OVERDRIVE

嶌田あき

OVERDRIVE(前)

 地球から音楽が消えて、もうどれくらい経つだろう――。

 西日の差す会議室。机越しに上級保護官から渡された身分証を手にした私は、ふと考えた。

 音無おとなし高校2年G組。くすエルマ。これが今回、私に与えられた身分だ。

 かわいい名前。私はオレンジ色の髪を耳にかけながら笑った。

「何か不満かね?」

「いえいえ」

 人類は究極の物理理論の完成を前に、根性で別宇宙に渡るワームホールを開通させた。電子ひとつさえ通れないその極微の穴を研究者たちは〈橋〉と呼び喜んだ。閉塞感に満ちた世界を抜け出し、果のない別宇宙に渡る橋だ。

 けれど、それは絶対にかけてはならない橋だった。

「それで、今回の不協和音オブジェクトは?」 

 私は机の上のタブレットを手にとった。

 橋のむこうは沼地スワンプランドと呼ばれる物理法則さえも異なる別宇宙。人類が本格的な調査に乗り出す直前で、むこうから干渉が始まってしまった。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

「ビート、テンポ、キー、いずれも不明だ」

 むこうの宇宙からねじ込まれた位相欠陥が不協和音オブジェクトである。予期せぬ異世界からの使者に人類は混乱し、あっという間に秩序を失ってしまった。文明終焉の日は近い。

「詳しくは現地で確認してくれ。それから、本部からすでに1名派遣されとる。合流してくれ」

「いい。ソロで行くよ」

「まあそう言うな。今回はそいつだけじゃ厳しかろう」

 彼は私の背中のギグバッグを顎でさした。

 不協和音オブジェクトと戦うカギを握るのが、この〈超弦楽器スーパーストリングス〉だった。強力な量子重力作用により現在では全ての超弦楽器スーパーストリングスは国際機関の管理下に置かれ、それに準じて全球での楽器の使用停止と音楽活動の永久凍結が決まった。

 それが地球から音楽が消えた日だった。

「重力使いと聞いた。光子フォトン使いの君と相性はどうかな」

「サイアクだと思うけど……」

 それに、ペアの子を失うのは二度とごめんだ。相手は量子化されてないアインシュタイン方程式。音楽性の違いで分裂しそうだ。

 けれど結局、白髪交じりの眉を下げる彼の顔に押し切られてしまった。ずるい。困った顔を見ると面倒な頼まれごとでも断れない私の因果な性分を知ってのことだ。ほんとずるい。

「ユカにも声をかけといて。キーボード、役に立つときがくるから。あと、ミナミも」

「誰だっけかな? いや、すまん。最近物忘れがひどくてな……」

「ヒッグス使いよ。見つかったらでいいわ。じゃあ、行ってくる」

 帰ってきたら報酬にうんと上等のエフェクターをねだるんだ。私はかぶりを振って部屋をあとにした。


 転校生を装って音無高校に難なく潜入した私は、授業もそこそこに校内を歩き回った。生徒から事情聴取するのだ。

 放課後になって、聞いた噂話の中でとびきり怪しかった『開かずの音楽準備室』に向かう。学級委員長がしきりに「ぜったい行かないほうがいい」と言ってたので、むしろ来てみた。えへへへ。

「普通に入れるじゃん」

 見ると扉を封じる南京錠が開いている。きしむ扉を引くと、そこは倉庫のような部屋。オルガンやらアンプやらの楽器が所狭しと並び、小窓から入る夕陽をドラムセットがキラキラと反射している。どれも使われなくなって久しいはずなのに、ホコリはかぶっていない。

