ただ今、シニアの大学生

高山長治

第一章


「先生!なかなか難しいですね……」

机の横に立つ野沢部長に愚痴ると、部長が咎めた。

「ほら、姿勢が悪いから駄目なの。きちっと正しなさい!」

「は、はい。つい夢中になってしまって」

「それと、力が入り過ぎているわよ」

「ええ、そうですか。自分では気づきませんが、たしかに言われてみると、筆をぎゅっと握っていますね」

「気持ちを入れるのはいいけれど、自然体が必要なの。旨く書こうなんて考えちゃ駄目。文字に勝とうなんて甘いわ。絶対に勝てないんだから、分かった?」

「はい、分かりました。さあ、もう一度書いてようか。まずは姿勢…」と呟きながら、背筋を伸ばし、筆に墨をたっぷり付けて半紙に認めた。野沢が関口の書く様に頷きつつ、隣で半紙に書こうとする海原に注意する。

「海原さん、ほら、足を組んでいちゃ駄目よ」

「は、はい……・」

筆を止め、野沢を覗う。

膝を付け、組む足を揃えぴんとする。そして墨を含ませた筆を垂直に持ち、書き始めようとした時、野沢が注意した。

「海原さん、ほら腕がちじこまっているわよ。ほら、こうよ!」と、肘を掴まれ広げられた。

さらに「こう、こうよ」と野沢に手繰られ、海原が認めた。

「どう、軽く握り滑らかに書く。力は入れず一気に認める。解った?」

野沢の指導に納得したのか、頷いた。

「なるほど、こうですか。つい、旨く書こうと力が入っちゃうんですね。まだまだ、駄目だわ」

ほのかに墨の香は漂う。すると、関口が納得気味に問うた。

「なるほどね、姿勢が悪いや。しかし、先生。書道って難しいものですね。普段の生活態度じゃ、駄目なんですね……・」

「はい、はい。能書きはいいから、言われた通り筆を水の流れのように、気持ちを込めて認めてご覧なさい」

野沢に言われるまま、半紙を文鎮で止め「道」と一文字書く。勿論、野沢の注意を意識してだ。背筋を伸ばし、腕を締めず横にして力まずに認めたが、思わず愚痴った。

「ちえっ、駄目だ。旨く書けねえや!」

つい剥きになり、三枚立て続けに書くが、納得にいく文字が書けなかった。

「やっぱり難しいな。修業が足りねえんだよ、修業が!」と、横に座る海原に告げた。

「そうよね、そう簡単にいくわけないわね。私だって、ほら、旨く書けないもの」

同じ題の「道」を書いた半紙を関口に見せた。

「なにを謙遜しているんだ。旨く書けているじゃないか」

「また、おせいじ言って。嫌だわ」

「そんなことねえよ、センスがあるんじゃないの」

「あら、書道のセンスなんかないわ」

「そうかい、それじゃ団扇ぐらいはあるだろう」

「まあ、なにを言うかと思えば、そんな駄洒落言って。私をからかっているのね。まったくもう……」

「悪い、悪い。ついジョークを言ってすまない。ああ、それにしても一夜漬けじゃ上達しないな。それに反省すべきは、真剣さと努力が足りないと云うことだろうか。それがすべてだよな」

「そのようね」

頷き応えた。すると、反省してか関口が漏らす。

「さあ、口を動かす前に書くか」

新しい半紙を下敷きの上に置き、文鎮で押さえ、姿勢を正して「道」の字を書き始めた。

雑談はそれで終わる。そして、壁に架かる時計を覗うと、午後四時を回っていた。

「あれ、まだこんな時間かよ。結構まともにやっていたから、随分経ったような気がしたが、部活終了まで一時間以上あるぞ」

投げやりな気持ちになるが、気を引き締め直し、一呼吸して前方に目をやり野沢先生の方を覗うと、三班の秋山きよが書いた半紙を見せ、朱色の墨で修正されていた。それを見ていて気づく。

