少年少女期(2)
「もぉー、無理ぃー」
長い石段を登り切ったところで、ミサが文句を言ってへたり込んだ。長い髪が汗で頬や首にへばりついている。
キヨヒコも黙って腰を下ろした。ミサがいる手前、ひょうひょうとした表情を取り繕っているが、実は彼も疲れ切っていて声が出せないだけだ。
「なんだ、二人とも、情けねえな」
普段から鍛えているツトムはさすがの余裕を見せる。背中のナップザックから三枚の紙きれを取り出し、ひらひらと振った。
「さっさとこれ貼り付けねえと、昼飯に間に合わねえぞ」
駄菓子屋のおばあさんが三人に頼んだのは、「丘にある神社に行って、お札を三か所貼り替える」というものだった。三か所とは、鳥居の脇にある稲荷像の台、手水舎の雨除けを支える柱、そして、社の裏壁である。
「しかし、あのおばあさんが、昔ここの巫女さんだったなんてなぁ」
ツトムが腕組みする。この神社には事務所もなく、今では巫女や神主も常駐していない。誰かが管理をしているのだろうが、姿を見たことはなかった。神社へ向かう石段が急であるため、子どもたちも遊び場にせず、せいぜい近所の人が散歩のコースにしているくらいだった。
「霊感だか霊力だかがすごく強かったんでしょ? 若いころは、悪いものをたくさん祓ったって言ってたじゃない」
ミサの息切れもだいぶ落ち着いてきたようだ。
「どこまで本当か分かんねえけどな。もう石段を登るのがしんどいからって、俺たちに頼んできたわけだけど」
「でもなんか、わくわくしちゃうね」
言いながら、ミサは立ち上がってワンピースの裾を払った。
「私、もう大丈夫そう。キヨはどう?」
「うん、僕も大丈夫」
キヨヒコも立ち上がる。目の前に鳥居が見える。周囲には鬱蒼と木々が茂っていてほの暗い。お札を貼り替えるという役目を負っているからか、どこか不気味な光景にも思えた。
「まずは、お稲荷さんからだな」
鳥居をくぐり、右手にある稲荷像へ進む。駄菓子屋のおばあさんが過去に貼ったと思しきお札が、台座の下にあった。雨風にさらされていたからか、茶色がかり、しわくちゃになっていた。
三人して、なんとなく稲荷像を見上げる。今までまじまじと見たことはなかったが、目を吊り上げ、凛々しい顔をしている。口には、巻物のようなものをくわえていた。
「釘とかで打つのかと思いきや、これだもんな」
ツトムが、お札と同様に預かり受けた「超強力両面テープ」を取り出す。
「なんと言うか、風情がねえよなあ」
ミサとキヨヒコが両面テープを新しいお札の裏側に貼り付けたところで、ツトムが古いお札に手を掛けた。
「じゃ、取るぞ」
はがした途端、冷たい風がひゅるりと頬を撫でた。三人ともたじろいだが、とにかく新しいお札と同じ場所に貼り付ける。すると、風はぴたりとやんだ。
「ねえ、今、風が来たよね」
ミサが自分の肩を抱いて言う。
「たまたまだよ。高い場所だから、風が通りやすいんだ」
キヨヒコがもっともらしく解説する。ツトムもうなずいた。
「とにかく、次だ次」
境内の奥へ歩を進める。ツトムが先頭を歩き、続くミサは不安なのかきょろきょろと周囲を見回している。キヨヒコは、参拝客のために設置されたベンチの脇に、焚き火の跡があるのに目を止めた。
「誰かが焚き火をしたのかな? まだ灰が残っているから、きっと新しいよね」
「さあ? 高校生や大学生は、夜にこういうところに集まるっていうから、花火でもしたんじゃね?」
「ああ、そうかもね」
社の左手に、石造りの小さな手水鉢がある。雨をしのげるよう、簡単な屋根が備えられている。それを支える柱の一本に、やはり古びたお札があった。先ほどと同じように、三人で貼り替える。今度は風も吹かず、無事に終えられた。
「よっしゃ、最後だ最後」
社の裏手に回る。そこは完全な森に面していて、最も気味の悪い場所だった。
「やだなー、何か出そう」
「そうやって言ってると、本当になるぞ」
「やめてよツトム!」
ミサは怖がっている。キヨヒコも同じ気持ちだ。駄菓子屋のおばあさんはお札を貼る理由をこう語っていた。
『あそこには、私が出会った悪いものを封じているんだよ。神社に祀られている神様が、悪いものたちを抑えていてくれているのだけれども、万が一、神様の力が弱った時のために、お札を保険として掛けてあるのさ』
つまり、この神社には、その「悪いもの」がいるということだ。神様が封じてくれていると言っても、ますます不安が高まる。
社の裏壁にあるお札は、他の二枚にも増して薄汚れていた。日も当たらず、風も吹きにくい場所なのにも関わらず。
「準備はいいか?」
ツトムの言葉に、両面テープを貼り終えたキヨヒコとミサはうなずく。
ツトムが古いお札をはがした瞬間、ピシリ、と音がした。枝が折れた音にも、単なる葉擦れの音にも思えた。
「きゃっ」
「うおっ」
ミサとツトムが同時に悲鳴を上げた。ミサが持っていた新しいお札と、ツトムの手にした古いお札が、真ん中ですっぱりと切れていた。
