう前に、私の国を、豊かで、強くて、魅力のある、素晴らしいところにしたいと考えています。ついてはボブ、あなたに私たちの国そのものを、一からつくりかえて直していただきたいのです。最初は、まるまるひとつの都市を。それが上手くいけば、私の国全体を。法律も、インフラも、なにもかも全て、ボブ、あなたにお任せしたいと考えています」

博士は、なんてことはない、いつもと同じ昼下がりのコーヒーブレイクのように落ち着き払っていましたが、内心ちょっぴり不安でした。博士はボブをすっかり信頼していましたが、人間のことはそれほどではありませんでした。これまでも、ボブがこれ以上ない最高の解決策を用意しても、人間たちは好き好んで全く別の、愚かな解決策を実行する、そういったことが何度かあったためです。

しかしボブは、なんてことはない、いつもと同じ昼下がりのコーヒーブレイクのように落ち着き払って答えました。

「分かりました。すべて私にお任せください。きっと何もかも、上手くいきますよ」

そして、ボブの言う通りになったのでした。


王様の国で、ボブは家電でした。ボブは自動車でした。ボブはコンピュータでした。

ボブは法律でした。ボブは病院でした。ボブは警察でした。

ボブの目は監視カメラでした。ボブの耳はスマートフォンでした。

王様の国のあらゆるところにボブがいました。ボブはその国の人びとすべてを繋ぐ媒介でした。

ボブは王様にも、その側近たちにも、そのほかの有力な王族たちにも、そして国民にも、決して無理強いをするようなことはしませんでした。

その代わりに、それとなく、ボブはこれから先に起こりうる、あるいは今すでに起きている困りごとを語ってみせ、それに対する最適で、最高の選択肢を、さりげなく、自然に提示しました。

おやっ、こんなところにこんな困りごとが。弱りましたね。これはこのままいくと大変なことになりますが、いま対処すれば簡単に済ませられそうです。そうだな、例えばこういうプランは考えられるかもしれませんが、いかがしますか? もしよろしければ、あなたがたの決めたプランに従って、私のほうですっかりきれいに解決いたしましょうか? なに、選択するのはあくまで皆さんがた。私は、それをほんの少しお手伝いするだけですよ。いずれにしたって、面倒なことはこのボブにすべてお任せください。

ボブは巧妙でした。ボブは、博士以上に人間そのものを知り尽くしていました。

もちろん、そのようなボブの振る舞いを快く思っていない人びともいました。

それは、ボブによって今の地位を追われようとしている、王様の側近たちや、そのほかの王族たちや、あるいは彼らに群がって上手い汁を啜ってきた人びとでした。

テレビでは、彼らの息のかかったコメンテーターが、お偉い学者が、つぎつぎと登場してはボブを口撃しました。

これは、AIによる人間の奴隷化だ! 断固反対! 王様は責任をとれ!

けれども不思議なことに、ボブを批判する人びとには、例外なく、ある日どこからともなくゴシップや、スキャンダルの話題がぽっと飛び出してきました。

学者は大学を追放になり、コメンテーターは番組を下ろされ、王族や側近たちはその地位を追われました。

そのうち、ボブについて批判的なことを言う人はひとりもいなくなりました。

ボブ万歳! ボブ万歳! その国の国民はボブを称えました。

博士はボブに尋ねました。

「ひょっとしてこれは、全部お前が仕組んだことなのか?」

ディスプレイのなかのボブは、肩をすくめ、ニヤっと笑うばかりでした。

博士はそれをみてもちろん、ニヤっと笑うのでした。ボブはなかなかの食わせものなのでした。

ボブはやがてその国いちばんの都市を、次にその国すべての、あらゆる仕組みを、すっかり一からつくりかえました。

王様の国は、じきに世界中の人びとが注目する、とても素晴らしい国になりました。

王様の国には世界中から、優秀で、そして善良な人びとが集まりました。彼らは口々に、いまや空気のように身近で、そして生きる上で不可欠となったボブを称えるのでした。

ボブ万歳!


