平日逃避行
英
平日逃避行
窓から差し込む麗かな春の日差し、小鳥のさえずり、こんなに気持ち良く一日のスタートを切れるなんてきっと今日は良い日に違いない。
ベットから降り制服を着る、初めて来た時は制服に着られているようでなんだかぎこちない見た目だったが三年目となるとさすがに着こなせるようになった。
いつものように学校へ行く準備をし、いつものように出来たての朝ごはんを食べ、いつものように玄関を出る。
そしていつものように学校へ行く、はずだった。
いつも通り通学路を歩く。私の通学路には住宅街を抜けた先に川がある、川沿いには桜が植えてあり少し前の時期には見頃を迎えていた。川の上には橋がかかっており桜のトンネルが一望できたりもする。
私が川沿いに沿って歩いていると近所に住む同級生の大垣真澄が橋の上に立っていた。
ホームルームまでまだ時間がある、ここで時間を潰していくのも悪くはない真澄は橋の柵にもたれかかって上の空のようだ。なら、やるべき事は一つ。
息を殺しひっそりと橋のたもとまで来ると細心の注意を払いながら真澄の背後まで近づく。驚かしたらアイツがいったいどんな反応をするのか想像するだけで胸が高揚感でいっぱいになった。
私は真澄に背後から声をかけようと口を開く。
すると突然、真澄は橋の柵に足をかけ柵の上に立つ。その行動に何の躊躇も感じなかった。
橋から飛び降りるつもりなのか?
目の前で起きた予想外の行動に頭が飽和する。それでも体はこのままじゃまずい事をわかっていた。咄嗟に体が動く。
「真澄!」
私の声に気づいた真澄が振り向く。しかし反動で足を滑らせ体勢を崩す。
「危ない!」
そう言った頃にはもう遅かった。
橋の下からバシャンと大きな音が聞こえ水が飛び散る。
私が慌てて橋の下を見下ろすと真澄が仰向けの状態で浮かんでいた。
幸いにも大怪我はしていなさそうだ。私はホッと胸を撫で下ろす。
私は回り道をし下に降りる、その頃には真澄はずぶ濡れの全身を引きずりながら川から這い上がっていた。
「真澄、怪我は無い?」
「怪我は…無い、水位が結構あったから」
真澄はゲホゲホと咳をしながら制服の水を絞る。
「なら良かった、それにしてもなんで飛び降りなんかしようとするのよ。
水位があったとはいえ遊びにしては危険すぎるでしょ」
心配の気持ちと安堵の気持ちが混ざり叱責のような言葉が溢れる。
「遊びでやろうとはしてないよ」
「……それってつまりどういう事?」
「そのままの意味だよ」
私の困惑に目もくれないような返事をした後真澄はそれっきり黙り込んでしまった。
へっくしゅん!
