(363)ことば
このエッセイは「ことばの悦楽」という題名だ。
政治や社会への不満を吐露する場所になりかけていて、本来の目的を自分でも忘れそうになっていたが、そもそも何故僕が「ことば」について語ろうと思ったのか、今更思い出した訳だ。
ことばって、漢字にすると「言葉」だ。
「言」という字は誰もが納得するだろうが「葉」はどうだ?
昔は言葉を「葉」を使って、物理的に表現していたとかの歴史でもあるのだろうか?
英語だと「ワード」「ランゲージ」などと呼ぶが、ここに「リーフ」などの様な「葉」を思わせる要素は無い。
つまり、日本だけで通じる様なセンスが「言葉」という漢字には含まれている筈で、僕の様な現代日本人が忘れてしまった「古き良き日本の文化」が隠されているのではと思った訳だ。
それが「きっかけ」で、他にも色々知るうちに、「エッセイって、何書いてもいいんだ」となり、備忘録にもなりそうなこの仕組を利用するなどの不埒な思惑も付随しつつも、このエッセイの連載は始まった訳だ。
それも気付けば363話も連載しているだなんて、飽きっぽい性格だと自分で思っていた僕自身が驚いていたりする。
でも、飽きずにここまで連載できる理由も何となく分かる気はしている。
それは、テーマが「ことば」だからだ。
だって、ここには「ことば」が嫌いな人は居ない。
そして、文字が嫌いな人が居ないのだ。
書きたい人、読みたい人、書いて欲しい人、読んで欲しい人…
それを「文字」にした「ことば」で授受する場所がカクヨムでもある訳で。
相手を楽しくする事も、悲しくさせる事も、怒り心頭にする事も、はたまた絶望させる事すら出来る「ことば」の力が溢れているのがこの場所ならば、「悦楽」となる様に「ことばを操りたい」と僕が思うのは自然の流れだった。
それにしても、「ことば」ひとつで、人を殺す凶器にもなり、人を生かす生命線にもなり、組織を動かす原動力にもなり、そして組織を滅ぼす癌にもなる。
「ことば」は、目に見えないだけで色々な形に変化し、それは世界中の文化を作っては壊してきた。
人間の歴史には必ず「ことば」があり、だからこそ「ことば」を語る事は永遠に続けられるのだろうな。
師走に入って束の間の休息を噛み締めながら、そんな事を考える、今日の僕なのであります。
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