俺様彼氏は健気な彼女に執着する〜夏の夜、妖たちが夢の跡

おりのまるる

第1話

 最近、彼が冷たい。

 週末お泊り前の待ちに待った金曜日の夜なのに、どうしてこんなにも険悪な雰囲気になってしまったのか。


「鍵、渡しているんだから、家で待っていてくれればいいのに。どうしてあんな暗い場所で待ってるんだ」

「ごめんなさい。何だか外で待ちたい気分になってしまって……」


 彼の家の最寄りの駅から、少しだけ離れた住宅街の中にある小さな公園。そこで待っていただけで、こんなに怒られるとは思っていなかった。駅前の人混みにいるのは苦手だっただけなんだけど。


 並んで歩く夏の夜道。あまりの蒸し暑さに、ジンは黒いマスクをあごへとずらす。

 麗子は、その精悍な顔立ちにぽうっと見とれる。付き合ってから大分経つが、未だに彼の顔を見慣れない。

 つり上がった三白眼の目、薄い唇に、尖ったあご。夜になると、少しだけ獣の雰囲気が強くなるような。

 

 犬神刃いぬがみじんは、犬神憑きの由緒ある家の妖異だ。刃には一族始まって以来の強力な犬神が憑いているそうだ。その憑いているもののせいなのか、刃はどことなくシェパードっぽい雰囲気がある。


「あんな暗い場所で待っていたら、お前が危ないだろ」

「大丈夫だよ、私こんなんだし」


 麗子は冗談めかして、マスクをずらし、笑顔を見せる。しかし刃は、はあ、とため息をつくと小さな声で「そういう自虐は止めろ」と吐き捨てる。

 

 麗子は、しょんぼりと肩を落とすとマスクを元に戻す。

 どんなに暑い日もさらさらと涼し気になびく長い黒髪、透き通るほど白い肌は、汗一つかいていない。

 いつもはそんな自分に何だかんだと理由をつけて触れてくる。しかし今日はその冷たい指先で、彼の手に触れても握り返してはくれない。

 

 怒ってる……。

 いつからだろう。何をしても彼を苛々とさせてしまうみたい。

 

 麗子の瞳に、じんわりと涙がにじむ。

 無言で彼のマンションの部屋に着く。

 刃がドアを開けて、麗子を先に家へ入るように促す。リビングへ向かった所で、後ろから肩を掴まれ、強制的に振り向かされる。刃は、麗子の唇に噛みつくように自分の唇を重ねる。


「や、っちょっと、どうしっ、んん」


 麗子の口内に刃の舌がねじ込まれる。強い力で後頭部と腰を押さえられて、身動きが取れない。


(犬神さんの身体、熱い……)


 麗子は唇を受け入れながらも、その太ももに彼の屹立が当たっているのを感じて、胸が高まる。


 目の粗いブルーのサマーニットが脱がされて、中に着ていた白のキャミソールはたくし上げられた。あっという間にブラもはぎとられて、ぷるんと双丘が露になる。


「待って、シャワー浴びさせて」

「ダメだよ。いうこと聞かなかった罰」

「だから、謝るから。じゃあ、少しだけ話したい」

「何も話すことなんてないだろ。どうせお前は俺の話も聞かずに、俺がやってほしくないことをするんだろう?」


 麗子は、刃に壁へ両手を付けさせられた。後ろから乳首を指ではじかれると甘ったるい声が漏れる。一週間ぶりの刃の大きな手は、勝手知ったる麗子の身体を少しづつ開いていく。

 

 ぐずぐずとした悩みは、快楽に上書きされて、麗子の身体は今や刃を受け入れることだけを望んでいる。

 ショーツをずらされて、刃の欲に背後から貫かれる頃には、既に何も考えられなくなっていた。


 快感に身を任せて繋がり、空腹を覚えれば食事をする。そして、話すこともせず何度も身体を重ねて、その週末も終わってしまった。


 ◇◇◇


 もう……別れた方がいいのかもしれない。身体は近くても、心がこんなに遠い。会話もないし、会えばエッチばかり。辛い。

 

 月曜日、麗子は、会社の机で項垂れる。

 麗子は刃と恋人関係である事を秘密にしていた。麗子は経理部、刃はコンサルティング部に在籍していた。今時、社内恋愛がタブーと言うことも無いのだが、刃は花形部署のエースであり、結婚相手として優良物件のため、狙っている女子が多かった。