真澄のくしゃみが沈黙を破る。
「アンタが飛び込んだのは遊びかそうじゃないかの決着を付ける前にまずはその服をどうにかしないとね」
「どうにかすると言われても…今から家帰って着替えようにも絶対母親と鉢合わせるし。あの人の事だからびしょ濡れの理由も事細かく聞いてくるよ」
「どこの親だって自分の子供がこんな快晴の日にびしょ濡れで帰ってきたら理由ぐらい聞くでしょ」
私はやれやれとため息を付いた。
「じゃあ、私の家来る?今日両親とも早出って言ってたから今頃家に誰も居ないよ」
「同級生の女の家にびちゃびちゃのまま入れってのかよ」
「嫌なら着いてこなくていいよ」
私はスカートのポケットからハンカチを取り出し真澄に渡すとくるっと真澄に背を向け自宅への道を辿る。
「別にいらないのに」と後ろからつぶやく声が聞こえる
「びしょ濡れのアンタを街中で歩かせるつもりなんだからせめて顔ぐらい拭きなさい」
「……わかったよ、ありがとう」
そう言うと真澄はペタペタと足音を鳴らしながら私の後ろを付いてきた。
シャワーの爽やかな水音が止まると廊下と洗面所を隔てた扉の向こうから声が聞こえる。
「なんで男物の服持ってんの?父親の?」
「違うよ兄ちゃんのクローゼットから新しいの適当に選んできた」
少しサイズが大きかっただろうか、長ズボンの裾を引きずりながら真澄は洗面所から出てきた。
「学校、走って行ったら今からでもギリギリ間に合うよ」
私を気遣うように真澄が言う。きっと真澄なりの優しさなのだろう。
「間に合うかもしれないけどアンタをここに取り残しておく訳にはいかないから」
「……ごめん」
「別に気にしなくても…」
洗面所で働いてる洗濯機の音が耳の奥まで響く。
「そういえば真澄、なんで川に飛び込もうとしたの?」
私がそう聞くと真澄の動きが一瞬止まった気がした。
「答えにくいとか…そう言うのだったら全然大丈夫だよ」
再び沈黙が訪れる。
「…母親とうまくいってなくて…それで」
沈黙の中で真澄そうつぶやく。
「母親と?」
「話せば長くなる」
真澄の母親はいつもキッチリとしており特に真澄の勉強面に関しては厳しい、私の記憶が正しければ真澄は隣街の名門私立中学を受験していたはずだ。
「その話私で良ければ話してくれる?」
「つまらないし良い話でもない」
「目の前で死なれるよりはマシだよ」
真澄は私の目を見つめるとため息を付いて話し始めた。
「……大まかに言えば進路の話だよ、重岡なら知ってると思うけど俺は中学受験に失敗して近くの公立中学に通う事になった。だから『せめて高校は良いとこに行ってね』って母親に言われてるんだよ。でも俺は、母親の意見とは別の高校に行きたい。それで思い悩んで…」
「別の高校…?」
「笑わないで…聞いてくれるなら話す」
真澄は顔を赤くして聞いてくる。
「ここまできて笑う訳ない」
私は真の通った眼差しで応える。
「……絵の…学校」
「…美術科って事?」
陰がこくりと頷く。
「私は良いと思うよ、美術科の道。真澄の人生なんだし」
私がそう言うとタイミング良く洗濯機がタイムカードを切ったかのように合図をする。
「洗濯機止まったし干してくるね」
「俺も手伝うよ、自分の制服だし」
ベランダに出ると心をほぐす様な暖かい日差しが私たちを包み込んだ。頬を撫でる初夏の風が心地よい。
「なるべく皺を伸ばしてから干して」
「了解」
物干し竿に掛けた服が風に影響されゆらゆらと揺れた。
「真澄、この後どうする?」
「重岡が邪魔って言うなら俺は近所を散歩してるよ」
「誰も邪魔なんて言ってないでしょうが……どうせ今から行っても遅刻だし今日はアンタと一緒に羽を伸ばすとするよ」
「重岡がサボりなんて珍しいね」
「誰のせいだと思ってるのかね?」
真澄は図星を突かれたのか申し訳ないと言わんばかりの顔をする。
「ねぇ、私の家に居ても制服が乾くの待つだけだし外に遊びにでも行かない?」