「おっと、こんな中途半端な気持ちじゃ駄目だ。真面目にやらねば」

ふたたび筆を取り、先生の書いた「道」の字を参考に、一気に進めた。出来上がりを見て頷く。

「うむうむ、今度は旨く書けたな。これは上出来だ。そう云えば、先週の授業後のクラブで書いた「永」と云う文字と、今回の「道」は、書道の基本らしいな。先生が講釈していたものな。俺は素人だから解らんが、そんなもんか。だって先週は何度も朱色で修正されていたからよ。それにしても、筆を使って書くのは何年ぶりだか。使っていた筆にカビが生えているくらいだから、自慢じゃねえが中学生頃だったなあ。五十年は経っている。と言うことは、ひぇっ、半世紀も前かよ!」

驚きと共に、今こうして向き合っていることに、なにか不思議な感覚を覚えた。するとそこに、後席から石田が声をかけてきた。

「関口さん、結構よく書けているじゃない。先生に見せなさいよ。私、さっき随分朱色の墨で修正されちゃった。この前の「永」と云う字も旨く書けなかったし、今回もよ。悔しいわ。それで、前回宿題出されたでしょ。家で書いて来たんだけど、それも二重丸貰えなかったわ」

「そうなんだ、それは残念だね。俺の場合は宿題やってこなかったからな」

「あら、そうなの。先生に叱られるわよ」

「そら、しゃあねえよ。先週クラブが終わって片づけた際、書き損じた半紙と先生が見本に書いてくれた半紙を、迂闊にも一緒に捨ててしまったからな。そんなんで、書けなかったんだ」

「あら、いけないんだ。そんなこと、先生が聞いたら怒るわよ。だって、私たちにとって大切な見本よ。それを捨てちゃうんなんて、心構えがなっていないわ」

「たしかに、反省するよ。そこで相談があるんだが。宿題、何枚も書いてきたんだろ?」

「えっ、私、三枚書いて来たわ」

「そうかい、それなら一枚俺にくれねえか。宿題やってきたことにして、先生のところに持って行くから、頼むよ」

「なに言っているの。そんな邪なこと考えていたら、見破られてお目玉喰らうわよ」

「まあ、そう言うな。仕方ねえ、もし先生に言われたら、忙しかったと言い訳するか。渋い顔をされたら、今回その分頑張りますとか言ってよ」

まるで、中学生のような言い訳を抜かしつつ、惚けた顔で机に向かう。すると、また石田が促した。

「さっき書いたの旨く書けたんでしょ。先生に見せないの?」

「おお、そうだった。見せて来るか。まあ、どうせ朱色墨で直されるだろうがな」

そう言い、半紙を持って野沢のところへ行った。すると、野沢が意外にも三重丸をくれ、皆に告げた。

「関口さんが、こんなに上手に書いたわよ。見て下さい」と、半紙を高々と掲げた。

「わあっ、旨いですね!」の声が上がると、関口がにたり顔で、調子に乗り親指を立て自慢した。そして席へ戻る。気分がよかった。やっぱり褒められるのはいい。年甲斐もなく、その気になってまた書き始めるが、今度は気負い失敗し続けた。

「くそっ、旨くいかねえや……・」

ぶつぶつとぼやき、筆に益々力が入った。すると、野沢の声が耳に飛んできた。

「皆さん、旨く書こうなんて考えちゃ駄目よ。そんなこと考えて書いたら、絶対文字に勝てないわよ。それに背中が丸まっているわ。力を抜いて姿勢を正して書きなさい!」

「おお、そうだった。さっき言われたんだったよな」

力む肩の力を抜き、ふっと息を吐く。そして背筋を伸ばし、墨を含ませた筆を軽く持ち、一気に走らせた。すると、結構まともな「道」が書けた。

うむ、旨く書こうと思っちゃ駄目なんだな。自然体か、これが一番いい。さて、もう一度先生に見せて来るか。まあ、なんて言われるか……・。

思案しつつ見せた。

「先生、お願いします」

野沢が半紙に書かれた「道」を見て、感嘆の声を上げる。

「あら、上手ね。随分上達したわよ。素晴らしいじゃないですか、これ、ホワイトボードに張るわね。皆さん見て下さい。関口さん、こんなに上達しました。私なんかいらないくらいだわ」