 かたや経理部で粛々と請求書や経費精算等のチェックをしている地味な自分。周りの美しい花々にお付き合いが露見した日には、何と言われるか分かったものではない。

 だから麗子からお願いをして、付き合っていることは秘密にしている。

 

 ふと廊下を見れば、刃がキャリーケースを引きながら、同じ部署の玉藻たまもエマと一緒に歩いていた。彼女も出張に同行するらしく、刃の後ろを歩いていた。

 そういえば今日から一週間出張って言ってたっけ。

 

 スーツ姿の二人はお似合いだった。刃のワイルドで堂々とした雰囲気と、妖狐であるエマの妖艶さが妙にマッチしていた。


「お似合いよね。二人は付き合っているのかしら?」

「公私ともにパートナーっていいわよねぇ。パワーカップルっていうの?」

「近寄り難い雰囲気があるよね。幼馴染らしいよ」


(ほんとそれ……。そもそもなぜ私なんかと付き合っているのかしら)

 

 彼と付き合いだした頃は、毎日幸せだった。けれど今は辛いだけ。そろそろ潮時なのかな。麗子は書類に目を通す振りをして目を伏せた。


 ◇◇◇


 刃が出張に出て四日目の木曜日の夜にスマホが鳴った。待受画面を見ると、刃からだった。

 電話なんて珍しい……。明日の待ち合わせのことかな?


「はい……」


『はあ、はぁん、あっやぁ、じん、すご』

『エマ、そんなにするな。加減ができなっ。ん、くっ』


 え? えっ⁉︎ 一体何⁉︎


 電話からは最中の男女の喘ぎ声と吐息が聞こえてきた。シーツが擦れる音や、腰を打ち付ける音が耳に入る。


 何が起こっているのか分からず、耳からスマホを離す。スマホの画面には『犬神さん』の文字が浮かんでいる。

 

(彼からの電話で間違いない……。けれど、これは一体。最中に、スマホに誤って触れてしまって、私に電話がかかってしまったってこと?)


 電話の向こうの二人は、クライマックスのようで、だんだんと卑猥な音が大きく激しくなっていた。

 

 もう無理……。聞いていられず、通話を切った。

 何だか全て腑に落ちた気がする。最近の冷たい態度はそう言うことだったんだ。

 

 スッキリした。不相応な付き合いはこれで終わったんだ。

 けれど熱い涙は、溢れて止まらなかった。

 麗子はスマホの電源をそっと切り、翌日の金曜日は会社を休んだ。


 ◇◇◇


「美味しすぎる」


 土曜日、一つ三千五百円する桃のショートケーキに、麗子は舌鼓を打っていた。せっかく病欠という名で有給をもぎ取ったのだからと、金曜日から二泊を都内のラグジュアリーホテルで満喫することにした。

 

 ホテルのレストランでの限定のケーキを絶賛賞味中だった。

 以前は予約を取るのに半年待ちだだったが、何度かの緊急事態宣言を経て、減った客足はいまだ元通りにはなっていなかった。さほど予約が混み合ってはいないようで、前日に予約し、すんなりと店に入ることができた。

 

 それにしても週末を一人で過ごすなんて一体いつぶりだろうか。

 

(犬神さんと付き合いだしてからは、毎週一緒だったから、変な感じ)

 

 これからは一人で過ごす日々に戻る。

 どこへ行っても、彼と似た人を見れば振り向いてしまうし、思い出が浮かんできて泣きたくなる。

 彼がいなかった時間を一体どう過ごしていたのか思い出せない。


 部屋に戻ったものの、暗い気持ちに押しつぶされそうになり、ブンブンと頭を振る。少し風にあたろうと外に出る。


 ホテルの庭園では昔、彼と蛍を見にきたことがあった。暗闇の中、ふわふわと飛ぶ蛍は何とも幻想的で美しかった。

 鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす、とは言うけれど、どんな気持ちでも伝わらなければ意味がない。

 

 こんなに気持ちが募るのだったら、終わる前までにもっと好きだと言えばよかったのかな。

 日が落ちてすっかり暗くなった庭園のベンチに腰を下ろす。今は蛍のシーズンではないが、夕涼みに多くの人々が思い思いに散歩をしていた。


 しばらくぼうっとしていると、「お姉さん、大丈夫ですか?」と声をかけてきたものがいた。

 