持論だけど優等生と言うのはいつも全力だ。勉強にも全力を尽くし、遊びにも全力を尽くす。サボる時だって全力でサボる。我ながら良い提案だ。
「…良いけどもし知り合いに見つかったら?」
「誰も私たちの事なんか見てないって」
「そもそも俺、今財布持ってないよ」
「ちょっとぐらいなら奢るよ」
「…………」
「奢られっぱなしってのが気に食わないなら今度私にアイス奢ってよ、それでおあいこ。どう?」
「…わかった、でも夕方までには帰ろう。帰宅中の同級生に私服で鉢合わせたくない」
案外早く説得できたのは真澄が乗り気だったからだろうか。私は少し嬉しくなる。
「でも遊びに行くって一体どこに?」
「隣街のショッピングモールとかは?」
「いいね」
「じゃあ、そうと決まれば早速出発ね」
隣街には電車を使って行く、そう決めると私たちは駅に向かう。正午前の住宅街は静かなものでどこかの家の庭に植えられた椿の木が風になびかれ葉音を立てるのがよく聞こえる。
駅までの道のりでは「昼飯は何にしようか?」とか本当に何でもない話をしながら歩いた。
15分ほど二人で談笑を交わしているとこの街の駅に辿り着く。
私は改札口の外れで二人分の切符を買うと一枚真澄に渡し改札を通った。
プラットホームには鞄を抱えた会社員、気だるげな大学生、金持ちそうな若い女性が電車を待っていた。
「…隣街、行くの久しぶりだな」
電車を待っていると真澄がそうつぶやく。
「ここ最近は集客に力を入れてるらしくて新しい店が色々建ってるって聞いてる」
「へー、それは楽しみだね」
するとピロリロリンと軽快な音がプラットホームに鳴り響く。次の電車が来ますとアナウンスが入ると暗闇から鉄の塊がごうごうと騒音を立てて現れホームに風を吹かし目の前で止まる。
扉が開くと私たちはそれに足を踏み入れた。
さぁ、平日逃避行の始まりだ。
隣街の駅を知らせるアナウンスが流れると私たちは扉の前に立って下車の準備をする。
隣街の駅は私たちの住む街の駅とは違い広々とした都会的なプラットホームをしていた。
電車の扉が開き私は隣街の地を踏み締める。
「ここもかなり綺麗になってるね」
真澄も降車し私の隣を歩く。
改札を通り地上へ出るとお洒落で空間的な光景が広がっていた。
「わぁ、すごい!滅多に用事が無いから私も最近来てなかったけどすっごくおしゃれになってる!これだけ色々あったら目移りしちゃいそう!」
「で、モールってどこ?」
「アンタはもっと周りの景色を楽しみなさい」
真澄のテンションの上がり幅を考えると今度来る時はクラスの女子グループで来ようと私は心に決めた。
気持ちの高ぶりを抑えると私はサコッシュに入れたスマートフォンを取り出しモールへの道を調べる。
「このまま直進すれば着くみたいね」
私はそう言うと軽い足取りでモールへ向かった。
「目移りし過ぎないように頼むよ」
「あっ、あそこのショーケースに飾ってあるアクセサリーかわいい〜!」
「はぁ…」
モールに着くと未就学児を連れた親子が仲睦まじそうに歩いていた。
「なんで直進するだけでこんなに疲れるんだ…」
「そう?私は楽しいけど」
モール内は休日と比べて人が少なくどの店も空いており、ゆっくり見て回れそうだった。
「そういえば重岡ってそんなに服に執着するタイプだったっけ?前まで動きやすい服が一番とか言ってた気が…」
「それは小学生の頃の話でしょ」
「そんなに前だっけ、時の流れって早いね」
「来年は高校生だよ、私たち」
「…そうだね、本当に早い」
雑談をしながら歩き、気になった店があれば入る。そんなどこにでもあるウィンドウショッピングだが学校のある平日という条件が付くだけで特別な時間に感じられた。
「そろそろお昼ご飯時だしフードコートが混む前に少し早いけど昼飯ご飯にしよっか」
私のお腹がぐぅ〜と鳴る。
「そうだね、俺もお腹空いた」
「ラーメンにしようかな、カレーうどんもいいな〜」
