思春期(3)

 キヨヒコを追おうとする男を、ツトムは何とか引き留めることができた。男が身体を廊下側へ向けたまま、首を不自然にひねってツトムたちの方を向く。

 ターゲットを、またこちらに変更したようだ。

 うなりながら、身体を回し、接近してくる。

「うんにょろかっかそわか!」

 ツトムの全身がずしりと重くなる。男が何とか前に進もうと、抵抗しているのが分かる。ツトムの肩や背中が、びりびりと揺れた。

 ミサは生徒手帳の紙面を裂き、略式の経文を綴っていた。書きあがるたびに、生徒一人一人に渡していく。

「これ全員、持っていて。危なくなったら、あいつに投げつけて」

 男はまたじりじりと進み始める。


 こまごまとした道具に埋もれている人体模型を見つけることはできたが、いくら思念の波長を合わせようとしても、人体模型は反応しなかった。

 悪霊の思念にあてられたのか、それともこちらの世界に飛ばされたときに不具合が起きたのか。いずれにせよ、人体模型を復活させねばならなかった。

 キヨヒコは頭を巡らせる。俯瞰視を続けたこともあり、頭の中はもう擦り切れそうだ。右の鼻孔から、たらり、と何かが垂れる感触がある。鼻血が出たらしい。

 人体模型をもう一度見つめ、キヨヒコはあることに気付いた。

「心臓が――ない」


「うんにょろかっかそわか!」

 ツトムは詠唱を重ねるが、男はそれでもわずかずつ近づいてくる。ツトムの限界も近いのだ。すでにツトムの脚は膝まで教室の床にめり込んでいる。

 男の身体は少しずつ膨らんでいる。うねっていた長い腕は、今や柱のように膨らみ、醜悪に脈打っている。

 ミサはお札を全員に配り終えた。もしツトムが倒れたとしても、これで当面の間、命の保障はできるはずだ。

 男がまた吠える。その声は、象のようにも、ライオンのようにも聞こえる。

 男の声で、意識を失っていた教師が目を覚ました。夢の中の出来事とでも思っているのか、「あれ、ここは?」などと言いながら立ち上がる。その足元がふらついた。

 ミサが助けようと手を伸ばした時には、もう教師は魔法陣の外へ出てしまっていた。さらに悪いことに、彼は先ほどまで失神していたため、お札を受け取っていない。

 男の眼窩に目玉が現れ、それが教師に向けられた。


 キヨヒコは人体模型の心臓を探していた。根拠はないが、心臓を見つけ出せば人体模型を動かせるという確信があった。

 積み重なった蝶の標本箱をかき分け、並べられた顕微鏡を動かし、ホルマリンケースをどける。しかし、心臓は見当たらなかった。

 あとどれだけの時間が残されているのだろう? それすらも分からず、かといって教室の状況を探るだけの余裕はない。鼻血は止まらず、頭がガンガンと痛む。

 キヨヒコは人体模型の瘴気を探った。脳が飛び跳ね、視界が点滅する。思わず嘔吐した。もう限界が近い。

 キヨヒコは朦朧としながらも、ホルマリンケースを一つ、手に取った。ウシガエルのホルマリン漬けだ。カエルの胴体は、不自然に膨らんでいる。

 床にたたきつけると、ケースは砕け散り、カエルが転がり出た。その横に、キヨヒコは倒れこむ。もう縦の姿勢を保つだけの力も残っていない。

 カエルの口をこじ開け、中に指を差し入れる。固い何かが手に触れた。


「そわか!」

 連続して四回の呪を放った後、ツトムは血を吐いた。そのままがくりと前に崩れる。足が太ももまで埋まっているため、身体は中途半端に傾いたまま止まった。

 男は教師に手を振り上げた姿勢で固まっていた。拳がぶるぶると震えているのが見える。再び動き出すのも時間の問題だ。

 教師は腰を抜かしてその場に座り込んでいる。魔法陣に戻るのは絶望的だ。

「みんな、投げて!」

 ミサが叫ぶ。

 生徒たちは戸惑いつつ、男へお札を放り始めた。お札から男に向かって、微弱な稲妻のようなものが走る。男がうなった。

 ミサは魔法陣を飛び出し、教師の肩をつかんだ。そのまま魔法陣まで引きずる。教師は失禁していたようで、水の跡が床に伸びた。

 どうにか他の生徒の腕が届くところまでミサは教師を運び、後は他の生徒に託した。ミサはツトムに駆け寄る。しかし、彼の身体を引き上げることはできそうにない。

