Ⅸ 包帯と狩人たち、波待ちと黒い怪物、黒い海水

港町 職人通り跡


 東へ向うと趣の違う場所に出る。かつては漁に必要な道具制作や日用品の修理を担っていた職人たちの聖地だ。

 潮風が当たるのを防ぐ為に海側へ建物が集中しており、加工品に最適な場所だった。また、森が近い事で重い材料を運搬するのに向いていると好まれていた。

 船用の木材加工や金物鍛冶、織物を女たちが主となりやっていたりと、かつての職人区画は漁港と違う熱気があった。

 その熱気も過去の物。十数年の風に晒されて風化しきっていた。過去で廃れてしまった場所なのだ。

 タッタッタッ

 少年入り麻袋を抱えたベローナが職人区画を森へ向かって駆けていた。

 彼女の心は悔しさで一杯だった。

 ――見込みが甘かった。私のせいだ!

 仕込んだ罠も今日までの訓練も、海賊としてくぐり抜けてきた修羅場も、十分に怪物へ通じる手札だと思っていた。 

 伝説通りの再生力を前にベローナは打ちのめされた。年単位で積み上げた武器や罠、それが大した効果がないとわかる瞬間が虚しかった。 

 まるで手製の船で海に出て大波を目の前にしたみたいな無力感だった。

 海賊になって人を殺してまで。走った。

 仲間を犠牲にする道を選んでまで。走った。

 自分はまだ走れるのか。走る。

 ――考えろ。思い出せ。

 虚しさや無力感を振り払うつもりで駆ける。

 怪物と対峙した瞬間を、風景を切り取った版画のように思い出す。

 怪物は避けなかった。火矢の傷もすぐに癒えるような回復力だ。有効打にならない攻撃は避ける必要がないんだろう。爆発がどれほど有効か。

 苦しくなるぐらい走ると、思考が深まっていく。

 驚異的な回復力。それが怪物の一番厄介な力。だが、殺せずとも傷付けられた。

 ――傷付けられる。それが勝算だ。一撃が死につながる武器がいる。アタシだけが知るあの武器が。 

 走る速度が緩まり、最後には息を切らして歩いていた。

 ベローナの脇に抱えられた麻袋が暴れる。

「出して! 行かなくちゃいけないんだ!」

「……」

「ボクを解放するんだ! じゃないとレディに殺される!」

「アイツ、レディって言うんだ」

「いいから、早くボクを解放してよッ」

 息を整えながら、ベローナは考える。

「アタシらが殺される心配ってよりはどこか焦ってる感じ。『逃がして』じゃなくて『解放して』ってのも気になるね。そんなにレディってのに会いたいの?」

 言葉を弄しても、相手を交渉できないと察したコランは歯噛みする。どうしようもないから暴れる。 

「離せッ」

「もうっ。暴れないでよ」

 自然と、少年に気を取られてベローナの足は遅くなっていた。

 それが幸いした。


 建物の影からベローナの頭部目掛けて、鉈が振り下ろされる。

 運良く刃はベローナの右手の甲と麻袋を切り裂くだけだった。痛みよりも先に熱を感じたベローナが目を剥いて、鉈の持ち主に視線を向ける。

「!」

 不意打ちの正体は角に潜んでいた包帯の男。レディの仲間だ。

 裂けた麻袋からコランが地面に落ちた。

「うわ、イタッ」

 包帯の男ラヌがコランを見た。

 瞬間、急速に彼の思考が巡る。

 ラヌは武器を入手するつもりで職人が多かった町の東側を目指した。その道中で麻袋を抱えた若者たちと遭遇した。連中が石を詰めた麻袋を守っていたのが疑問だった。

 女の持つ麻袋からコランが出てきた瞬間、疑問の答えをひらめき、中央での爆発と結び付いた。つまり、レディが子供が奪われて連中が撹乱作戦を展開している事を理解した。

 ベローナも包帯男を見た。

 武装した血まみれ姿。血は男の物ではない、返り血である。そして、男の武器を見る。右手に鉈。そして、左手。

 見間違うものか、仲間が愛用していた物を。それは鍛冶屋タータラが愛用していた金槌。

 ほぼ同時に、ベローナとラヌは互いに相手が敵であると理解した。そして、目の前の敵を殺さねば、と判断した。

 


 先手はラヌだ。女の頭をかち割ろうと、金槌を振り上げた。

 相手が動き出すよりも速い、決め手になり得る二撃目だった。

 パゴンッ

 金槌が振り下ろされるよりも速くベローナの反撃が決まる。

 ベローナが右肩に背負っていた銃の先端を握り、思いっきり振り抜いたのだ。銃床が包帯男の顔面を横殴りに強打した。

 腕を引き、逆手に銃を持つ。怯んだ男の鼻を砕くつもりで顔面を狙う。

 ベローナが追撃に移る。怯んだ包帯男に初撃の有利を押し付けて一気に制圧するつもりだ。

 二撃目が男に迫る中、ギョロリとラヌの目がソレを捉える。

 ベローナは包帯男ラヌを知らない。

 ラヌは痛みで怯まない。強打で頬が裂けながらもラヌは戦意を失っていない。

 強打を食らって体勢を崩すも、意思だけはもう臨戦態勢に戻り始めている。

 殴打のダメージで視界が眩み、回避ができない。なので、ラヌは鉈を振り上げた。

 カンッ!

