東山 昭静

憂い

蝉の声が響く。うるさい。7月5日、火曜日、午後2時半。

クーラーがないと人間生きていけないのではと思う。冷房が程よく効いている教室。子守唄のような先生の声が響く。手の力が抜けていく。先生の声がどんどん遠くに行ってしまう。

「どうして李徴は虎になってしまったのでしょうか」

生徒がどのように授業を受けていても構わないタイプの先生だった。そんな先生の授業は、案の定寝ていたり、ぼーっとしている人がほとんどで真面目に聞いている人なんてほんの一部だった。

私は眠いのをどうにか我慢して蚊に刺されたところを掻きむしった結果、できてしまったかさぶたを剥がしていた。皮膚が平らになっていないと気が済まない。気になってしまう。そのくせに痒いのは我慢できなかった。かさぶたができるとそこだけ飛び出る。それが嫌。というより無性に気になってしまう。噛みグセのある私の惨めで汚い爪でもペリペリと案外簡単に剥がれる。シャーペンを入れてもいい。黒くなってしまうけど。気持ちよかった。まだかさぶたの下の皮膚が出来上がっていないところを剥がしてしまうと血が出る。途中まで薄く剥がせていたのに、最後の最後で少し深いところが剥がれてしまって痛かった。

程よい痛みだった。 血が滲んだ。きっと皮膚の下には皮膚の予備軍みたいなものが少し重なって出番を待っているんだと思う。ちょっと痛い思いをして剥がした小さい皮が机の上に沢山ある。その辺に捨ててもいいけど真面目にゴミ箱に捨てていた。何故か消しカスより全然汚いものだと思う。今まで自分の体を作ってくれていたのに。他人に見せる訳にはいけない。そんな使命感に駆られていた。剥がれたところは血が滲んでいる。

ティッシュは持っていない。「ハンカチ、ティッシュを持ち歩くのは当たり前」とかいう常識や女子力は中学校に置いてきた。ハンカチは持っていないと困るから持っているけど、可愛いし中学の憧れの先輩に貰ったものだ。こんな綺麗な血で小さい赤丸を作ってはダメだ。血小板が頑張って固めてくれるまで待っておく。こうやって何回もかさぶたを剥がすから私の手足は剥がした痕ばかりになっていた。

「先生〜今そこ書いてあるのなんて読むんすか?」

右隣の多分頭の良い男子、山本が先生に突っ込む。山本は彼の前後と右に座っている男子と仲良い、というよりいわゆる陽キャだ。いつもうるさい。ただ、適当に言っているような答えは正解なことがほとんどだった。

「野田ちゃん、あれ生きてる?」

と山本が後ろの男子に話しかける。

「おーい野田ちゃん!」

そう言いながら私の左隣に座っている女子を起こすのだった。私を挟んで会話するのは最初はキレそうだったが、もう慣れてしまった。

私はあなた達にとって無いものでいい。山本は隣に座っている私ではなく、私の後ろにいる女子に話しかけている。体をねじってわざわざ。変に話しかけられてもめんどくさいのでどちらかと言えば居心地は悪くなかった。「なんで自分だけこんな悲しいんだろう」胸がツンとして涙が浮かんだ。私は最近学校をサボってばかりだ。朝学校に行っている時に「行きたくない」と思ってしまうとダメだった。理由は特に見当たらない。学校はサボってはいけないらしい。それでも分かっていても、足が止まってしまう。行けない。

今日もそんな感じだった。ようやく学校に連絡を入れた時の安心感は何倍にも膨らんだ不安や罪悪感となってあとから帰ってくる。サボったら気持ちが晴れることはなかった。自分で不安を煽っていた。

あー東に会いたい。私のこの寂しさを埋めて欲しい。私を認めて欲しい。受け入れて欲しい。優しくして欲しい。抱きしめて欲しい。手を繋いでいて欲しい。目の前がどんどん見えなくなっていった。全部月経前症候群のせいだ。分かっている。

初経が来たのは確か中2の頃。割と遅い方だった。今高2だから4年しか経験していない。それでも自分が生理前にはメンタルがいつもより弱くなるということを知るには十分な年数だった。「生理のことなんて関係なく、ずっとストレスに苛まれるような人生だったら良かったのに」と適当な考えが脳内を一瞬走った。

腕の血はかすれていて、シャーペンが赤くなっていた。

チャイムが鳴った。私は軽く教科書を片付けて教室を先生より早く飛び出し、階段を駆け上がる。8組まで行くと東はロッカーに教科書を直していた。背中が空いている。東に気づかれないように後ろに回ってくっつく。

「柳でしょ、どうしたの」

あー東の匂い。いい匂い。安心する。柔軟剤の香りだけだなくて東っていう人そのものの匂いも混じってとても複雑な匂いになっている。私は東に聞かれていることを無視して、東の匂いを鼻から口から吸った。匂いが脳に届いていく感じがした。東が喋ると私の耳に振動ごと声が届く。心地よい。東に私の全体重を預けたい。でも、彼女はそこまで身構えていない。私は中途半端に東に身を預けていた。多少私が苦しい姿勢になる。幸せだった。

「今日は学校に来たんだ、偉いね」

と言いながら私の手をしっかり握って東の机まで連れていかれる。

「うん、でもなんか無理だったから会いに来た」

「そうか」

自分の語彙力の無さに驚いた。

気づけば私は座っている彼女の背後に立ち、彼女の肩に肘を置いていた。「もっとくっついて」と言わんばかりに彼女は私の腕を引っ張る。彼女の後頭部に私のお腹と胸が当たる。私の気持ちが伝わってしまいそうで怖かった。東は髪型と私服だけ見たら男子だった。昨日辺りだろうか。前髪と襟足を切って刈り上げたらしい。襟足の毛が目立つ。短いからこそ目立たないけど私と違ってストレートのサラサラな髪。でも、身体は女性だった。当たり前だ。東は普通に女子だ。でも、そのギャップのようなものが私にとってはたまらなかった。自分で「胸ないから」と東は言っていたが、私はその薄い身体も好きだった。こんなこと本人に言ったら引かれるだろうか。

さっきから東は私の汚い手を触りながら話しかけている。私は彼女の声も好きだった。高い声ではないし、低い訳でもないけど聞き取りやすいし、発音が綺麗でいい声をしていた。東は自分のことを可愛いと思っていなかった。そんな彼女が好きだった。ほかの女子には抱かない思いがどんどん東に募る。私たちは特に会話はしなかったがそれでも大事な時間だった。私は元気を少し取り戻すことができた。チャイムがなる2分前になる。

「戻らなくていいの?」

「うーん」

「じゃあここで一緒に物理受ける?」

「それは〜ちょっと〜」

「そっか、じゃあ帰りな」

と優しく微笑んで廊下まで見送ってくれた。

私は思わず彼女を抱きしめていた。自分でも力の加減が効かないことが分かった。

「どうしたの」

「よし、大丈夫!ありがとう」

「それは良かった。また後でね」

階段を駆け下りた。私の口角はきっと上がっていただろう。「東のことが好きなんだ」と改めて痛感した。席につくと、今度は涙が出てきた。でもさっきとは訳が違う。「私には東がいる」「私には支えてくれる人がいる」そういうことに気がついた。忙しい。全部月経前症候群のせい。この授業が終わったら東と一緒に帰れる。泣く必要なんてない。

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