「なんだよ、これ…」
ツトムのつぶやきに被さるように、バシャリ、という水音が境内から聞こえた。
「今度は何だ――まさか!」
ツトムが駆け出し、ミサとキヨヒコが慌てて追いかける。
二人が追い付くと、ツトムは手水鉢の前で立ち尽くしていた。先ほど貼り付けたお札が、びっしょりと濡れている。早くも文字がにじみ出しており、もはや読み取ることができない。
「何が起こっているんだ」
三人で身を寄せ合い、周囲を見回す。強い風が吹いた。
キヨヒコの視界が、何かを捉えた。稲荷像の方だ。
「あれ、見てよ」
像の台座にあるお札が、風に舞っていた。そのまま、石段の下へ飛んで行ってしまう。
「三枚とも、なくなっちまった…。どういうことだよ、神様が悪いやつらを封じてくれてるんじゃないのかよ」
ツトムが、指を複雑に組み合わせて、印を作る。これも駄菓子屋のおばあさんに教わったことだ。
『何もないと思うけど、何かあったら、こうやって印を作るんだよ。それから、「うんにょろかっかそわか」を繰り返す。そうすると、少しの間だけ時間を稼げるからね。その間に、逃げかえっておいで』
がさり、と音がした。社の裏からだ。三人は、「悪いもの」が来たのだと直感する。
「キヨヒコ、ミサ、俺が足止めするから、逃げて大人を呼んで来い」
大粒の汗を流しながら、ツトムが言う。
得体の知れない足音が、次第に近づいてくる。
「早く行け!」
ツトムが怒鳴ると同時に、社の影から、黒いもやが現れた。それは、人の顔をした獣にも、裂けた口でにんまりと笑っている女にも、蜘蛛のような身体の鬼にも見えた。
ミサとキヨヒコは弾かれるように走り出した。ツトムのことは気がかりだが、彼ならなんとかして切り抜け、すぐ追ってくるはずだ。背後からツトムの「うんにょろかっかそわか」という声が聞こえてくる。キヨヒコが振り返ると、確かに、「悪いもの」は動きを止めたようだった。
鳥居を抜けようとしたところで、ミサもキヨヒコも、見えない壁に阻まれてしまった。透明な膜が神社の回りを囲んでいるようだ。
「なんで? なんでなの?」
ミサは半泣きで押したり引いたりを繰り返している。キヨヒコも慌てて抜け道を探すが、鳥居の下、脇、木々の隙間、どこからも出られない。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムが唱える。「悪いもの」はまた動きを止めるが、少しだけツトムとの距離が縮んでいた。
「ミサ!」
キヨヒコはミサに声をかける。何とかして抜け出ようとしていたミサも、キヨヒコの珍しく強い語調に振り向いた。
「ここから抜け出るのは無理だ。ミサ、新しいお札を作ってくれないか? 僕よりミサの方が、字がうまいだろう?」
ツトムの背中に、ナップザックがある。その中に、何か書けるものがあるのではないか。
「でも、私、書き方なんて分からないよ」
「書き写すんだよ。少しでも効果があるかもしれない。そうしたら、ちゃんとしたものをおばあさんに書き直してもらう時間も稼げるだろう?」
ミサは涙を手のひらでぬぐった。
「分かった」
言うが早いか、ツトムめがけて駆け出していく。切り替えの早さもミサらしい。
キヨヒコも、改めて周囲を見回した。ツトムが「悪いもの」を足止めし、ミサが新しいお札を作る。キヨヒコ自身も、何かできることがある。
「考えろ、考えろ…」
一番優先すべきなのは、神社の神様を目覚めさせることだ。なぜ神様の力がここまで弱まってしまったのかは分からない。その原因さえ分かれば、「悪いもの」を引き戻すことができる。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムが声を上げる。「悪いもの」はゆっくりながらも、着実に距離を詰めてきていた。さらに、ツトムの体力も奪われている。唱えるたびに、全身から汗が吹き出し、身体が少しずつ重くなっていくのだ。
ミサがツトムに駆け寄り、背中のナップザックを開けた。
「ミサ! 何してるんだ?」
目をそらさずにツトムが言う。
「ここから出られないの。だから、私が新しいお札を作る。何か書くものはないの?」
「宿題のプリントが何枚か入ってるから、それを使え! でも筆箱は家に置いてきちまったんだ」
ミサはくしゃくしゃになったプリントの束をつかみだし、周囲に目を向けた。何か書けるものはないか。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムの身体が、またずしりと重くなる。目をやると、足が少しだけ土に沈み込んでいた。身体の重さは、気のせいではないようだ。
キヨヒコは立ったまま、動きを止めていた。頭の中では、これまでに見たこと、聞いたことが目まぐるしく駆け巡っている。体力もないし、行動力もないが、考えることだけは得意だった。キヨヒコの頭の中で、ちりん、と鈴が鳴った。