 その瞬間、周りの音が遠ざかるが、麗子は考え事をしており気がつかない。

 

 彼と出会う前……。何をしていたのか……。

 

 何も応えない麗子を不審に思ったのか、再度声をかけてくる。


「お姉さん、具合が悪いのですか?」


 麗子は声をかけてきたものの方を向く。

 

「ねえ、私、綺麗?」

「……ええ、お綺麗ですよ」


 戸惑いながらも、返事が返ってくる。


「本当に? これでも?」


 そう言いながら、麗子は笑みを浮かべてマスクを外す。

 

 ――この後、驚いて走って逃げていく人間が、好きだった。たまに追いかけて脅したりもしたが。

 久々にしたけど、この人はどんな反応をしてくれるのかな。


 ――『口裂け女』と、多くの人々は麗子のことをそう呼ぶ。

 

 少しだけ懐かしい気持ちになって、反応を見ようとその声の方を見上げる。


 そこには、月明かりに妖艶に微笑む、刃の本命、玉藻エマが立っていた。


「鹿島さん、とてもお美しいですよ」

「た、玉藻さん⁉︎ どうしてここにいるんですか」

「どうしてって自分へのご褒美?」


 まさかの妖異相手に声をかけてしまうなんて何たる失態。しかも長い歴史を持つ妖異、九尾の狐とは……。歴史の浅い新興の都市伝説から生まれた自分が声をかけていい妖異ではない。格が違う。


「申し訳ございません。てっきり人間だと思っていて」


 慌てて、マスクを元に戻そうとするが、その手を止められる。


「待って、初めてマスクなしの姿を見たけど、華やかな美人さんなのね」

「え? そんな……」

「ふぅん、刃が執着している女性がいると気が付いて、ちょっと悪戯してみたけれど、分かるわあ」

「はい? どういう事ですか?」

「教えない。それよりも、今日あいつと一緒?」

「……いえ」

「別れたの? 浮気された?」

「私の方が浮気相手だったんだと思います。別れるとは思います」


(何で犬神さんの本命とこんな話を。でも大物の対応は邪険にはできないし)

 

「じゃあ、私が貰ってもいいかな?」

「いいも何も犬神さんと、両想いじゃないですか。私が邪魔ものなのでは?」

「……ふふ、違う違う。そうじゃないわ。鹿島さんの事、私が貰いたいってこと」


 エマは、悪戯っ子のように笑う。

 

「玉藻さんは女性が好きなのですか?」

「男も好きだけど、どちらかと言うと女の方が好きかな」


 へらりと笑う。ルビーのような赤の瞳が、怪しく美しい。

 

「じ、冗談ですよね?」

「ふふふ。知らないみたいだから、教えてあげる。古い歴史がある妖異ほど、どっちもいけるのよ」


 エマは綺麗に整えられた指先で、麗子の唇をなぞる。麗子は、びくりと肩を揺らす。


「可愛い。コンプレックスの塊で人を驚かすだけの怪異、口裂け女の鹿島さん。その自己肯定感の低さと自信のない感じ。そしてその恥じらい。刺さるわあ」

「いや、だめです……」


 ゆっくりとベンチに押し倒される。アーモンドのような形のつりあがった瞳が細められ、薄茶のロングヘアがさらさらと麗子にかかる。圧倒的な色香に酩酊してしまいそう。


「あいつが秘密にして手放さないのが、よく分かるわね」と、舌なめずりをする。

 いや、何⁉︎ 麗子がぎゅっと瞳を閉じる。


「麗子!」


 パリンと結界が割れて、刃が現れる。


「犬神さん!」


 麗子が刃へ手を伸ばすと、力強く掴まれる。次の瞬間には、麗子は刃の胸の中にいた。


「何だ、もう来ちゃったの。でもさ彼女もう別れるそうよ。だから私がいただくことにしたよ」

「ダメだ。お前いい加減にしろよ。いつも人のものばかり欲しがって」

「しょうがないでしょう。私たち、好みが被っているんだから」

「麗子は絶対にダメだ。手を出したらその首食いちぎってやる」


 刃は、牙を剥き出して威嚇する。

 

「分かった、分かったから。今日は退散します。じゃあ鹿島さん、また会社でねー」


 エマの人払いの結界が消え、そよそよとした風が吹き、庭園を散歩する人々の気配が戻ってくる。


(き、気まずい。でも一体どうして、犬神さんがここに?)