 鉈のみねが銃床の下部に当たり、そのまま上へ持ち上げた。

 自然と、銃を持つ両手を上に上げた姿勢のベローナと鉈を振り上げたラヌの構図が出来上がる。

「!」

「ッ!?」

 優劣が逆転した。

 互いに格闘戦の距離である。

 姿勢的に鉈は既にベローナの脳天を捉えている。更に彼女は追撃のせいで半歩分、ラヌの方に近付いていた。

 女の右側には廃墟の壁があり逃げ道がない。左に避けようにも、持ち上げられた腕と銃が視界を塞ぎ何があるか見えない。後ろにはコランが居る。状況的に回避ができない。

 ――ならッ!

 ガンッ!

 銃床が間一髪で、鉈の刃とベローナの赤毛頭の間に割り込んだ。

「ぃつッ、くぅ」

 鉈を受けた衝撃で銃床がベローナの額を裂いた。一筋の血が女の顔を這い下り、鼻の所で二股に分かれる。

 ベローナは男を睨み返す。

 ――頬が裂けて歯が見えてるのに痛みを感じないとか。コイツも怪物かよ。

 ――けど、脳の揺れと痛みは別だろう。

 事実、ベローナの思惑通りラヌは強打の後遺症で脳が揺れて身体に力が入らない。覆いかぶさって体重を乗せる以外できないのが現状だ。

 追撃がない事で、今をチャンスだと見たベローナが男を押し返そうと力を込める。

 瞬間、押し返さる前にラヌが金槌で鉈の背を叩いた。

「ぐっ!?」

 ガクッと、ベローナが膝を土につける。

 偶然ではない。明らかにベローナの行動を阻害するタイミングだ。

「……」

 更に金槌が振るわれて、男の重みがベローナにかかる。

 ――嘘、もう立ち直った?!

 ラヌはダメージから立ち直った訳ではない。

 今も頭が揺れている。だが、瞬時に自分の状態を理解して、対格差を活かして女を押さえつける戦略に変えたのだ。

 男と女の体格差もあってベローナは押し込められる。

 ――このままじゃ……。

 己の不利を察したベローナは冷や汗を流した。

 単純な力比べで勝敗を分けるのは身体の大きさと筋肉の多さ。より大きく、より重く。つまり、骨格フレーム筋肉量バルクが必要なのだ。

 ベローナとラヌの場合、性別的な身体の成長差も加味すれば、身長はベローナの方が小さくラヌの方が大きく、体重差が明確にベローナの方が不利であった。

 ベローナに限らず、若者たちの多くは十分な食糧を得ていないので痩せている。仲間の中でも、体格に恵まれた者や戦闘に長けた者に優先的に食糧を分配しているが、ここ最近では悪名が広まった事で海賊行為でも成果が少ない背景があった。

 結果、彼らがどれだけ鍛えていようとも、筋肉を維持する為の食糧が困窮する状況では身体が痩せてしまう。

 加えて、ベローナの体勢が力を発揮するのに不向きだという状況的不利もある。

 戦況の優劣は明白だ。

 体格と体重の優位があり、上を取ったラヌの有利。このまま全体重を乗せて力を込めれば、踏ん張るベローナを簡単に地面へ押さえ込む事が出来るだろう。

 本来なら決着がついていてもいい状況。しかし、現在はラヌ側がやや優勢ながらに拮抗していた。なぜ、決着がつかないのか。

 理由は二つ。

 一つはラヌが最初に喰らった頭部への一撃。それがひどい脳震盪を引き起こしていたせいで、彼の踏ん張りが充分でない。つまり、力が入っていない。

 もう一つは、ベローナの有する戦闘技術である。日々怪物に備えて訓練した彼女は戦闘技術という面だけで見れば、ラヌよりも上手だった。今も上からの圧力を微妙に動かして、重みを軽減させて拮抗状態を維持していた。