「あ」

 先客に気づく。こちらを背にしてテーブルに腰掛け、エレキベースの手入れをしている生徒が1人。濃いグレーのパーカーに蛍光イエローの差し色。ちょっと猫背の背中。

 明らかに普通の生徒じゃない――。無言で振り返る彼女に声をかける。

「あなたが本部から派遣された重力子使い?」

 私の声に驚きもせず、彼女はこくりとうなずいた。私が名前を名乗りながら隣に腰掛けると彼女は相石あいいしたえと名乗った。

「相石さんね」

 握手を求めるが応じない。彼女は少し寂しげな顔をした。

 綺麗な子だな。

 すらり伸びた手足とボーイッシュにまとめた黒髪。切れ長の目の奥で、不思議な光が揺れていた。少年にも見える神秘的で中性的な雰囲気。

「たえでいいですよ」

 そのとき初めて気づいた。彼女の瞳の中に光るものがあることに。それが涙だと理解するのに時間はかからなかった。

 どうしてか訊いてみたかったけど、野暮な気もした。きっと、その答えはこの学校のどこかにあるはずだ。

「いい色だね」

「ん?」

「ジャズベ」

 ベースを指差すと彼女は驚いた様子ではにかんだ。

「あ、ありがと」

 私たちは特別に楽器の携行が許可されている。彼女のは4弦のベースタイプ。私のは6弦のエレキギター。弦の振動パターンによりいろんな素粒子と相互作用を生み出せる。奏でる音楽は時空に対する量子計算、楽譜は量子プログラムだ。歪み系や空間系。いろんなエフェクターも使う。

「よろしくぅ」

 私が手を差し伸べると、彼女はきょとんと目を丸くした。

「あなたが私のペアになるのよね? だから、よろしく」

「え、うん、ああ。そうですね。そうなりますね」

 なんだか調子狂うなァ。彼女の独特のペースに戸惑いながら、改めて手を差し伸べる。彼女はようやくベースから手を離し応じてくれた。

「なんか弾いてよ」

 そうして私がリクエストすると、彼女は恥ずかしそうに応じた。何曲か軽く合わせてみる。なるほどね。こういうのが好きなのか。イケイケ系を地で行く私とダウナー系の彼女。性格は正反対。けど案外、音楽の好みは似ているのかも。

 彼女の繰り出すビートをいつまでも感じていたい――。

 いつぶりだろう、こんなことを感じるのは。


 夜に再会し、校内を見回ることにした。

 校舎内は無人でゴーストタウンのよう。教師や事務員の姿もない。美術室、視聴覚室、調理実習室。薄暗い廊下を慎重に進む。理科室の前で妙な違和感を感じた私はたえを制し立ち止まった。

 ドアに手をかけた瞬間、中でブーンという地鳴りにも似た鈍い音が響いた。

「今のは?」

 言いかけた私の言葉は、轟音に遮られた。

「!?」

 意を決し、2人で同時に部屋に入った。

 そこには巨大な影があった――不協和音オブジェクトだ。

 真っ黒にヌメる異形。巨大なクジラのようにも見えた。5メートルほどもある巨躯をくねらせ、まるで重力なんて無いみたいにゆうゆうと部屋の中を泳ぎ回っていた。やがてそいつはこちらに向かって音もなく近づいてきた。きもちわるぃ。

 黒光りする体がどくんどくんと波打つのにあわせ、部屋全体が唸り声を上げるように大きく震えた。

「でかいなぁ」

 私がのんきな声をあげるとたえは真面目顔でチューナーを読んだ。

「標準ピッチ換算440ヘルツ。質量10テラ電子ボルト。キーはAです」

 たえの冷静な声。暗黒クジラは不機嫌そうに小さな不協和音オブジェクトをぶりゅりゅと大量に吐き出した。こっちはカラフルなクラゲみたいな感じだ。

「下がってください」

 たえがベースを構える。クラゲはにゅるりと光沢を伴って震えた。

「私が引きつけます。あなたは隠れていて」

「ちょい待ち! ひとりで戦うつもり?」

「もちろん」

「無茶だって」

「論理的に最善です。あなたが高音を鳴らせば、このタイプは共鳴して別の不協和音オブジェクトを呼び寄せますよ」

 一理ある。ぽむと拳を打つ私を横目に、たえは八重歯を見せてにやりと笑い、ブンブンと重低音をかき鳴らし飛び出していった。

 すぐに後を追う。

 たえは巨鯨の懐に飛び込むと、素早くステップを踏み虹色クラゲをかわしていった。

「こっちこっち」

 彼女が奏でたのは挑発するようなファンキーなノリのベースライン。巨鯨はすぐに彼女に狙いを定め突進してきた。巨体に見合わぬ俊敏な動き。真っ黒な体の縁は重力場の歪みで陽炎のようにモヤモヤしていた。