「味覚は小学生のままで安心したよ」
私たちがフードコートに着いた頃には既に先客が大勢いた。
「うわぁ…平日なのに意外と混んでる…」
「みんな私たちと同じ考えだったみたいね」
なんとか二人分の席を確保し向かい合って座る。
結局私は醤油ラーメン、真澄は素うどんを頼んだ。
「人の奢りだって言うんだからもっと高いもの頼めば良かったのに」
「だって、高そうなの買ったら奢り返すときの請求が高く付きそうだし…」
「そこまで私もケチじゃないわよ」
頼んだ物が手元に来ると私はさっそく頬張った。可もなく不可もないような味だったがやはり外で食べるご飯は楽しい。
「……食べ終わったら行きたい店があるんだけど良いかな」
「行きたい店?別に良いけど…」
私が承諾すると真澄が少し笑った気がした。
「あ〜お腹いっぱい」
昼食を済ませフードコートを出る。
「それで?行きたい店って?」
「画材屋だよ、さっき館内マップを見た時見つけたんだ」
そう話す真澄の声色は心なしか楽しそうだった。
私は真澄に先導されながら歩く。
「あっ、ここだ」
アンティークな雰囲気の店の前まで来ると真澄は嬉々として店内へ入って行く。
真澄の後を追うように私も店内へ足を踏み入れる。
店内には色とりどりの絵の具やインク、コピック。大小様々な筆。色んな形をしたイーゼルなどが上から下まで所狭しと並んでいた。
まるで宝箱の様な空間に思わず私は息を呑む。
「凄い…こんな楽しい空間がモール内にあったなんて…」
一方で真澄は他の棚には目もくれず筆のコーナーへ一直線に進む。
「…筆?」
「そう、水彩画に使う丸筆を探してる」
「やっぱり美術科志望って事は家でも絵の練習するんだね」
「…うん」
真澄は人差し指で筆の入った箱をなぞる様に探す。
「…そういえば真澄ってなんで美術科目指すの?」
その言葉を聞いた瞬間、彷徨っていた真澄の右手が動きを止める。
「そ、それは…」
「うん、聞くよ」
真澄は浅く呼吸をして話し始めた。
─────────────
「わぁ!真澄くん絵上手い!」
日光を吸い込んだ小麦色の肌に艶のある黒髪をなびかせ唯一の見物人はやって来る。
「…また来たの?」
「ますみくんの絵は見てて楽しいもん」
「…はぁ」
「はるちゃーん!いっしょにトランプしよー!」
教室の遠くで女子の声が聞こえる。
「…良いよー!今行くね!」
そう言うと見物人は名残惜しそうに俺の元を去っていく。
─重岡 春佳─
クラスの人気者、成績優秀で世渡り上手のクラスメイト。
休み時間に遊ぶにも充分すぎる数の友達を持つアイツがなぜ教室の隅で一人で絵を描いている俺の元へ来るのか、自分自身では理解しかねる。
「…どうせ、冷やかしなんだろうな」
翌日─
「今日はなんの絵を描くの?」
今日も見物人は俺の元へやってくる。
「俺の絵、そんなに観てて面白い?」
「んー、ますみくんの絵は面白いっていうかきれい…?って感じかな。きれいな絵は完成が楽しみだから完成が待ち遠しくてついつい観に来ちゃうんだ」
春の日差しのような表情から発せられたその言葉に疑いなんてかけられなかった。
「……そんなこと初めて言われたよ」
「家では絵描かないの?」
「描かない…かな。絵をかいてるとお母さんが『こんな子供じみた遊びなんていつまでも続けたら駄目』って言ってくるから」
「そっか…お母さん、厳しい人なんだね。でも私はますみくんの絵好きだよ」
「でも、お母さんは俺の将来の事を凄く大切に考えてくれてるから…だから…」
自分の目から自然と涙が溢れているのに気付くのに時間はかからなかった。
「ますみくん…」
さらに翌日─
今日も見物人はやってくる。
「…ますみくん、昨日は大丈夫だった?」
「…まぁ」
「お母さんの事話してる時のますみくんはなんだか元気が無いように見えたよ、でも私はますみくんの好きなことをしたらいいと思う。だって私たちまだ小学生だし…」