 たらればの話であるが、真上から押さえつけられる姿勢でなければ、この状態から抜け出す事すら出来ただろう。

 力の優勢に技で対抗していたベローナだが、今の拮抗状態が包帯男の快復で崩れる事を察していた。なので、その時が来る前に状況を変えたかった。

 痩せた身体の力を使い果たす覚悟でベローナは踏ん張るも、やはり力勝負の結果は変わらない。

 果たして、身体的差とは必要十分な食糧の差でもあった。

 理不尽を噛み締めながらも、ベローナは歯を噛みしめる。

 力の押し合いは当人たちにとって数分の攻防にも感じられた。実際は一分間にも満たない静的なやり取りだった。

 既にラヌは十全を取り戻した。脳の揺れも彼の身体には些末な痛みの一つに過ぎず、痛みであれば、彼はどんなものでも耐えられる。この世で一番の痛みを知っているから。

 ラヌが鋭い眼を若い赤毛女へ向ける。左手の金槌を振り上げた。次の一撃は女の顔面を砕くつもりだ。

 ベローナは包帯男を見上げる。丁度、昼間の陽が背後に回り男の顔に影が差している。

 顔の見えない男に、ベローナは仮面の怪物と対峙した時と似た死の気配を感じた。

 ――殺される……。

 ――死んでたまるかッ。

「うううう!」

 歯をむき出して自分を奮い立たせる唸りを上げて、虚勢を張って、一か八かの押し返しを試みるベローナ。

 必死の抵抗も織り込み済みだとばかりにラヌの腕が動き、無慈悲な殴打がベローナの頭蓋を砕かんと迫る。 



 小さな影が女の脇を駆け抜けて、包帯男の腰に体当たりした。

 女も男も、予想外の闖入者へ視線を向ける。

 影の正体はコランだ。ギュッと眼をつぶって両手を突き出した体勢で、走った勢いのままラヌにぶつかった。

 子供が遊びで父親を突き飛ばす事がある。子供の助走をつけた押し出しは十分大人を突き飛ばす事が出来るのだ。

 体当たりを喰らったラヌの体勢が傾く。すぐに足を後ろへ回して身体を支えるが、それが明確な隙となった。

 ベローナが男の腹に蹴りを食らわせる。

「っ!」

「ぐふっ……」

 渾身の力で蹴り飛ばされた男が地面に倒れたのを見て、ベローナはすぐにコランの手を握って自分の近くに抱き寄せた。

 息を荒くして困惑するコラン。咄嗟に身体が動いただけで、自分が何をしたかもわからないのだ。

 引き寄せられたコランがベローナを見上げる。

「し、死んじゃうって思ったから。そしたら、動いてて」

「助かったよ」

「……」

 コランは包帯男を見る。

 男は顔の左頬が裂けてた。上質だったろう服もボロボロで服の切れ目から覗く全身の包帯も真っ赤だ。傷だらけで血も流している状態にも関わらず、男はもう起き上がって体勢を立て直そうとしていた。

 どうしてこれで動けているんだと、コランは不思議に思う。一瞬、男の姿にトワやレディの死を恐れないで戦う姿が重なった。

 彼女たちは呪いで不死身となっている。傷もすぐに回復する。死を恐れる必要がないから傷付きながら戦える。

 目の前の男は人間の筈だ。なのに、どうしてこんな戦い方が出来るのか。

 彼女たちに感じた恐怖と違うものが呼び起こされる。その恐怖は夜中に起きて暗闇に感じるそれに似ている。得体の知れない恐れ。

「無理だ。逃げよう」

 相手が誘拐犯だという事も忘れて、コランはベローナの腕を掴んで引いた。

 その手を振り払い、女は銃口を男へ向けた。

「コイツは殺さなきゃいけない。危険な奴だ」

「こ、殺すなんて! 駄目だよ!」

「ここじゃ当然の事だよ」

「縛ってしまえばいい!」

 縋り付いてコランが訴える。

 死が怖いから人殺しを見たくない。身勝手とも言える理由で、コランは女を止めたかった。

 けれど、

「君のいた世界とここは違う。他人の命を思う余裕なんてない」

「……」

 言葉を紡ごうとするも、少年の乏しい経験の中に答えられるモノがなかった。

 ベローナが銃の引き金に指をかける。

「何で――」

 現実の前でコランだけが己の無力に悲しみ、命が失われるかもしれない残酷さに苦悩するしかない。

 思い悩む心は正しく、命のやり取りの前では空しい。戦う二人の耳に、理不尽な現実を知らない少年の言葉は届かない。

 ベローナが男を撃とした時、

「……」

 ラヌが顔の前に握り拳を持ってきて、パッと開いた。

 サラサラと何かの粒が落ちる。

 違和感を覚えたベローナは怪訝な顔で、引き金を引いても弾の出ない銃のコックを見た。

 火打石の先端が砕けている。火打石が火皿に届いていない。

 先程の力比べの最中に砕かれていた。銃が無力化された。

 それに気付いた時、悔しげにベローナが顔を歪める。

「ちくしょうっ」

「銃は怖いからな」

 銃の脅威がなくなり、ラヌが勝ち誇る笑みを浮かべる。狂気じみた威圧感を放ちながら、彼が一歩を踏み出した。

 矢が地面に刺さった。

 警戒を報せる矢だ。

 全員の視線が矢の飛来した方向を見る。

 彼らを見下ろせる建物の屋上に、次の矢を番えて構える男が居た。



「獲物だ!」

 狩人の叫びに呼応してラヌの頭上に影が差す。

 影は槍の穂先を下に向けて、包帯男を串刺しにしようと飛び降りてきた。

 ラヌは咄嗟に後ろへ転がった。

 ドサッ、という音の後に土煙が舞う。

 落下してきた人物は戦意を維持したままラヌとベローナの間に立つ。

 コランが突然現れた人物の背を混乱した顔で見る。黒髪を後ろでまとめたその人は背筋をピンッと伸ばして臨戦態勢をとっている。

 少年の驚きとは対照的に、ベローナはホッと安堵の一息を吐いた。彼女はその人物に声を掛ける。

「助かったよ、トーラ」

「タータラが殺された」

 トーラの言葉にベローナが眉間に皺を作る。自分の銃の損傷を一瞥し、トーラへ指示を飛ばす。 

「コレを直しに行く。後で合流しよう」

「……無理。私らはアイツを狩る事にした」

 リーダーの命令を拒否するトーラの血走った眼は包帯男に狙いを定めている。屋上に居る男狩人も矢先を向け、いつでも放てる状態だ。

 怪物を倒す計画から外れ、狩人二人は包帯男を獲物と決めてしまったのだ。ベローナはそれを察した。

 行く先が変わった友人に一言だけ送る。

「じゃあね」

 男への殺気を滲ませていたトーラも一瞬だけ怒りを収めて、

「ごめんね」

 とリーダーに返した。



 遠ざかっていく銃持ちの女と少年の背を見ながらラヌは次の動きを考えていた。

 ――ガキに逃げられたらレディの機嫌が悪くなる。面倒だな。そもそも、アイツは今どこで何をしてるんだ? 