 たえはそれをひらりとかわし、焦る様子もなくベースをかき鳴らして反撃する。拍子とピタリあったルート音の提示。コード音を拾う安定感がいい。小節をつなぐフィルインフレーズもなめらか。彼女の繰り出す重力場が、リズムよくクラゲを潰していった。

「上手いっ」

 私はギターを準備しつつ、彼女の演奏に思わず目を奪われる。またひとつ、クラゲが水風船のようにぱしゃんと割れた。

 コード感を押さえつつもメロディーを感じさせる上下の音程変化。部屋を縦横無尽に泳ぎ回っていたクラゲは次々と沼地スワンプランドに戻されている。

「すごい……」

 鮮やかな戦いぶりにため息が出る。ビリビリとお腹の底を震わせる低音。対照的に彼女の身のこなしはダンスでも踊るように軽やかだ。

 けど、いくらなんでもあんなデカブツ相手じゃ分が悪い。

「あんまり気乗りしないかもだけど、組んで戦うしかなくない?」

 私の声に、たえがこくりと頷いた。

 廊下に飛び出ると、巨鯨もついてきた。唸り声のような重低音であたりの壁が震えた。黒い巨体はゆっくりとこちらに向き直り、またもクラゲ状の不協和音オブジェクトを大量に放出した。

「あーやばいやばい」

 慌ててギターを構える。エフェクターは歪み系一発。たえのベースラインから音を拾い、まずはパワーコードのバッキングで様子見。

「このままいくよっ」

 私は頭を振ってギターを掻き鳴らした。ブリッジミュートも入れてハードロックのノリ。うーん、気持ちいいっ。

 このままガンガン潰していくぞというところで、たえのリズムとのズレを感じるようになってきた。アレ? 私が走ってる? 休符あけの音が揃わない。リズムに気を取られていた私はピッキングミスを頻発してしまった。

「ちょ、ちょっとお! しっかりしてくださいよ!」

「たえこそ、裏拍、ノれてないってば!」

 大量のクラゲに阻まれ、私の光子フォトンはいまだ暗黒クジラにひとつも当たらず。互いの音の探り合いを続ける私とたえ。クラゲを潰しそびれることも多くなってきた。

「くっ」

 効いてはいる――けど、あまりにもクラゲが多すぎる。回避か反撃か。一瞬の迷いがテンポを狂わせる。むかつく。持久戦もつらい。むかつく。

 押し戻せるかどうか。この4小節が正念場だ。

「エルマ、うしろっ!」

 たえの叫び声。よそ見してた死角から突進してくる巨鯨。ぶつかる寸前でたえが私の背中を押した。どぅんという鈍い音。

「きゃああっ」

 たえが吹っ飛ばされ、そのまま壁に激突した。私をかばって巨鯨の体当たり攻撃をまともに食らってしまったのだ。

「たえッ!!」

 私は急いで駆け寄り、彼女の身体を抱き起こす。

「しっかり」

「こんなの摂動よ……だいじょうぶ……」

 顔を歪ませ強がりを言うたえに呆れながらも、タフさに感心する。

「あああ、もうこうなったらっ」

 私は思い切ってアドリブソロに出た。ロックなペンタトニックスケール。スライドやハンマリングを入れつつも基本5音をまもるシンプル構成。でも単調にならないようフレージングで遊ぶのが私流。

「泣かすよっ!」

 決め手はハイフレットのチョーキング。

「だめぇっ!」

 たえが目を見開き大声で叫んだ。

 次の瞬間、巨鯨が廊下の幅いっぱいに膨れ上がり、キーンという甲高い音とともに大量の虹色クラゲが放出された。恐れていた共鳴ハウリングが起こってしまったのだ。

「まずいっ」

 もうクラゲの発生スピードについていけない。このまま高音を弾き続けるのは危険だ。仕方なく、ローポジションの低音パワーコードに戻った。

 すぐさまたえが前に出た。ピックを口にくわえ、指引きの高速ベースソロ。スラップ奏法から繰り出されるファンキーで切れのあるフレーズ。クラゲをものすごい勢いで蹴散らしていく。