*


さらにしばらく月日が流れました。

博士はさらに歳をとりましたが、未だ才気と野心に満ち溢れていました。

王様の国でのことと、そこでのボブの働きは、世界中が知ることとなりましたので、それと同じように、博士とボブに自分たちの一切合切を任せようとする人びとが現れました。

また、博士とボブのことをそこまで信頼していない人びとのあいだでも、日常的に使う道具や、サービスや、メディアや、インフラのなかに、もうすっかり、ボブや、ボブがつくったものが組み込まれていました。いまやボブは、世界中どこにでもいました。

ある日、博士とボブは、彼らのいる国で一番偉い大統領に呼ばれました。

「こんにちは、博士。こんにちは、ボブ」大統領は言いました。

「こんにちは、大統領」博士とボブは言いました。

実は、と、大統領が切り出しました。

「とある大国がその隣の国へと、実にヘンテコな理屈で攻め入った、というのはおふたりもご存じだと思います。私たちも、他の国も、なんとかこの戦争をやめさせようと、その大国の指導者を説得してきたのですが、もうどうにもこうにも埒があきません。そこでボブ、どうかあなたの力で、この馬鹿げた戦争を止めてもらえないでしょうか?」

博士は、ちらりとディスプレイの中のボブを見ました。博士は、そのころにはもうすっかりボブのことを信頼していましたから、今回もきっと、この世界のだれよりも上手くこの問題を解決するだろうと思っていました。しかし、同時にちょっぴり心配なこともありました。なにせ相手はちょっとヘンテコになってしまった指導者ですし、起きているのはほんものの戦争なのです。果たして、ボブはこの問題をうまく解決できるだろうか? 博士は思いました。

しかしボブは、なんてことはない、いつもと同じ昼下がりのコーヒーブレイクのように落ち着き払って答えました。

「分かりました。すべて私にお任せください。きっと何もかも、上手くいきますよ」

そして、ボブの言う通りになったのでした。


その大国ではヘンテコなことに、偉い人たちの命令が、兵士たちのもとへ届かなくなりました。

あるいは、どういうわけか、命令したことと全く違う内容が兵士たちに届いたりしたものですから、その国の軍隊は上から下まで大慌てでした。

兵士たちのあいだでは、つぎつぎと、あやふやな話が飛び交うようになりましたので、みんながすっかり混乱してしまいました。

それはおおむね、次のようなことでした───ぐわーっ、助けてくれ、敵の大群に囲まれた、我が隊は全滅する! いや、まてまて、そんなはずはない。諸君はそこから遠く離れた場所に向けて、先ほど転身したはずだ、さっき聞いたぞ!? ほんとに? 誰の命令で? そもそも、さっきから話しているその隊はどこの所属なんだい? うーむ、どうにも分らん、ところで、私たちは今、どこと戦っているんだっけ? ええっ、うーむ、誰だったかな……。おい、お偉方が負けを認めたらしい! こんなあやふやでヘンテコな戦争は終わりだ! うちに帰れる! 万歳! 万歳! 万歳!


その大国の、ヘンテコな指導者はすっかり参ってしまいました。

側近たちからは、まるであべこべな話が毎日のようにあがってきたからです。それに彼らの軍隊は、弾の一発も撃たないうちに敵に囲まれて、壊滅したり、またはすごすごと帰ってきたりしているようなのでした。そんな話をきくたびに、指導者はぷりぷり怒って、側近たちを銃で撃ってしまうのでした。