 目の前の狩人たちを撒いて少年を追う作戦がないかを考える。

 ――逃げれば矢を射かけられるし、コイツらを無視して追うのは不可能だろうな。あの目、足に食らいついてでも追ってくるつもりだ。

 状況を鑑みて、目の前の敵に対処する選択しかないと考えた。

 鉈と金槌を握る手に力を込め、確かめるように肩を動かす。身体の動きを確認しながら敵を交互に見やる。

 女が持つのは取り回し重視のショートスピア、男の方は矢筒を背中に隠して残りの本数を数えられないようにしている。

 思考の中で戦場を整理する。

 先程まで自分と銃を持った女が対峙していたのは、建物と建物に挟まれた道だ。両腕を広げられるぐらいの幅はあるが避けるには狭さを感じる。

 今思えば、あの女は銃での近接戦が上手かった。狭所でありながら身体の捻りをつかって銃を振り回していた。

 ――あの女は要注意だ。

 頭の隅に危険人物として記憶しておき、戦況整理に戻る。

 武器を持った腕を振り回せば、壁に当たるだろう。自分も女狩人も、縦方向に振るか正面を突く以外に選択肢がない。

 であれば、有利は槍を持つ女狩人にある。

 槍のリーチが強い。突きを避けられたとしても、そのまま薙いだり、再度突きを放ったり、自分の安全を確保したままで攻撃の選択肢が多い。

 武器を両手に持つ自分ならば防御は十分できる。突きを防御した上で、鉈で槍を折る事も可能だろう。

 ――だが、それだけだ。槍の破壊が可能な鉈だけが俺の手札で有効、それ以外は状況的に俺の不利に変わりない。

 戦況分析は次に彼我の力量へ及ぶ。

 ――俺よりも強いか?

 頭の揺れは落ち着き身体の動きに支障ないが、ドクドクと脈打つような鈍痛が今も頭に残る。

 この痛みが警戒を訴える。

 ――さっきの銃持ちもそうだが、若い連中は対人戦に慣れてる。報告にあった海賊はコイツらで間違いない。海賊として場数も踏んでるんだ。俺よりも強い可能性が高い。

 戦況を理解したラヌ。彼が次に推理するのは、自分の不利を補うのに必要な敵の正体だ。

 記憶を辿り、敵の正体を探る。

 ――イカれた坊主と三人だった時の会話が手掛かりだ。あのバカが調子こいて口走った事を思い出せ。

 ――鍛冶屋、狩人、父親への憧れ、海賊、義弟。名前を言っていた、そうトーラ……。

 思い出した言葉が呼び水となり、記憶から過去を引き出す。

 ――覚えてるぞ、森に狩人が居た。漁師の町で肩身の狭い扱いを受けていたあのオッサンだ。確か親無しのガキを引き取って後継として育ててた。……思い出してきた。姉はトーラ、鍛冶屋のバカ息子が口走ってた名前と一致する。

 確証がなくとも、敵を知るに十分な情報が得られた。

 整理して得られたいくつかの情報が、総合的に戦況を不利だと己に理解させた。

 今のまま戦っても負けは濃厚。

 ならば、と大人らしく揺さぶりをかける事にした。

 ラヌが女狩人トーラに声を掛ける。

「どうやってココまで追ってきた?」

「何人も殺しながら移動しただろ。血の跡、仲間の死体、全部がお前に導いた。痕跡さえ見付ければ、後は追いつけばいい」

「不味ったな。ついでだったが、やり過ぎたか」

 やれやれ、とわざとらしくため息を漏らす。

 その挙動が気に障ったトーラが苛立ち混じりに舌打ちを返す。

「少しも隠す気がなかった癖に。自分は殺されないとでも思ってるのか? 私たちが殺してやる」

 トーラは努めて冷静に話すが、やはり仲間を殺された怒りがあるせいか、言葉の端々に憎しみを滲ませてしまう。

 女の感情のブレを見て、勝算がそこにあるとラヌは見抜く。

「何が憎い? 仲間を殺された事か? それとも、あの坊主を殺された事か? なあ、トーラ」

 挑発に眉尻をヒクつかせつつも、なんとかこらえてトーラは言葉を返す。

「気安く呼ぶな」

「あの坊主には何度も殴られたから滅多打ちにしてやったが……実は俺は痛みを感じなくてね。大して恨みがなかったんだが、まあ調子に乗ってたからな。いい気味だったよ」

「……アイツは人を痛めつけるのに酔ってた。きっと、いつかやり返されると思ってた。その時は、やった奴にやり返してやるって決めてた」

 トーラが深呼吸した。

「お前、町の人間だな」

「……さあ」

「事前に町を調べてる連中は見付けて始末した。だが、誰も町を調べる目的をそいつらは知らなかった。何を調べてた?」

 ラヌは笑み浮かべるだけで答えない。彼は努めて女狩人の怒りを煽る。

 トーラも挑発されていると見抜いている。しかし、幼馴染や仲間を殺され、道中でその死体を見てきた彼女の心境は荒れていた。

 女狩人は質問を続ける。

「お前は、怪物は何が目的だ?」

「さっきはああ言ったけどね、今日はそれなりに殺したが、あの坊主を一番覚えてる。なんでか、わかるか?」

 ラヌは話の腰を折った。女狩人が左の目尻を細めたのを見逃さない。本人も自覚しない微妙な変化だ。

 女の怒りが限界近いと見抜き、ラヌは決定打となるであろう手札を切る。

「これ以上の抵抗に意味がないと悟った時、あのクズはどんな顔だったと思う?」

 ニィッと口角を上げ、

「ビビってたよ、情けなくな」

 と鼻で笑った。

 思惑通り、その言葉は女狩人トーラの怒りの一線をこえた。

 怒りの形相を浮かべるトーラが吠える。

「殺してやるッ!!」

 女狩人が槍を持つ手を上げ穂先を目線と同じ高さに合わせた構えを取り、地を這うような低姿勢で駆け出す。

「我慢が足りないなぁ! ガキ!」

 対するラヌも武器をかち鳴らして迎え撃つ姿勢をとり直進した。

 二人の距離が一気に縮まる。

 駆けながら内心でトーラは驚愕する。

 ――自棄か?

