第25話 解き放たれた獣

 デイヴィッドは、人間が嫌いだった。


 少年の頃 、村人の女性が「あら、可愛い子ねぇ」と言い、頭を撫でようとした。

 デイヴィッド少年はその手を叩き落とし、数時間私室に引きこもった。

 ……それ以降も彼は人間を避けたし、必要な時以外は関わろうともしなかった。

 ランドルフと出会わなければ、友人を作ることもなかっただろう。


 先代の牧師には、大変な苦労をかけたと自覚している。

 老齢の牧師はため息をつきながらも、辛抱しんぼう強くデイヴィッドと関わろうとしてくれた。

 年老いて身体が上手く動かなくなっても、病に倒れても、先代牧師はデイヴィッドを本当の息子のように扱った。


 だから、恩を返す気になったのだ。


「大丈夫かデイヴ。また頭痛?」

「……るっせぇ」


 荒みきったデイヴィッドに手を差し伸べたのは、先代の牧師だけではない。

 人との関わりを拒絶しても、しつこく話しかけて来たのがランドルフだった。


「難儀だな。その目、綺麗なのに」

「気色悪ぃこと言うなボケ」

「本心から言ってんだよなあ」


 ランドルフはデイヴィッドの悪態に最初は尻込みしていたが、やがて慣れたらしく、馴れ馴れしく愛称で呼ぶようになった。

 デイヴィッドはデイヴィッドで、誰にでも「そう」だったランドルフの態度をいずれ諦めた。


 デイヴィッドは人間が嫌いだった。

 失われた記憶の中に、激しい怨嗟えんさが潜んでいると理解していた。

 ……けれど、彼は運良く出会いに恵まれた。


 いつからか、記憶など戻らない方がいいと思うようになっていた。


 人間のことは今でも別に好きではないが、

 深く関わりたいとは一切思わないが、

 それでも……


 彼は、「デイヴィッド牧師」でいたかった。




 ***





 ズキン、ズキンと眼の奥が痛む。

 はぁ、はぁと息が乱れる。


 デイヴィッドの視線の先には、朽ち果てた廃屋はいおくが佇んでいた。


「あ……ぁ……あぁあぁあっ」


 割れそうな頭を両手で抱え、デイヴィッドは吼える。

 思い出さなくては。いや、思い出してはならない。

 デイヴィッドの葛藤は、濁流だくりゅうの如く溢れ出しそうな記憶をどうにか押し止めていた。



 その声は、不思議とよく響いた。


「マー……ニ……」

「それが、お兄ちゃんの名前だよ」


 うずくまるデイヴィッドを見下ろすようにして、ルーナは静かに語る。

 琥珀の瞳が、ローブの中の顔を捉えた。


「……あ……」


 つう、と、デイヴィッド……いや、の頬に涙が伝う。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 激しい慟哭どうこくの声が、辺りにこだました。


「……なるほど。そう来たか」


 フィーバス……いや、は、その様子を見て独りごちる。


 「異国の古い言葉までは、視野に入れていなかったなぁ……」


 マーニ。それは、北欧の神話にて「月」および「月の神」を示す名だった。


「さて……ようやく、思い出していただけましたか」


 呆然とするデイヴィッドことマーニに、歩み寄るフィーバスことサイラス。

 見開かれた琥珀色の瞳は、煌々こうこうと金色に輝いていた。


「貴方様は正当なるオルブライトの嫡男。神に授けられし『眼』を持つ……この、ブラックベリー・フォレストの領主にもっとも相応ふさわしいお方でございます」


 サイラスはマーニの前にひざまずき、優美な笑みを浮かべて手を差し出した。


「離れろ……」


 ……が、くだんの相手はぜぇぜぇと息を乱し、サイラスを拒絶する。


「……どうされましたか。マーニ様」

「離れろっつってんだろ! バカ野郎!!」


 凄まじい力でサイラスを突き飛ばし、マーニは顔を押さえて悶えた。


「う……ぐ……っ、ぅうううう」

「……どう、されましたか。貴方様は神の化身。この領地に君臨すべきお方のはず……」


 地面にしたたかに身体を打ち、サイラスは血を流す腕を押さえてふらふらと立ち上がる。

 その問いに答えたのはマーニではなく、ルーナだった。


「アハッ……そうだよねぇ。憎くて憎くてたまんないよねぇ!!」


 金髪の頭を包み込むように抱え、ルーナは笑う。


「ひっそり暮らしてたのに! 家族で幸せに過ごしたかっただけなのに! 全部全部、奪われちゃったんだもんねぇ!!」


 ルーナは高らかに告げると、激情を抑え込むマーニの背を優しく撫でた。


「大丈夫だよぉ……もう我慢しなくていい。人間のこと、許す必要なんてどこにもないんだから」


 ほんの一瞬、嘘のように穏やかな声でルーナは囁く。

 身体をすっぽり覆ったローブの下からどす黒い闇が溢れ出し、金の髪を、青白い肌を、土に汚れたカソックを、次々に包み込んだ。


「な……っ、いったい、これは……!?」

「ふふ……利用してるだけだと思ってたでしょお? さすがに、ここまでの力があるとは思ってなかったでしょぉお?」


 おののくサイラスに向けた声は次第にひび割れ、ヒトならざる響きに変わっていく。


「……天才魔術師って名乗ったと思うけど……それは、ウ・ソ! ボクの正体は……」


 黒いローブが弾け飛び、毛むくじゃらの体躯が現れる。

 黒々とした瞳が爛々らんらんと輝き、鋭い牙が口元で妖しい輝きを放つ。


「じゃじゃーん! 魔獣でしたぁ!」


 魔獣と化してなお、ルーナは心底たのしそうな声でわらっていた。

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