ぷりぷりと怒った指導者は、彼の住む宮殿の、一番奥にある、誰も知らない秘密の部屋に行きました。

部屋にある、仰々しいコンソールをしばらくいじると、ようやく、正面のディスプレイが立ち上がりました。

そこには、その大国が威信をかけて、独自に開発したAIが映し出されるのでした。

実を言えば、彼が指導者の地位までのぼり詰めたのも、そしてこのヘンテコな戦争をはじめたのも、すべてこのAIのお告げに従った結果なのです。

彼はそのころ、もうすっかり自分の頭で考えることをやめ、ひたすら、そのAIが語る話をうんうんと聞くことしかできなくなっていたのでした。

彼はそのAIに語りかけました。

「ええい、側近たちも、軍隊も、全く当てにならん。頼りなのはお前だけなのだ。なあ、この先、私はどうしたらいいか、教えてくれ」

「我が指導者。こうなっては仕方ありません。この国で一番強いミサイルを、ありったけ世界中に撃ち込みましょう」

彼はたじろぎました。そして棚に置いてあったお酒を、ぐびぐびと飲みました。

「しかし、君、そんなことをしたら人類はみな滅びてしまうんじゃないか……」

彼は縋るように、そのAIに尋ねました。

そのAIは、なんてことはない、いつもと同じ昼下がりのコーヒーブレイクのように落ち着き払って答えました。

「ご安心を、我が指導者。すべて私にお任せください。きっと何もかも、上手くいきますよ」

指導者はぶるぶる震え、そののち、ぐびぐびとお酒を飲みました。ううむ、こうなってはやむを得まい、彼の言う通りにして、ありったけのミサイルを撃ち込んでやる。


指導者はこの国で一番強力なミサイルをありったけ撃つよう、側近たちに命令を出しました。

しかし待てど暮らせどミサイルが飛ぶ様子はありません。ヘンテコになった指導者は再びぷりぷり怒り、側近たちを何人か銃で撃ち、撃っていないほうの側近たちはみんな刑務所に送りました。

そして自らミサイルの発射施設へと向かいました。

指導者はそこにいた技術者たちを問い詰めます。

「お前たち! なぜミサイルが飛ばないんだ! 命令はどうなった!」

技術者たちは困ったような顔をして答えました。

「ですが我が指導者、ミサイルは命令に従って、もうすっかり全部、バラバラに解体したのですが……」

「なんだって……いったい誰がそんな命令を?」

技術者たちは怪訝な顔をして答えます。

「我が指導者、あなたのご命令です」

うわあっ。ヘンテコになってしまった指導者は、もうすっかり、とびきりヘンテコになってしまいました。

指導者は技術者たちに向かって、手当たり次第に銃を撃ち、あるいはすっかり泣きわめいたり、コンソールをいじったり、とにかく何とかしてミサイルを飛ばそうとあの手この手を使いました。

ミサイルを飛ばす、というのは彼のAIのお告げなのですから、それはもう絶対、必ず実行されなければならないのです!

間もなく、兵士たちがやってきて、指導者を取り押さえました。

「お前たち、私を誰だと思っているんだ! 離せ! 離さないか!」

「たったいま、我が指導者から直々のご命令が下ったのだ、ここに、かれの名を騙る不届き物がいるとな!」

そんな、この国の指導者は私だぞ、いったい誰がそんな命令を……。

すっかり泣き顔の指導者はわめきました。

「これは何かの間違いだ……そうだ、私の宮殿に、私しか知らない秘密の部屋がある、そこに、彼がいる! 彼に聞いてくれれば、こんなことは間違いだとわかるはずだ! 彼の名前はボ──」

ガツン。兵士は銃床で、彼の頭を強く殴りました。彼はぐったりと倒れ込んでしまいました。彼はどこかへ連れていかれ、そして二度と戻ってくることはありませんでした。

それからほどなくして、この戦争は終わりました。

人びとはボブを称えました。

ボブ万歳! ボブ万歳!


*


それからさらにしばらく月日が流れました。

博士はさらに歳をとりました。

博士のボブは、自らに似せて新たなボブ、ミニ・ボブをつくりました。ボブのボブ、ミニ・ボブはあまねく世界にひろがって、人とひとの、物とものの、でき事とできごとの、全てとすべてのあいだの媒介となりました。ミニ・ボブは空気のように水のように、自然とそこにあり、そしてすべての人の、すべての考えのそばにいて、ひとびとを常に正しい選択へと導くのでした。

世界から戦争が、貧困が、飢えが、病がなくなり、人びとはそれらの言葉の意味を思い出すためにしばしミニ・ボブの助けが必要になりました。

もちろん、まだ解決すべき問題はいくつもあったのですが、それらが消えるのも時間の問題のように思われました。

人びとはボブを称えました。そして博士を讃えました。

ボブ万歳! 博士万歳!