 男がこちらを向いた。すでに、お札の効力は残っていないようだ。ミサは印を組む。ツトムのようにはできないかもしれないが、時間稼ぎにはなるかもしれない。

 男は迫ってくる。

 その時、教室の中に、何かが飛び込んできた。

 それは、素早く男の腰元に飛びつく。

「人体模型…」

 心臓を取り戻した人体模型は、男に組み付いたまま、右手をその腹部に突き刺した。

 男が吠える。

 二つの異形が組み合っている脇を、ふらふらのキヨヒコがやって来た。鼻血を垂れ流していている。

「キヨ、ありがとう」

「まだだ。ツトムを引き出そう」

 男の力が弱まり、ツトムの足元もかなり緩んでいる。ミサとキヨヒコは二人がかりでツトムを引き抜いた。そのまま、魔法陣の中に運び込む。

「全員、しゃがんで、目を閉じて」

 キヨヒコが言う。生徒たちは大人しく従った。

 男が吠え声を上げた。


 三人は、保健室のベッドで同時に目を覚ました。

 教員たちが心配そうにのぞき込んでいる。その一番端に、トミ婆の姿があった。

「まあ、あんたらにしては、よく頑張ったね」

 トミ婆はにやりと笑った。


 この一件は、表向きは不審者事件として処理された。黒ずくめの男が一教室に侵入、立てこもったのち、逃走した。生徒たちと教師一名は強いショック状態にあるが、命に別状はない。男は狂信的な宗教家であり、生徒たちに魔法陣などを使った儀式に参加を強制していた。

 しかし、高校の誰もが、教室が一つ、一時的に消失しているのを目撃している。その間、教室があったはずの場所には黒いもやが立ち込め、中に踏み入ろうとしても弾かれてしまう状況だったらしい。

 校長室にいたトミ婆が協力を申し出、隣の理科室、理科準備室に手をかざすと、それらも同じようにもやに包まれた。トミ婆はしばらく何かを唱えていたが、その後は「あとはツトムとキヨヒコとミサが何とかしてくれる」と言い放ったそうだ。

 当分、学校の落ち着きは取り戻せそうにない。現在は臨時休校中であり、生徒は自宅学習の扱いだ。授業の再開日は決定しているものの、生徒間ではすでに三人のことを怖がる、あるいは極端に神格化する動きが出始めている。

「これは、転校した方がいいのかね」

 人気のない公園で、ツトムが珍しく泣き言をいう。

「僕もそれは思ってた。親が何というかは分からないけど」

 キヨヒコも同調すると、ミサが神妙な面持ちで言う。

「私は、二人がそうするなら、一緒がいいな」

「このことはなるべく早く風化させなきゃならん。そのためには、俺たちがいるとよくないのかもしれん」

 ミサもキヨヒコも、ツトムの言葉にうなずく。

「そういえば、聞いたか? 今回の件の原因」

「いや、僕はまだ何も」

「私も」

 ツトムは言いづらそうに、遠くへ視線を向けた。

「あの、ヤンデレ事件の女子がいただろ? トミ婆曰く、どうもあいつが呼んじゃったみたいなんだよ」

 キヨヒコもミサも、何も言わなかった。ある程度、想像はできていた。意識的であれ、無意識であれ、ネガティブな感情を生みやすい人間は悪霊を呼び寄せる。

「じゃあ、今まで巻き込まれてきたかわいそうな男子たちが狙われて、その中で特に霊感の強かったツトムがターゲットになった、ってこと?」

 ミサが尋ねると、ツトムはうなずく。感じなくてもよい責任をツトムが背負っていることに、キヨヒコとミサは気づいた。

「ツトムのせいじゃないよ」

 何といえばよいか分からず、キヨヒコはストレートにそう言うしかなかった。

 ツトムは答えなかったが、ミサが明るい声を出した。

「とにかく、今回のこの事件のことを引き合いにして、三人とも、親を説得しよう。それで、どこか別の高校に、そろって転校しよう。ね?」

 キヨヒコも「そうだね」と答え、腰を上げる。

「とりあえず、トミ婆のところへ行こうよ。今回の働きに対する報酬をまだもらってないからね」

 ミサもうなずいて立ち上がる。ツトムも、やっと笑みを浮かべ、二人に倣った。

 三人は、駄菓子屋のあった通りを目指し、歩き始める。

 眩いほどの夕日が、駄菓子屋除霊組の後ろ姿を照らした。オレンジ色の道路に、でこぼこな三人の影が並んでいた。

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