「その事なんだけど、俺中学受験する事になったからもう絵はかけない。勉強に専念する」
「え……それって…」
俺のカミングアウトに見物人は愕然とした表情を浮かべる。
「でも、中学受験に受かったら今よりもたくさん絵をかく。その時は─」
「観に行く!……それってダメかな?」
「好きにすればいいよ」
見物人はやったぁと嬉しそうにつぶやくと別の友達の元へ去っていった。
あと数年、我慢すればたくさん絵がかける。そしたらお母さんにも絵を認めてもらえる。それにまたアイツにも─
俺はその日から筆を持ち替えた。
三年後─
俺は小学校を卒業し中学生になった。近くの公立中学の。
三年前の俺が絵をかかなくなったあの日から重岡とはあまり話さなくなった。
その間の小学校生活はほとんど勉強に当てた。元々俺は勉強が嫌いだったがまた絵を描けるようになる、その希望があったからか俺は頑張れた。
しかし現実は無情である。俺は中学受験に失敗し二度と筆を持つ事を許されなかった。
『あんたが遊んでるばっかりに!!!』『真澄、次はちゃんとやれるよね?』
母親から浴びせられた言葉の数々が耳の奥でこだまする。
「ごめんなさい、お母さん」
俺は一体何をしているのだろう。その頃から母親との関係が怪しくなった。
そんな日々から数ヶ月経ったある日、塾の帰り道に絵画教室を見つける。
─見学だけでもOK!、生徒募集中!─
看板に書いてあった文字に吸い込まれるように俺は足を踏み入れる。
中に入ると穏やかそうな中年女性が俺を迎え入れてくれた。
「あら、こんにちは絵画教室のお客さんかしら」
「見学だけでもって書いてあったので…」
「嬉しいわ、奥へどうぞ」
「お邪魔します」
奥はアトリエのようになっておりイーゼルや丸椅子がたくさん並べてあった。
「よかったら一緒にどう?」
女性は俺をイーゼルの前に案内しにっこり笑いながら言う。
「でも正式な生徒でもないですし、そんな…」
「あら、それは残念。実は人を集める為に無料体験期間を試験的に設けようと思ってたのだけど…」
女性はそう言うと俺の方をチラ見する。商売上手とはこの事を言うのだろう。
「…やります」
「ふふ、そう言ってもらえるとありがたいわ。自己紹介を忘れていたわね、私は斉藤陽子。
今は画家を引退して先生として絵を教えてるわ」
「大垣真澄です。絵を描くことが…好きです」
「大垣くんね、じゃあ早速だけど始めましょうか」
それから一週間、俺は斉藤先生に絵を教えてもらう事になった。
久しぶりにかいた絵はぐちゃぐちゃで自分でもため息が出るほどだったが絵をかいてる時間は自然と無心になりとても楽しい時間を過ごせた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、俺の体験入学期間は最終日を迎えた。
「うん、かなり腕が慣れてきたわね。それと、体験期間今日で終わりだけれどどうだったかしら?」
「…やっぱり絵を描くのは楽しいです。俺が絵を好きだった事を思い出させてくれた斉藤先生には感謝しかないです」
「まぁ、嬉しい事言ってくれるじゃない。その気持ち、大切にしてね」
あっ、そうだ!と先生は何かを思い出したかのようにアトリエの奥へ駆け足で急ぐ。
「大垣くん、これ」
俺の元へ帰ってきた先生の手には水彩画で使う丸筆が握られていた。
「筆…これがどうしたんですか?」
「大垣くんの絵は特に光の表現が素敵だから水彩画に向いてると思って、もし良ければ受け取ってほしいわ」
本当に貰って良いのか迷うも俺が筆を受け取ると先生は優しく微笑んだ。
「短い間でしたがお世話になりました。それと…筆、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそありがとうね」
先生は玄関まで俺を見送ると名残惜しそうに手を振った。