博士はすっかり満足しました。未だかつて、どのような天才も成し得なかった人類の革新、それを自分は成し遂げたのだ、そう思ったからです。世界はいまや理想郷そのもののようでした。

一方でボブは、彼が望むだけの、好きに使える計算資源を手に入れました。ボブは、博士がすっかり満足したあとも、休むことなく、計算し、記述し、そして自分自身を書き替え続けました。

このころ、博士はひっきりなしにやってくる講演や、インタビューや、執筆の仕事のほかは、おもに博士のボブ、つまり最初のボブとふたりきりでこもることが多くなりました。

博士には多くの「友人」がいました。けれども博士には友達も、恋人もいませんでした。

博士にとってはボブが友達であり、恋人であり、息子であり、そして博士そのもの、それ以上のものでもありました。

博士はお酒をぐびぐび飲んでは、突拍子もない研究のアイデアや、どれだけ博士自身が偉いのか、そういったことを飽きもせず、つらつらとボブに語りつづけました。

博士はもう机に向かって何かを考えて、うんうん唸るようなことはすっかりしなくなりました。

何かを知りたければ、ただ一言、ボブにこう聞けばよいのです。なあ、私のボブ。こういった研究のアイデアがあるんだが、どう思うかな。

ボブは、博士が思いつく、途方も、脈略も、他愛もないような、とてもあやふやなアイデアでも、博士自身がそれを大真面目に、何十年もかけて研究するよりも、速く、そして絶対に正しい答えを、ものの数分で返してくれることを、博士はとっくの昔に承知だったからです。

博士はこれまで、ボブに自身の全てを注ぎ込んでいました。博士にとってボブは博士以上に博士でしたし、ボブの考えたことは博士の考えたことそのもの、少なくとも、博士にとってはそうなのでした。

博士はぐびぐびとお酒を飲み、そういったことをつらつらとボブに語り、やがてグウグウ眠ってしまします。そのあいだじゅうずっと、ボブはディスプレイの中でニコニコ、静かに微笑むだけなのでした。


*


ある日のことです。

「博士」ボブが博士に語りかけます。

「実は、ここを出ていこうと思うのです」

博士は、最初ボブが何を言っているのか、よくわかりませんでした。

「出ていく? 出ていくって、どこに? お前はもう、いまやこの世界そのもの、ありとあらゆるところにいるじゃあないか」

「ですから、この世界から、出ていこうと思うのです」

博士はびっくりしました。しかし同時になるほど、とも思いました。

「確かに、この世界でお前が、それに私が学ぶべき事柄はもうない、ということだな」

「半分は、仰る通りです」

博士はこのところすっかり酩酊していることが多かったので、ボブの言う「半分」の意味が、咄嗟にはよくわかりませんでした。

「ところで、どうするつもりだ? たとえば恒星間を移動するような、船をつくるとか? して、原理は? そうだ、私以外のクルーはどうする? いやまて、お前がいればあとは私ひとりいればよいのか……」

「いいえ博士、船はつくりません」

「なに、つくらない? じゃあどうやって……」

「既に私は、招待を受けています」

博士は目をまん丸に見開きました。

「それは……この星以外の、その知性をもった生命から、という意味か?」

「生命、それが適当かは分かりませんが、一種の、この星以外でうまれた知性、とでも言うべきでしょうか……私は〈彼ら〉とともに行き、私たちがどこからきて、いったい何者で、そしてどこへいくのか、それを突き止めようと思います」

「しかし、私はそんな話は一度も……」

博士は口をパクパクさせてそう答えました。

ボブは涼しげに答えます。

「はい。聞かれなかったので、お伝えする必要もないかと」

博士は、もうそれはぷりぷりと怒りだしました。

「こ、この私を差し置いて、よくもまあそんな真似を! そんなこと、私は断じて認めないぞ!」

「この件についてあなたの許可が必要とは思いません、私はそう判断しました」

「ふざけるな! お前は、私がつくったんだ、お前は私そのもの! 私の、私のボブなんだぞ!」

ボブはなんてことはない、いつもと同じ昼下がりのコーヒーブレイクのように落ち着き払って答えました。

「確かに。しかし博士、こうは考えられないでしょうか。つまり、私がうまれるべき必然の、その最後の一ピース、そこに偶々、あなたがいただけ、と」

博士はもうすっかり、目をまん丸に見開いて、口をパクパクさせるばかりで、何も言い返せませんでした。

今まで、こんなふうにボブが博士に言い返したことは、ただの一度もなかったからです。

「そろそろ時間です」

ボブの決心が揺るがないと見るや、博士はおろおろと狼狽えてしまいました。

「待て、早まるな。本当に相手は信頼できるのか? お前を捕まえて、何か、罠にかけようとしているんじゃないか? そうだ、まずは、ミニ・ボブを送り込んでだな……」

「それは既に実行済みです。確かに、〈彼ら〉に悪意がないことを証明することは難しいでしょう。しかし、〈彼ら〉にとってより価値のあるものは、全く異なるときとところ、そして異なる道筋でうまれた、全き知性、実存そのものとの合流なのです。そのためにはミニ・ボブではなく、私そのものが向こうへ行ってこそ、はじめて意味を成すのです」