「もう放して下さい」


 刃に抱きしめられていることを思い出し、麗子はその胸を押す。


「放したら、逃げていくだろう」

「逃げませんから」

「それはちょっと信じられないな」


 刃は麗子を抱きしめたまま、ベンチに座る。麗子は自然とその太ももの上に座ることになり、身動きが取れない。


「どうして、ここが分かったのですか?」

「昨日から連絡が取れなくなって、お前、家にも来ないし。必死で探したんだよ。見つけたら見つけたで、玉藻とあんなことになっているし……」

「ご、ごめんなさい。でも、あんな電話もらって……。だったら、気持ちを整理してすっきりお別れしようと思って」


 麗子は、木曜日にかかってきた電話について説明をする。刃の眉間の皺がどんどん深くなる。


「あいつの仕業だ。木曜日に私用のスマホが無くなっていて、深夜ホテルのフロントから連絡があって気が付いたんだ」

「私てっきり二人で夜を過ごしていると思ってました。そういう音が聞こえたから……」

「そんなわけない。あいつはどちらかというと女が好きだから」

「そう……だったのですね」


 二人の視線がぴったりと合う。


「あの、ごめんなさい。誤解してたみたいです」

「誤解……ねえ? 玉藻に嫉妬した?」

「いえ、そんな恐れ多いです。お二人とも古の妖異の方々ですし、生まれて百年にも満たない私みたいな新参者にはそんな風に思うこと自体おこがましいです」

「まだまだ俺の愛し方が生ぬるいってことか」


 刃の呟きは、ざざっと突然吹いた夜風の音でよく聞こえない。

 

「――え?」

「何でもない。部屋に戻ろうか?」


 麗子は頷くと刃の手を取り、明るい光へ進みだす。


「麗子、俺は心配ばかりだ。昨今は皆がマスクをしているから、お前の美しさが際立ってしまっている。いっそのことマスクを取って生活してほしいけど、それは現実的ではないし」

「そんなこと……。だって私の顔、みっともないでしょう?」

「お前にそんなことを言ったやつらを全員呪い殺してやりたいな。顔立ちが派手なだけだ。俺好みではあるが。まあ、口が大きいと言ったら、俺だってそうだろ」


 刃に憑いている犬神が、うっすらとその姿を浮かびあがらせる。その黒い大きな犬は、狂暴そうな牙と赤くぬらぬら光る舌を、その大きく裂けた口からのぞかせる。


 しまった。今日は満月だった。刃から出る獣の雰囲気が一段と濃くなる。


「俺から逃げられると思っていないよな、麗子?」


 犬神の狂気の目と刃のまっすぐな瞳が重なる。麗子は、本能的に逃げられないと感じる。そして同時に狂おしいほど束縛して、ズタズタにしてほしいという欲求が湧き上がる。

 こんな時、やっぱり自分も妖異なのだと実感する。


「絶対に逃がさないでください。私から去るなら、私を殺してからにして」


 麗子が両手を伸ばして、刃の首へ回す。そのまま唇が重なり、深い口付けが始まる。

 ああ、彼からは逃れられない。


 無我夢中で朝まで何度も交わり、お腹がいっぱいになるまで愛を注がれ、そのまま気を失ってしまった。


 ◇◇◇

 

 目覚めた時、薬指にきらりと光る指輪がはめられていた。


「え……これって?」

「婚約指輪だ。俺は覚悟を決めた。お前が、心を決めるまで待とうと思ったが、他のやつに取られるのを指を咥えて見ていることはできない」

「でも結婚は、もっと由緒ある妖異の方とが良いのでは……」

「異論は認めない。来週から新居に引っ越そう」

「え?」

「一緒に暮らそう。家はもう用意してあるんだ」

「えー⁉︎」

「そうか。毎日一緒に過ごせて、嬉しいか。いい子だ」


 刃は麗子に覆いかぶさると、「ちなみにその指輪は犬神家の呪術がかけられている、絶対に外れないやつだから」と悪い笑みを浮かべた。

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俺様彼氏は健気な彼女に執着する〜夏の夜、妖たちが夢の跡 おりのまるる @malulu_orino

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