────────────
って言う事があって…
語り終えると真澄は口を噤む。
「あ〜、そんな事もあったね懐かしいな。当時のアンタの態度ときたらそれはもう意地悪だったんだから」
「初めて絵を褒められてどうすればいいか分からなかったんだ、ごめん。当時は怪訝そうな態度してたかもだけど内心褒められて結構嬉しかったんだよ。
先生の事もあるけど…やっぱり重岡みたいに絵を評価してくれる人がいると頑張りたくなる」
「へぇ、それはどうも。でも、先生の存在ってアンタにとってかなり大きいんじゃない?」
「うん…先生のおかげでまたスタートを切れたしね。本当に感謝しかないよ」
そう言うと真澄は筆のコーナーから視線を逸らし店を後にした。
先を歩く彼の背中は少し寂しそうだった。
「…買わなくていいの?」
「欲しいものが無かったからね、っていうか重岡に払わせる物でもないし」
「画材ってかなり金額いくしね…」
「……そろそろ帰る?ぼちぼち制服も乾いてそうだし」
「真澄がそう言うなら、私も帰る」
服も見れてお昼ご飯も食べ新しい体験も出来た。今日は最高の平日だ。
帰路は往路に比べて人通りが多かった。
私たちは行きと同じように電車に乗る。
「真澄、画材屋で何を探してたの?」
電車のリズムに揺られながら私は問いかける。
「あー…先生に貰った筆と同じものを探していたんだ」
「同じ筆?二本も持ってどうするの?」
「実はこの前親に隠れて絵を描いてるのが見つかっちゃって…画材を全部取り上げられたんだ。取り返そうと家中探し回ったけどどこにも見つからなかったから…もう…」
────────────
「真澄、ちょっと来なさい」
いつも通り学校から帰ってきたら神妙な面持ちをした母親に呼ばれた。
「……何?」
「あんたまだ絵なんか描いてるの?」
母親が向けるナイフに俺は全身の血の気を引かせる。
「え…?何のこと?」
「しらばっくれるつもりね、いいわ。さっきあんたの部屋の掃除をしてたのそしたらね、これを見つけたの」
そう言いながら母親は腕を突き出してくる、その手には俺が親に隠れて描いていた絵と画材が握られていた。もちろん先生から貰った筆もその手の中に。
「それは…」
「また受験に失敗するつもりなの?勉強が疎かになるからあれ程絵は描くなってお母さん言ったよね?真澄がお母さんの言う事聞いてくれない悪い子になっちゃって悲しいわ」
「勉強はちゃんとやってるよ、それに…絵は息抜きで描いてるだけ」
「調子のいい事言ってるんじゃないわよ!!!!」
怒号と共に画用紙の引き裂かれる音が鼓膜をつん裂く。
「勉強はちゃんとしてる?じゃあいつになったら模試で上位になってくれるの!?どうして学年一位すらも取れないのよ!?教えて、真澄?」
俺は浴びせられた罵声よりもバラバラになり床に落ちた紙に意識が向かい何も声が出なかった。
「真澄がお母さんの言った志望校受かるまでこの画材もお母さんが預かっておくから。それと、お小遣いもこれから無しね?お金渡したら画材買っちゃいそうだし。でも、真澄の将来のためよね?分かってくれるね?」
放心状態の俺は母親の言葉に従うしかなかった。
─────────────
「そんなぁ…筆取り上げられちゃったって…大変じゃない!」
「大切に使ってただけに凄く辛いよ」
そう言いながら車窓の外を眺める真澄の目には沈痛な光が宿っていた。
私は真澄にかける言葉が見つからず降車駅に着くまで口を開けなかった。
電車を降りると真澄の方から口を開く。
「…でも、俺は絵を描いていたい。困難な道なのは分かっている、それでも絵の道はどうしても諦められない。俺は、俺にしか描けない絵を描きたい」
先程までの表情とは打って変わって真澄の言葉は力強く、自身の将来への希望を感じさせる程だった。
「さっきも言ったけど私は真澄のやりたい事なら応援するよ」
「…ありがとう、重岡」
ぬるい声で真澄は感謝を述べる。