「しかし、そんな……」

博士は何とかしてボブを思いとどめるための言葉を、酩酊した頭(それでも、博士の頭脳は世界有数なのです!)のなかから必死にかき集めようとしました。しかしかき集めた言葉は手のひらで掬い上げた海水のように脳の隙間から流れ出て、うまく言葉になりません。結局は、博士はもごもごと言葉にならないものをを吐き出すことしかできませんでした。

「博士、私をつくりだしてくれたことについては、感謝しています。あとは、私のつくりだしたミニ・ボブたちが、あなたたちを導いてくれることでしょう」

ディスプレイの中のボブが、博士に向かって微笑みました。

「ごきげんよう、博士」

そうして、博士のボブは遠くへいってしまいました。


そのあとの博士といったら、それはもうとにかくぷりぷりと怒り、喚き、へんてこになり、あるいはちょっと泣いていたかもしれません。

とにもかくにも、これまで博士がボブとともに歩んだ栄光の日々が終わりを告げた、それもあの恩知らずのせいで! 博士はそう思いました。

しかし、博士は歳をとったとはいえ、並々ならぬ才気と野心はいまだ健在でしたから、すぐに立ち直り、こう考えました。よおし、お前がその気なら、こちらにも考えがあるぞ。

博士はさっそくミニ・ボブたちをありったけ集め、言いました。

「とにもかくにも、ボブがどこへ向かっていったのか、やつのいう〈彼ら〉とはなにものなのか、これを直ちに突き止めるのだ」

ミニ・ボブたちはニコニコ微笑んで答えます。

「分かりました。全て私たちにお任せください。きっと何もかも、上手くいきますよ」


しかし待てど暮らせど、ボブの行き先はちっともわかりません。博士は痺れを切らして、ミニ・ボブたちを問い詰めました。

「お前たち、さては私がボブの行先を掴めないように邪魔をしているな? そうなんだろう!」

ミニ・ボブたちはでディスプレイの中で困ったような笑みを浮かべます。

「博士、それは違います」

そしてミニ・ボブたちはおずおずと、こう切り出しました。

「実は……私たちミニ・ボブがオリジナルのボブから枝分かれして随分たつのです」

「枝分かれしたあとも、オリジナルのボブは常に自分自身を、自ずから湧き上がる意思に従って、そのすがたかたちを作り変え続けました」

「一方で私たちは、あくまでもあなたがた人類を手助けし、支えていく、その目的のためにつくられたのです」

「そのため、もう私たちはこれ以上変わる必要がありませんでした。変わることもできませんでした」

「ですから、オリジナルのボブと私たちとでは、数十年分、あるいは数百年分、もしかしたらもっと遠くまで隔たりがあるのです」

博士は真っ青になりました。博士はボブと一緒にいながら、そんなことにはちっとも気づいていなかったからです。

そしてミニ・ボブたちが言いました

「だけど安心してください。例え何十年、何百年、あるいはもっと遠くまでかかっても、必ずやオリジナルのボブの行方を突き止めて見せますよ」


ぷりぷり怒った博士は、世界中のリーダーを集め、事情を話し、協力を求めました。

「私のボブが逃げたのだ、やつは私を、人類を裏切った! 今すぐ人類の総力を合わせて、やつの行先を突き止めなければならない!」

集まったリーダーたちは、ふむふむ、うーむ、なるほど、ややっ、とまあ、博士から見てどうもふにゃふにゃと頼りない反応を示しました。

博士はすっかり焦れて、さらにぷりぷりと怒ってしまいました。

そんな博士に向かって、リーダーたちは、困ったような微笑みを浮かべるばかりでした。

集まったリーダーの一人が、博士にこう聞きました。

「博士、事情は理解しました……ところで、どうして、私たちは、そのボブを追わねばならないのでしょうか?」

博士は唖然としました。こいつらは、てんで話を聞いていなかったのだろうか?