 武器の射程距離を考えるなら、圧倒的に自分の方に分がある。向かってくるのなら、ただ槍を突き出せば終わる。

 ――コイツを殺す。それで終わりだ。

 死に物狂いの獲物ほど恐ろしいものはない。そんな狩人の当たり前を、トーラは失念していた。

 捨て鉢となって突進する獲物はいない。常に生きようと必死に、持てる力の限りを尽くすものだ。

 憎しみで逸った攻撃ならば狙いが外れる可能性が高くなる。それを狙って、反撃が最も強力になり槍の有利を潰す接近戦に持ち込む。それがラヌの戦略だった。

 狩人の本質を見失っていたトーラは獲物の生存戦略に気付けなかった。

 

 まず気付いたのは、屋上で弓矢を構えていたディオンだ。

 前傾姿勢となった包帯男を見て、槍で狙える箇所を減らしたと見抜き、義姉との距離を詰めた事から反撃を狙っているとわかった。

 ――義姉さん、まずいぞ。

 次いで義姉の異変にも気付いた。

 明らかに義姉は冷静さを欠いている。怒りのあまり狩人の鉄則を失念している。

 狩人ならば、獲物に気取られ、向かって来られた時点で逃げねばならない。

 狩人は弱く、獲物は恐ろしい。師であり義理の父であった男の教えだ。

 ――教えを忘れたのか!

 血気盛んな獲物が近付いて来る前に仕留めるなど、熟練の狩人でも奇跡が起きねば成功しない芸当。獲物が近付くほど、その威圧は大きくなり狙う側はブレる。なのに一撃で仕留めなければ、命懸けの獲物に手痛い反撃を食らうのだ。

 反撃を許す時点で狩人としては一流でない。

 狩りは最後に獲物を仕留めれれば良い。その過程がどれほど不細工だろうと、狩りを成功させれば全てが報われる。

 ゆえに、狩人は命を第一と考えねばならない。命のやり取りをする立場だからこそ、最後まで生き残り、狩りを成功させねばいけない。

――……海賊が長すぎた。狩人の教えよりも、海賊の流儀が身体に馴染んでしまうほどの時間が経ってしまった!

 狩人の義姉弟は海賊まがいになっても、父から教わった狩人の教えを捨てなかった。それが漁師の町で狩人として生きた父の生き様で、それを引き継いだのが自分たちだと誇りに想っていた。

 義姉と自分は同じだ。義姉が狩人よりも海賊の流儀が馴染んでしまったのなら、自分だってそうなっている。

 そこまで考えて、自分の考えを否定する。

 自分たちの中で狩人の教えと海賊の流儀とが混同しているのは確かだが、義姉が海賊の流儀に傾むいたもう一つの理由がある。

 自分にはない理由が。

 ――タータラの死だ。奴が殺されたから、義姉さんは復讐するしかない。それが狩人にはない、仲間を大事にする海賊の流儀だ。海賊の流儀と狩人の教えは共存しない!

 弦を引き絞る力を少し緩める。

 狩人なら弱い者を助けない。むしろ、囮として獲物の隙を狙う。

 義姉はもはや弱い者だ。助けるのは狩人らしくない。

 ディオンはほんの少しだけ迷い、自分も海賊の流儀に染まっていると諦める。

 ――撤退の笛を吹く。早まるなよ、義姉さん。

 ディオンが指笛を吹こうとすると――道に滲みだした異変に気付いた。



 ――――

 ――

 カテリーナが呼び起こした黒い海水は食欲に似た欲求をもち、取り込んだ対象の記録を得る性質を持つ。形状はアメーバに似た粘性のある液体で、土の隙間を通り町の地下に滲み込み、潜み、まるで蜘蛛の巣みたいに町全体へ黒い海水の枝を張り巡らせて地上の情報を得る。

 最初にタロを食って、黒い海水は町の現状を知る。

 次に、まず飢えで弱って動けなくなった者や死体を狙った。始末されたレディの密偵、怪物との戦いの余波で死んだ連中、飢えで死んだ町人。大人を沢山食った。

 さらにラヌに殺されたタータラ。遺恨者たちの犠牲者も食った。

 だが、足りない。

 怪物を、呪いの子を殺すのにはまだ足りない。

 もっと食べねば

 黒い海水にとって、捕食行為は怪物を殺す呪いを生成する儀式コースである。捕食対象の憎しみや苦しみなどの暗い感情が、呪いの濃度を増やす養分になる。

 怪物への特効となる呪いを生む術式こそが黒い海水の正体であり、それ故に最終目標を変更できない。しかし、生贄対象はカテリーナ婆にも設定できた。カテリーナ婆が生贄と選んだのは、町の仲間や己を信じる若者たち。

 食べる事で黒い海水は成長する。

 すでに食の好みを獲得していた。

 次は復讐心がいい、と黒い海水は考える。

 レディの密偵の記憶によれば、レディの側近である包帯男にはこの町への凄まじい復讐心がある。餌として極上なのは間違いない。

 他にも取り込んだ記憶の中に丁度いい素材が居る。元鍛冶屋のタータラという男の記憶からだ。

 女狩人トーラ。タータラという男と幼少から近しい関係にあり、今やレディの側近に強い復讐心を持つ者。

 どちらがいいか、と悩む。そして、包帯男の方がより良い養分になる美食だと思い、先に女狩人トーラに狙いを付けた。

 黒い海水は町中に存在するあらゆる亀裂や隙間から、餌である女狩人を探した。

 そして、見付けた。

 トーラとラヌが武器をぶつけ合う直前、地面にある亀裂から黒い海水が爆発的に膨張する。


      ✕         ✕


 ガルゴは眼を覚まし、日の光が目に入った。目が慣れてくると、天井が半分崩れて薄い黒雲が見える。

 打ち身に痛む身体を起こすと、瓦礫の上に敷いた布に寝かされていたのに気付く。

 痛む部位を手で確かめながら気を失う前の記憶を探る。彼の最後の記憶は、仕掛けていた爆弾が連鎖して起きた大爆発。宿を吹き飛ばすそれが自分ごと怪物を巻き込んだ所までだ。