冗談ぽく告げ掲示した。関口が内心ほくそ笑む。

じつに嬉しいね、嘘でも褒めて貰えば嬉しいもんだ…。

鼻をつんと上げ、自席に戻った。その顔は正しく若き頃の目の輝きだった。

しかし、この歳になって授業を受け、さらにクラブ活動をするなんて、夢にも思っていなかった。

そんな思いが込み上げてきた。そこに、クラブを終えてか、一班の仲間が覗き込み声を掛けてきた。

「あら、上手じゃない?」

「まあな」

関口が得意気な顔をすると、野沢から書道部として、学園祭提出の話しが出された。

「皆さん、筆を置いて聞いて下さい。これから色紙を配ります。これは十一月に開催される学園祭に、我が書道部として皆さんが書を認め提出して頂くものです。夫々好きな言葉を、一字でも四字熟語でもいいですから書いて貰います。まだ期間がありますので、各自ダブらないように決めて下さい」

一通り用件を説明した。

「どうですか、皆さん。なにが宜しいですか?」

すると、クラブ員の中から手が上がる。

「はい、田中さん。なにか決まりましたか?」

「ええ、私は『中』一字にします」

「そうですか、それでは田中さんはその字に決定します。他の皆さん、『中』は田中さんに決まりましたので、違う文字にして下さい」

すると、各自が次々に挙手し決めた文字を披露する。

「はい、はい。それでは皆川さんは『川』と云う文字。それに宇田川さんは『道』。今回練習している題材ですね。他の皆さんはいいですか、分かりましたか?」

「はい!」

皆の声が発せられた。すると、関口がぽつりと「やっぱり来たね、当たりだぜ」

と漏らして、隣の海原に話しだす。

「そうか、学園祭に出すのね。どうしよう……」

不安顔になると、つられて関口が告げた。

「心配するな、まだ時間がある。けど、色紙に書くんかいな。半紙なら失敗しても書き直せるが、色紙じゃそうはいかねえよな……」

そして眉を潜めた。

「そうよね……・」海原が呟いた。

二人で戸惑っていると、察してか野沢が声を張り上げた。

「はいはい、皆さん。学園祭はまだ先です。それまで頑張って精進して下さい!」

「そうだな、俺はどうするか。なににするか考えもんだぜ」

すると、後席の石田が口を挟む。

「私、自分の名前にしようかな。八重子だから八重とかに」

「私も育子だから、育にしようかな」

隣の海原が同様に披露し、「関口さんはどうするの?」と振った。関口がしばし戸惑う。

「どうするか、いや別に今決めなくてもいいんだろ。ゆっくり考えるよ。それにしても一発勝負か。半紙なら失敗しても何度も書き直して、旨く書けたものを提出せればいいのに。書き直しがきかねえって云うのは、ちょっと辛いぜ……」

そこに皆の気持ちを察してか、野沢から声が飛ぶ。「皆さん、上手く書けなくてもいいんですよ。下手でもいいの。一生懸命書けば、観る人には上手い下手じゃないの。気概を見て貰うのよ。どうせ皆さんは素人です。所詮プロには適わないの。そんなこと分かるでしょ。いい歳しているんだから」

そう見透かされ、我に返る。

「ううん、いいこと言うじゃねえか。つい学生気分になって、悩んでしまったぜ。俺も若いな。こんな些細なことで狼狽えちゃ、この歳が泣くと云うもんだ。そうだろ」

後席の石田に、振り向きざまに言った。

「嫌だ、そうよね。ついつい昔の私になっていたわ」

恥じらう目が輝いていた。

そんなこんなで取り組んでいると、クラブ活動終了の時間となった。

「さあ、後片付けして帰るかな。おっとそうだった、今日はこれから一班の親睦会があるんだっけ。ええと、今何時だ?」

腕時計を見た。

「おお、四時半か。ちょいと急がんと、五時からだからな」

そそくさと習字道具を片づけ始める。

「さあさあ、早く行きましょ。急がないと、遅れちゃうわよ」

忙しなく石田が帰り支度をしながら告げた。すると、終礼当番が「挨拶をします。それから片付けをして下さい!」

急く声が掛かった。

「おっとそうだ、終礼があったんだ」

慌てて起立し、一斉に挨拶をする。

「お疲れ様でした!」

シニアの元気のよい声が教室内に高く響いた。壮年とは思えぬ、まるで中学生頃の開放される声だった。



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