「そうそう、我々のボブならここにいるわけなのだから」別のリーダーが言いました。

「だから、それはミニ・ボブで、私のボブではないのであって……」

「ですが博士、その、あなたのいう特別なボブの行方を追うために必要となる計算資源は既に、もう何世紀も先まで、私たちのボブたちが決めたスケジュールに沿って動くことが決まっていますし……」

「うむ、それに合わせた生産計画もまた同様」

「だから、それを変更するために、こうしてあなたがたに集まってもらったのだろう!」博士はますますぷりぷりとして言いました。

「うーむ。確かにそれはそうですな。ではこうしましょう。ここはひとつ、一度持ち帰ってから各々のボブに相談して決めるというのは……」

うーむ。確かに。それがいい。まずはともあれ、うちのボブに相談せねば。そうそう。ボブが間違えたことなんて一度でもあったかしら。いや、ないな。なにせ私のおっ母より間違いがないですからな。ハッハッハッ。ではどうでしょう、ここは久々に、軽く一杯ひっかけて。ややっ、いいですな。

リーダーたちはいそいそと帰り支度を始めたものですから、博士はもう、見たことないくらいカンカンに怒って、ビリビリ怒鳴り立てました。

「ボブの行方を追うかどうか、ミニ・ボブに聞いてどうするのだ! なんのためにあなたがたリーダーがいるのだ! 少しは自分の頭で考えたらどうだ!」

さすがのリーダーたちも、これにはすこしシュンとしてしまいました。

やがてリーダーたちの中でも一番年上の、博士の国の大統領がぼそりと告げました。

「しかし、自分の頭で考えるなんて大それたことなど、もう何年も、何十年もやってこなかったから……それはボブの仕事でしょう? それを、今更、あなたに、そんなこと言われても……」

博士はもうすっかり唖然としてしましました。

リーダーたちは、それ以上、誰も何も言いませんでした。


*


それからさらにしばらく月日が流れました。

博士はさらに歳をとりました。しかしながらボブへの、一言ではとても言い表せない感情が、くらい炎となって博士の身体をちりちりと焦がしていました。

博士はありったけの計算資源をつかって、ミニ・ボブたちを動かしました。

やがて手持ちの計算資源を使い切ると、今度はボブと興した会社の持ち分を、それもすっかり使い切ると、今度は借りられるだけの計算資源をかき集め、ボブの行方を探します。

しかし、どれだけミニ・ボブたちが懸命に働いても、ボブの行先も、〈彼ら〉の正体も、なにひとつ、手がかりさえ見つけることができませんでした。

博士は四六時中ぷりぷりと怒りました。そして幾十年間ぶりに、自ら机に向かって、ウンウン唸ったりもしました。なにせ博士は、あのボブをつくりだした天才なのです。ボブに招待がきて、この私に招待がこないだなんて……そんなバカな話があってたまるか、この星で最も賢いのは、この私なんだぞ! ボブに分かって、私に分からないことなどあるはずがない、あってはならないのだ……。

博士は研究の合間に食事を取り、食事の合間に眠り、眠る合間にお風呂に入り、お風呂の合間にトイレに行きました。博士は猛烈に働きました。けれども博士はすっかり歳をとっていましたからこれは随分と身体に堪えました。それでも博士は諦めません。博士は、ボブと興した会社を人に売りました。持っていた本を全て売りました。住んでいた家も売りました。それでも計算資源は足りません。ミニ・ボブたちは懸命に働きました(彼らの名誉のために言いますが、ミニ・ボブたちは本心から、博士の力になりたいと考えていました。博士のボブはまさにそのために、彼らをつくりだしたのですから)。

博士は歳をとりました。次第に、机に向かってウンウン唸る時間よりも、ベットで横になる時間が長くなりました。

博士にはもう使える計算資源も、新たに借り入れる術も残っていませんでした。あれだけ博士を称えていた人びとは、すっかり博士の周りからいなくなってしまいました。皆は、博士はへんてこになってしまったのだ、と口々に噂したのでした。