 よく生きていた、と胸を撫で下ろす。

 ――そうだ、二体目。黒い方の怪物がいた。爆発の直前、俺に襲い掛かって……。

 おぼろげな記憶によれば、爆発の中で黒い影に包まれたような気がする。爆発による傷がない事と関係があるのだろうか。

 周囲を見回した。

 部屋は荒れていた。棚が倒れて壁も一部が崩れて瓦礫が散乱している。

 少しずつ鼻が利いて、焦げ臭い匂いがする。ここは爆発のあった場所からそう離れていない場所らしい。恐らく、部屋の惨状も爆発の影響だろう。

 寝かされていた所の近くに窓があったので、壁を頼りに身を起こして外を見やる。

 めちゃくちゃだった。建物は崩れるか燃えているかの酷い有様だ。奥に大きな黒煙が見えた。かすかに炎の音も聞こえる。火の手がいつかここまで来るだろう。

「う……」

 頭の痛みにガルゴが顔をしかめる。

 火の音が少しずつ遠のき、古い記憶が蘇る。

 

 町の大人は皆、漁へ出ない時期に三ヶ月ほど隣町に出稼ぎへ出る。

 大人たちが帰ってくる時期になると、子供は親を迎えにいく。稼いできた金と土産を受け取り、家へ持って帰るのが子供たちの仕事だった。帰ってきた大人たちはそのまま酒場に行ってしまうのだ。子供も家に真面目に帰らずに、子供だけで集まって親の土産を自分の成果のように自慢し合う。

 今や目茶苦茶になっ光景も、かつてはそんな当たり前があった場所だった。

 記憶の場面が変化する。

 漁の荷下ろしを手伝う子供の自分が見える。

 新鮮な魚が沢山詰まった樽を運ぶのに夢中で、錨に繋がる縄の輪に足が入ってしまった事に気付かない。大人たちも気付かず、早く酒盛りに行きたいと作業に没頭していた。

 洗浄が終わり、錨が海に落とされた。

 錨の落下に合わせて縄が走り、輪が急速に狭まる。そして、少年の足を縛り上げて簡単に捻り折った。


 ――!

 ガルゴが音に振り返る。

「何か、いる……?」

 奇妙な音だった。波がぶつかり合う時に、まるで動物の叫び声のように聞こえる時がある。その音に近い。

 ザブッザブッ、と繰り返し音がする。

 昔の事故で歪んでいる右足を庇いながら、ガルゴは立ち上がった。部屋の外に出れば、さらに例の音がはっきり聞こえた。

 咳こんだり、叫んだり、唸ったり。人の声にも聞こえる。音の方にフラフラと向かうと、やがて奥の部屋へと辿り着く。

「――! ―、――ッ」

 ボロボロの木扉の向こうに何か居る。

 音は言葉の形にならず、けれど苦しげで、嗚咽にも聞こえる。

 すると、

「――れ、戻――! 戻――、――れ!」

 音が少しずつくぐもった女の泣き声に変化し、やがてはっきりとそう聞こえ始めた。その間、ずっと肉を弄りまわすような不快な音が混じって聞こえた。

 扉の隙間から血の臭いが漏れている。

 音と匂いが不愉快な想像をさせる。 例の怪物が何かの肉を咀嚼し、血が部屋中に飛び散るイメージに背筋が凍る。

「……っ」

 ガルゴは扉の前に立ち尽くした。

 謎の音の正体を知る方法はとても簡単だ。扉を開けてしまえばいい。この扉を開けてはしまえば、謎の全てが暴かれて、きっと自分はまた『遺恨者たち』の一人として怪物と戦う事になる。