 ちらりと時計を見る。もう夜明けが近い。

 いつのまにか暗黒クジラはかなり小さくなり、やがて朝の光が廊下に差し込むのに合わせて泡のように消えた。

「――クジラ、逃しちゃったね」

 ぶうんというたえのグリッサンドの音で、最後のクラゲがぱしゃんと破れた。虹色のチェレンコフ放射を見送ってから安堵のため息をつく。私もたえも緊張の糸がぷつりと切れ、その場にぺたりと座り込んでしまった。


 その日以来、私たちは行動をともにするようになった。

 放課後になると音楽準備室に集まって一緒に練習したり、互いに作った曲を披露しあったり、エフェクター談義もした。

 たえは私が知っているあの子とは違っていたけれど、それでもどこか面影を重ねてしまい、懐かしくて、楽しかった。

 彼女はよく笑うようになった。私は笑顔が好きだった。彼女と過ごすときは、私も不思議と笑顔になった。胸にぽっかりと開いてしまった穴を埋めてくれる、そんな存在に思えた。

 ある朝、彼女は教室に顔を出さなかった。さてはサボりだなと思った私は一目散に屋上にむかった。

「またここか〜」

 案の定、たえはそこにいた。

「別にいいじゃないですか。学校なんて退屈なんだもん」

 そう言うと彼女はごろんと横になった。

 こんなに近くにいるのに、なんだか遠い気がした。

 問いただしてもちゃんと答えてくれるかわからない。だから、この方法しかない――。私は密かに決心した。

「ねぇ、たえ」

「なに?」

「ハグしよっか」

 彼女はがばっと起き上がり、予想通り眉をハの字に下げて困った顔。私が両手をひらいて、おいでおいで招くと、たえは「しかたないな」とつぶやいてから素直に従った。これは予想外。

 彼女にすうーっと静かに近寄られると、私のほうがどぎまぎした。首筋から香る甘ったるい匂いを感じながら、私は彼女をゆっくりと抱きしめ、すすすと背中に手をまわした。

「ごめん、ちょっと触るね」

「えっ? あ、いたっ、ちょ、いたたたたた」

 たえは顔を歪め、体をこわばらせた。

 やっぱりだ。あの時――巨鯨に体当たりされた時、ぜんぜん大丈夫じゃなかったんだ。

「ごめんなさい」

 彼女は私の肩に額をこつんとぶつけ顔を隠すようにした。

「――大丈夫」

 背中をもう一度撫でる。このケガを誰にも言えずにいたんだろうね。

「どうして?」

「――報告したら、本部に戻されてしまうと思って……」

「とりあえず、上、脱いで」

「ハイ?」

「脱いで」

 目を見て言う。彼女は赤面してごくりとつばをのんだ。

「ちょ、こんなところでだめですよ」

「こんなところじゃなかったらいいのぉ?」

「そうじゃなくて」

 彼女が私を小突く。

「く、す、り!」

「……薬!?」

「そ。塗ってあげるから。はい、脱いだ脱いだ!」

 しぶしぶパーカーをめくる彼女の、恥ずかそうな赤ら顔。なんだかかわいい。背中を見ると青紫色のアザが腰から背骨を登って肩甲骨の間あたりまで広がっていた。

 痛そうっ。でもホッとした。

「大丈夫……」

 腰のあたりから背骨をひとつずつなぞる。不協和音オブジェクトと接触してこの程度で済んだのは幸運だった。私は戸惑いながらも、彼女のスポブラをずらし、持ってきた軟膏を塗ってあげた。

「これ効くから。大丈夫、すぐよくなるよ」

 たえは鼻をすすって謝った。

「ごめん。気持ち悪いですよね」

「そんなことないよ。この傷は名誉の傷。私を守ってくれたんじゃん」

 肌きれい。背中にそっと口づけすると、彼女はびくんっと驚いた。私は何も言わず、そのまま彼女の服を戻した。

「もう隠さなくていいよ。私たち、ペアなんだからさ」

 それから私は鞄の楽譜を取り出し、2人で練習中の曲の鼻歌を歌った。

「あはは。まだ未完成だけど……」

 並んで寝転んで、空にかざして楽譜を見つめた。

 裏を通り抜ける一筋の飛行機雲。私たちの音楽は始まったばかりだ。

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