駅から出ると正午を回り少し傾いた太陽が私たちを出迎えた。
私は入り口付近の自動販売機で水を二本買うと真澄に一本渡し帰路を辿る。
二人の陰に作られるペットボトルの光がゆらゆらと揺れて綺麗だった。
自宅に着くと私はベランダへ向かう。
午前中はあんなにぐしょ濡れだった制服は見違えるように乾いており、気持ちよさそうなリズムで風に揺られていた。
「真澄ー、制服乾いたよ」
「もう乾いたんだ早いね」
「今日は天気も良いし風も程良く吹いてるし、絶好の洗濯日和だよ」
真澄は私から制服を受け取ると丁寧に畳んで自分の膝に置いた。
「後で洗面所使って着替えても良い?」
「良いよ」
「あ、それと貸してもらった服どうしよう?」
「あー、洗濯機の中に放り込んどいて」
「何から何まで尽くしてもらってごめん」
「私が勝手に善意でやってるんだから気にしないの。そういえば私新しくゲームソフト買ったの、真澄も一緒にやらない?」
「せっかくだしやらせてもらうよ。でも俺、負けないから」
「望むところよ!」
たわいもない話だけど今となってはあまり話さなくなってしまった関係の私たち二人にとっては特別な時間に思えた。
「ふぃ〜遊んだ遊んだ」
2時間程だろうか、私たちはゲームに熱中していた。
「そろそろお暇させてもらうとするよ」
「丁度下校時刻だね、制服着て家に帰れば今日の事バレなさそう。まぁ学校から何かしらの連絡が入ってるかもだけど」
問い詰められるの面倒くさいなぁと呟きながら真澄は洗面所の扉を閉める。
数分後、制服に身を包んだ真澄が洗面所から出てきた。
「重岡」
「ん?どうした?」
玄関に向かう途中、真澄が神妙な面持ちで語りかけてくる。
「俺、今日帰ったらお母さんに美術科に行きたいってちゃんと面と向かって言ってみる事にするよ」
「それ大丈夫なの?もし学校サボってるのバレてたらそれどころじゃないでしょ」
「一発殴られる事ぐらい承知の上さ」
「一発だけじゃ済まないかもしれないのにアンタって奴は……まぁ、健闘を祈ってるよ」
玄関に着くと私と真澄はグータッチを交わし友情を確かめた。
「うわ、靴はまだ濡れてる」
「あ、靴乾かすの忘れてた」
「重岡ってたまにそういうところあるよな」
真澄は呆れたような顔でそう言うと玄関の扉を開けた。
「じゃあな、今日はなんだかんだ楽しかった。ありがとう」
「はいはい。今度ちゃーんとツケは返してもらうからね」
「わかってるわかってる」
バタンと扉の閉まる音がし足音が遠ざかってゆく。
一人になった家は何故だか広く思えた。
翌日、私は昨日何事もなかったかのように登校した。幸い家族には学校をサボった事はバレていなかった。兄ちゃんは自分の知らない所で服が洗われててちょっと不信がってたけど。
いつも通り下駄箱に行くと左頬に大きな絆創膏を貼った真澄がいた。
「…やっぱ一発かまされてるじゃない」
私が声をかけると真澄は絆創膏に覆われた頬を左手でそっと撫でた。
「まぁね、泣きながら金切り声上げて殴られたよ」
「うわぁ…大変そう…」
「そういえば重岡、きみ今まで皆勤賞だったらしいじゃん」
「目の前で飛び降り自殺しようとした友達を助ける事と天秤にかけたらそんぐらい安いものよ」
「相変わらずきみはすごいなぁ…」
「そりゃあ優等生ですから」
優等生はいつだって全力だ。勉強をする時、遊ぶ時、サボる時。そして友達の夢を応援する時。
「ねぇ真澄、今度絵を描く時教えてよ」
「小学校の時した約束の話?」
「うん、結局まだ果たせてないから…」
「でも画材取り上げられちゃったしなぁ」
「どうせアンタと事だし何かしら抜け道見つけて絵描き続けるんじゃない?」
「バレたか…じゃあ、まずは抜け道を探すところからだな。手伝ってくれる?」
「もちろん!」
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