 戦う覚悟はとっくに決めている。後は、ちょっとした勇気で済む話なのに。扉を開けて、中に踏み込む勇気が湧かない。

 対峙した時は高揚感で立ち向かえた。だが、生き残った事で、次に出会えば死ぬかもしれない恐怖を強烈に感じさせる。

 自分の不甲斐なさに眉をしかめる。歪んでる方の足の肉を痛くなるぐらい掴む。

 扉が実際よりも大きく見えて、恐怖が形を成したように想えた。

 そう見えた瞬間、自分の意志とは別に憎い足が立ち去ろうと踵を返した。

「くっそッ」

 言う事を聞け、と自分の足を殴る。もう勝手に逃げるような素振りはなくなった。

 ガルゴは改めて扉と正対する。

 ブチッ、と力任せに何かを千切る音がした。同時に、部屋の主はとても痛々しい唸りを上げた。

「ブフー……フー、ウゥ……」

 続けて二度、ブチチッと千切る音。特大の唸りが聞こえる度、恐怖を掻き立てる叫びにガルゴは怯えながらも興味を惹かれた。

 事が終わったのか、少しの間静かになった。

 そして、遂にハッキリと女の物となった声で、絞り出すような小声で言葉が紡がれる。

「戻れ、戻れ、戻れ」

 そればかり繰り返す部屋の主。次にボトッ、ベチャッ、と何かが水気のある所に落ちる音がして、漏れ出る血の臭いにも負けない油の匂いがした。

 部屋の主は油を撒いたようだ。炎が燃える音がした。肉の焼ける匂いもしてきた。

 部屋で何をしているのか、ガルゴの好奇心が遂に最高潮に達した。もはや恐怖よりも勝っている。

 喉を鳴らして扉に手を掛ける。

 すると、

「開けるなっ」

 と荒波のような激しさで部屋の主がいさめる。

 ガルゴが反応を返さないでいると、しばらくして、部屋の主が続ける。

「扉を開けず、このまま出ていけ。全部を忘れて町の外に出ろ」

「……何者だ?」

「命の恩人。助けてやったんだ、言う事に従え」

 部屋の主は扉越しに上からの物言いを続ける。怪物の事を忘れて町を出ろ。何を言い返しても、最後にはそう繰り返すばかりだった。

 部屋の主がさらに続ける。

「私の吐く息は毒だ。毒袋を燃やしているが、その灰に毒がないとは言えない。離れた方がいい」

「どうして気遣う? お前は怪物の筈だろう?」

「気遣ってなんかない。折角、助けてやった相手が死んだら気分が悪いだけだ」

 黒い方の怪物は自分が思い描いてきた怪物像とは違い過ぎる。伝説の怪物はもっと残忍で身勝手で、白い方の怪物のように容赦のない存在だと想像していた。

 この声の主は自分の想像した怪物と、出会ったあの白い怪物と違う。

 怪物が二体居るのもおかしい。そんな話は伝承の中にはなかった。カテリーナ婆も知らない筈だ。

 声の主の正体に疑問を感じるのと同時に、この相手に自分はどう行動すればいいのか、とガルゴは悩んだ。

 恐怖で逃げたいという感情は既に消えている。黒い怪物に敵意がないのが少ないやり取りの中でも感じ取れて、恐れよりも関心の方が今は強い。

 自分の振る舞い方をどうすればいい。黒い怪物を敵と見なして対峙すればいいのか。けれど、自分の中で声の主――黒い怪物を敵と思えなくっていた。

「もう、いいでしょ。怪物に殺される前にさっさと逃げろ」

 それは気遣いなのだろう。

 自然と拳が硬くなる。

「……舐めるなよ」

 呟いた言葉は怒り。敵意のない相手に怯えて逃げたくなるほど自分は臆病なのか。

 そして、証明する為に扉を開けた。



 初めに濃い血の匂いがした。扉を開けた事で、こもっていた匂いがぶわっと広がったのだ。

 次に肉が焼ける匂いが鼻をつく。部屋の隅で何かが燃やされている。それは千切られた翼と何かわからない肉塊だ。

 床一面が血の池だ。壁も同様で、まるで赤い塗料をぶちまけたみたいだった。

 赤の中心で、背中があいた赤いドレスの女が突然開いた扉に驚いて振り返る。いや、ドレスと思ったのは血で染まった服で、背中側が大きく破かれてドレスのように見えただけだ。

 ガルゴは女の裸に目が釘付けになる。女の柔肌にではない。その肌を覆う異様な部分にだ。

 身体に生える鱗、腹の部分は人間の肌だが横腹から背中にかけて鱗が生えている。両手共に手先まで黒い鱗が覆っており、指先には刃物みたいな鋭い爪が生えている。腕がだらんと下がっているから攻撃の意思は感じない。だが、その姿は恐怖を喚起する。