「まさか――」
同じころ、ミサは文字を書けるような道具を探していた。石では薄いし、紙も破れてしまうだろう。だからと言って土で文字を書けるとは思えない。
「そうだ!」
ミサは焚き火の跡へ駆け寄った。残った炭で文字が書けないだろうか。ワンピースが黒く汚れるが、気にしない。横のベンチに、破れたお札と、宿題のプリントを並べる。運のよいことに、宿題のプリントは両面刷りではなかった。
自慢ではないが、小学一年生のころから習字を習っている。先生の方針なのか、ある程度の楷書が書けるようになると、崩し字の練習も始まった。しかし、お札の字は、難しい字ばかり使っているうえに、どこが字と字の切れ目かも分からないほど崩してある。ミサは文字に意識を集中し、炭を握った。ミサの耳に、ちりん、と鈴の音が聞こえた。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムの指が麻痺してきた。印の形をうまく保てなくなる。「悪いもの」は、声こそ発しないものの、けらけらと笑っているようだ。もう足首まで土に沈んでいる。こうなっては、逃げ出すこともできないだろう。「悪いもの」は最初の半分の距離まで近づいていた。あと三回も詠唱しないうちに、ツトムはつかまってしまうだろう。その前に、ツトム自身の体力がもつかどうかも分からない。
あきらめるな、とツトムは自分を鼓舞する。頭は悪いし口も悪いが、体力にだけは自信がある。だてに野球チームのしごきに耐えていない。ツトムは眼光鋭く「悪いもの」を見据えた。ちりん、と鈴が鳴った気がした。
「うんにょろかっかそわか!」
キヨヒコは稲荷像に向かって手を伸ばしていた。最初に見たときに、巻物をくわえている稲荷像なんて初めて見た、と思った。しかし、それは間違いだったのだ。稲荷様がくわえているのは、巻物ではなく、ただの石なのだ。
誰がやったことなのかは分からない。小学生の背では届きにくい。そう考えると、ここで花火をした高校生や大学生の悪ふざけなのか。とにかく、キヨヒコはその石を外そうと背伸びしていた。
やっとのことで石に手が届いたが、深くくわえ込ませてあるのか、石が重いのか、なかなか外せない。握力のなさを呪った。
角度を変えて見てみると、石の下面に凹凸があり、稲荷様の下あごに引っかかっているのが分かった。改めて手を伸ばし、知恵の輪を解くように、指先で半ば持ち上げるような形で外そうと試みる。肩と背中が悲鳴を上げる。
「うわっ」
視界がぐるりと回転し、キヨヒコは地面に転がった。その横に、ぽとりと石が転がり落ちる。
「取れた!」
稲荷像は、口元が傷つくこともなく、元通りに鎮座していた。果たして、これで神様の力が戻るのだろうか――。
ツトムは、自分の鼻の頭に雨粒を感じた。空は晴れている。天気雨だ。
ごうっと音がして、雨粒まじりの強風が身体を叩いた。全身が持ち上げられ、足が土から抜けるのを感じる。「悪いもの」が昆虫のような悲鳴を上げた。雨粒のかかった部位から、しゅうっと溶けるような音が響き、煙が上がる。この雨は、彼らにとって毒なのだ。「悪いもの」は、全身をのたくらせ、雨に溶けて消えた。
ミサは三枚目のお札を書き上げるところだった。雨音が聞こえ、辺りを見回したが、ミサの周囲だけは雨が降っていない。お札も濡れることはなかった。「悪いもの」の姿はすでになく、ツトムがへなへなとへたり込むのが見えた。稲荷像のそばでは、キヨヒコが地面に転がっている。彼が何かをしたのだ。
「ああああ、やべえ、動けねえ…」
ツトムの弱弱しい声が聞こえる。
「キヨヒコ、生きてる?」
「なんとかね」
キヨヒコの声は今にも消え入りそうだ。
「お前、何やったの?」
「お稲荷様の口にはまってた石をとったら、なんか、助かった」
「そっか。よく分かんないけど、ありがと」
ミサはお札を手に、稲荷像に近寄る。
「キヨ、お疲れ様!」
声をかけながら、稲荷像の台座にお札を貼り着ける。プリントと炭で作ったお札は、どう見ても不格好だが、何かの足しにはなるだろう。キヨヒコは倒れたまま、「はい」とか「ひいん」とか聞こえる返事をした。
手水舎の柱に向かい、濡れてにじんだお札を貼り替える。
「ツトムもありがとね!」
「いいってことよぉ」
覇気のない声でツトムも言う。
社の裏手に一人で回るのは気が引けたので、ツトムとキヨヒコが起きられる状態になるまで待ち、三人で貼り付けに行った。黒いもやもなく、木々の葉擦れが微かに聞こえるだけだった。
へとへとの体で、三人、鳥居に向かうと、息を荒げた駄菓子屋のおばあさんが、石段を登ってきたところだった。
「あんたら! 無事だったかい?」
その声を聞いた瞬間、三人は安堵から、再びその場に座り込んだ。
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