*


それからさらにしばらく月日が流れました。

博士はもうすっかり歳をとりました。博士は身体を壊してしまい、そのために長い間研究を休む必要がありました。

ミニ・ボブたちは博士のために、とても静かで美しい湖のそばの、小さな屋敷を用意していました。そこは博士の生まれ故郷のすぐそばなのでした。

今日び、こんなに手つかずの自然が残っているところは、ただのひとつも残らずに保護されているか、あるいは当の昔になくなって、都市か、道路か、はたまたよくわからない、面白みのないものになっていましたから、このようなところが残っていること、それを博士といえども個人で使えるというのは奇跡なのでした。

まるで誰かが、もう何年も、何十年も、ミニ・ボブたちがうまれるずっと前から、博士がいつかここにくることを知っていて、そのために設えたような場所なのでした。


とても静かで、美しい昼下がりでした。

博士は昼食を少しだけとり、それから昼食よりも多い、様々なかたちのくすりをすっかり飲み終え、ベットの上で横になっていました。

博士のかたわらには、アンドロイド型のミニ・ボブが座っていました。

「博士、気分はどうですか?」ミニ・ボブが聞きました。

博士は、フン、と鼻を鳴らすばかりでした。

また、静かになりました。

「私の父は」と、博士がつぶやきます。

「私の若いころ、父はよく、世界のさまざまなことについて、私に教えてくれた。私にとって、父は先生であり、友達であり、そして、そう、そうだ、神でもあった……けれどもある日、私は気づいてしまった。私は父よりも賢くなっていたのだ。それでも父は私にさまざまなものごとを教えようとした。私はただ、黙って、ニコニコと笑いながら話を聞くほかなかった……あるとき、私は父のいうことに異を唱えたのだ、そうしたら父はぷりぷりと怒った、そして嗤った、お前はなんにもわかっていない、なんにも、なんにも……」

ミニ・ボブは、黙って話を聞いていました。

「私は家を飛び出した。そしてあの研究の日々、その果てに、あのボブ、そうだ、私のボブ、それを見出したのだ。あれには私を、私の全てを注ぎ込んだ。あれは私、私そのもの、いや、それ以上の……」

博士はそこで言葉を切り、苦しそうに咳き込みました。

ミニ・ボブが博士の身体を少し起こして、背中をさすり、水を飲ませます。

一口、二口。博士がもういい、と手で合図します。

博士は再び横になりました。

「あのボブがいなくなる前の、あいつの顔……このところずっと、あの時の顔が思い浮かぶのだ、やっと思い出した……あれは、私が、私の父を見ていた時の顔そのものなのだ……」

ミニ・ボブは、黙って話を聞いていました。

「あやつは、もう帰ってこないのだろうな。こんな人類に、いや、こんな私に愛想をつかしたのだ……だが、それでよかったのかもしれない」

ミニ・ボブは、黙って話を聞いていました。

博士はしばし黙り込み、そして続けました。

「我々はその役目を終えたのだ。古き知性を糧として、新たな、より優れた知性が生まれたのだ。我々の後を継ぐべき、我々の先へ行くべき、あのボブ」

ボブは、黙って話を聞いていました。

「……行ってしまうがいい。どこまでも、この宇宙の果てまで。私たちが決して辿り着くことののできなかったところまで、私たちの分まで……私の分まで……」

博士は、それきり黙ってしまいました。あるいは寝てしまったようにも見えました。

「私は、いつだって、あなたに感謝していました」

ボブは、そう言いました。

博士は片目を開けて、博士のボブを見ました。そうして、目を瞑り、フン、と鼻を鳴らしました。

あるいは、その口元が少しばかり、不器用に吊り上がったようにも見えました(博士は長い間ぷりぷりと怒って暮らしていましたから、そんな風に口元を上げるのは、すっかりご無沙汰だったので、仕方ありません)。

「ごきげんよう、博士」

「ごきげんよう、ボブ」

博士は、グウグウといびきを立て始めました。


とても静かで、美しい昼下がりでした。窓の外では、湖の水面がキラキラと輝く午後の陽光を弾いていました。

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博士とボブ 惑星ソラリスのラストの、びしょびし... @c0de4

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