 女の指先は真っ赤に染まっていた。

 ガルゴは大量の血の出所が気になる。

 流れる血を逆に辿って傷を探る。だが、血の終点は喉だが小さい引っ掻き傷があるだけで、それも大量の血が流れる大怪我に見えない。

 仮面の女トワがガルゴに問う。

「どうして入って来た?」

 胸元辺りまで血で濡れている。胸元から布で隠れていない下腹に至るまで真っ赤に。トワの服は破けて、更には手の支えも失って上半身があらわだった。

 今更、女の裸をじっと見ていたのに気付いたガルゴが焦りだす。

「い、いい!?」

 顔を真っ赤にしたガルゴが裸を隠そうと手を突き出す。相手が怪物だけに目を逸らせないが自分の手でトワの身体を一部分隠す。それでも、恥ずかしそうに耳を赤くして叫ぶ。

「隠せよッ」

「……着てきた服はこんなだし」

 トワはだらんと垂れた赤い布を持ち上げてみせる。彼女が手を離せば、布がまた垂れる。

 男のガルゴが居ると言うのに、少しも気にした様子を見せない。

「見えちまうだろ!」

「何をそんなに……」

 ガルゴの言葉にトワは首を傾げる。自分の身体を見下ろし、すぐに小さく「あっ」と気付きを漏らしたが、余計にわからなくなったとばかりに首を傾げる。

「醜い怪物の身体に欲情したの?」

「ほとんど女の身体じゃないかッ」

「輪郭はね。鱗塗れの肌なんて何も嬉しくないでしょう」

「い、いいから隠せ。そこに鱗は生えてないだろッ」

 ガルゴの視線はトワの胸元をチラチラと左右する。

 それに気付いたトワが「ああ」と声を漏らす。

「こんな身体のどこが良いのよ」

 ぼやきを漏らしてトワが背を向けた。尻尾が振れる。

 少しの沈黙の後、トワがまた問う。

「どうして入った?」

「……音の正体が知りたかった」

 チラリ、とガルゴが燃えている肉塊に視線を向けた。中で起きた事は想像しかできないが、恐ろしい自傷が行われていたのだろうと彼は思った。

 トワが部屋の隅にある棚から家主の物だろう女物の服を取り出して、汚れた服から着替え始めた。

 着替えながら静かにトワが問いを続ける。

「命が限られてるのにどうして粗末にする?」

「粗末にする気なんかない。俺は仲間の為にやってる」

「仲間ね。そいつらもお前と同じ事を言うのか」

「……何が言いたいんだよ」

「自己犠牲を美徳と勘違いしてる。それは気持ち悪い使命感だ。そんな物を押し付けられた相手は有難迷惑だってのに」

 どこか伏し目がちにそう言ったトワ。その声音には息が詰まるような窮屈さがあった。

 トワの言う事がわからないガルゴは黙り込む。

 息苦しさを呑み込んだトワが続ける。

「怪物なんて忘れてしまえばいい。過去の遺恨も全部忘れて、こんな町を捨ててしまえばいい。時間は強大だ。最初は後悔するだろうが、時間が経てばそんな気持ちも薄れる」

「それは出来ない」

 キッパリ、とガルゴが言い切った。

「もうずっと前から、俺たちはその道だけは選ばないと決めた。呪いで狂った人生に決着をつける為に戦うと決めたんだ」

「……。その日の天気を見て洗濯が乾くか考えたり、掃除の最中に見付けたしつこい汚れを拭き取ってささやかな達成感を得たり。穏やかな生き方が外の世界にはある。それを捨てる価値のある戦いなんてない」

「俺たちが天気を見て思うのは、今日の漁が成功してわずかな食糧が得られるかだ。起きた時思うのは、今日飢えて死ぬのは誰かだ。穏やかな日なんて、怪物が町を襲った日からない」

 二人の間に沈黙が流れた。誰が悪いと責める事も出来ず、返す言葉が見つからない。

 しばらくして、ガルゴが口を開く。

「俺はお前から眼を離さない。目的もどれだけ危険かもわからないお前を野放しにできない。もし、皆の敵なら俺は命懸けでお前と戦う」

 トワが仮面越しに抗議の視線をガルゴに向ける。しかし、ガルゴの頑とした態度に追い払えないと観念する。

「忠告は二度もしない。好きにすれば、

「波待ち?」

 ガルゴが反応した。

 この港町で『波待ち』という表現は足の不自由な者をからかう時に使われる。フラフラと揺れる様が、波にさらわれて泳ぐクラゲのように頼りないという意味だ。つまり、地元の人間にしか通じない言葉だったのだ。

 トワも無意識に使ってしまった言葉にガルゴが反応した事に気付いた。横目を向ける。

「お前、この町の出なんだな。いよいよ、見逃す道は無くなったぞ」

「……」

「付きまとってやるぞ、お前の正体がわかるまで」

 


 黒い海水は町で起きる全てを同時に観測する。町の東側で女狩人トーラを捕食しようと暗躍しながら他の場所の出来事も観測している。

 当然、黒い怪物とガルゴのやり取りも全てを観ていた。

 二人のやり取りに、黒い海水はどうしたものかと判断に迷っていた。

 足の悪いガルゴは弱者だ。早めに捕食する対象だった。レディとの戦いで死ねば、そのまま捕食してやるつもりだったのだ。

 今や捕食を躊躇う理由が二つもある。

 一つは黒い怪物の登場。取り込んだ者の記憶に黒い怪物に関するものがない。正体がつかめない敵の側にガルゴが居るので、捕食のタイミングを逃していた。

 二つ目がガルゴと黒い怪物が行動を共にする事。黒い怪物の正体を知りたい今、その手掛かりとなり得るガルゴを捕食するのは得策でなくなってしまった。

 だが、とも考える。

 ガルゴという男は憎しみも呪いへの強い感情も少ない。町の若者には珍しい、仲間の為というたったそれだけの理由で動いている単純な男だ。

 呪いを増幅させる黒い感情が少ない男なのだ。黒い海水からすれば栄養の少ない餌と言える。

 不味い餌を儀式コースの後半まで取っておくのが気にくわない、と黒い海水が不満を抱く。

 故に悩むのだが、最終的には静観を決めた。

 ガルゴ程度の餌にリスクを冒すよりも、不味い餌を使って黒い怪物の情報を少しでも多く手に入れたいと考えた。

 黒い海水は、黒い怪物へ向けていた思考リソースを別の問題に向ける。

 知覚網を町全体に広げている黒い海水だからこそ、その問題に最も早く気付いていた。

 それは今後の展開において、町に居る全ての者に関わってくる問題であった。

 

 黒い海水の感覚では、町中央での爆発の瞬間に知覚網に穴が空き、すぐに補ったが気付けばトワの存在を見失っていた。

 町の土を踏む限り、地下に潜む黒い海水の知覚網から逃れられない。なので、黒い海水が見失うという事は現在レディが町の外に居るか、あるいは地上に居ない事を示している。

 例えばレディが空に居るのなら、町の土を再度踏むまで地下に潜む黒い海水が認知する事はできない。

 黒い海水にしてみれば、今の状態ではまだ怪物を殺せない以上、リスクを負いたくない。故に方針として儀式コースを進めながら、黒い海水は怪物たちの動向を慎重に伺う事にした。

 儀式コースの果てに怪物の天敵となる為に。

 

 

――――――――――――


 ここまで読んでいただきありがとうございます。

 前回から間が空いてしまって申し訳ないです。今後もゆっくりかもしれませんが、しっかりとクライマックスに向けて進んでいきます。

 次回も読んでいただければ嬉しいです。


 

 

 

 

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「あなたとドラゴンの夜話」継語 桃山ほんま @82ki-aguri

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