第2話 死にかけ
ぶんぶんと耳元で飛び回る虫の羽音で目が覚める。
痛い、痒い、痺れる。
身体の中と外を隔てることなく、文字通り全身を覆う不調に一瞬で意識が覚醒した。
寧ろ、よくこんな状態で寝付くことができたなと思うが、おそらく寝たのではなく気絶という形で意識を手放したのだろう。
絶え間なく続く不快極まりない感覚の中、どこか冷めたような、心の中の一歩引いた場所で思考する意識は
転生したのだ。
女神の言っていた死にかけ……というのも納得だ。
夜明け前の薄明りの中、濁った視界の端に映る左手の親指と人差し指の間の柔らかい部分は桃色と黒の混じり合ったような色になっており、ジクジクと柔らかくなった血とも肉とも皮ともつかないその上を無数の足のない虫が這っている。
気持ち悪い。
「うぐ……うぐぁッ……うっ、ウっ。ぃ、いてぇ……」
痛い、痛い、いたい。
起きがけだからか、或いは転生の影響か。
麻痺していた感覚が段々と戻ってきて、全身の痛みと苦しさがとめどなく意識に押し寄せてくる。
死にかけどころか、ほとんど死んでるじゃねーか。
そう毒づいた言葉はしかし、カラカラに乾ききった喉からは出てくることなく痛みとして俺自身に襲い掛かる。
それでも。
それでも、生きねば。
意識にして数秒前の前世でも、生まれ育ったのは酷い環境だった。
それでもここまで生きてきた。
抗い、先へと手を伸ばすことを諦めずに続けたことで生きてこられた。
この理不尽にも必ず一矢報いてやるんだ、と。
そう言い聞かせ、少し動かすだけで痛み軋む体を気力だけで無理やり起こし、雨漏りした屋根から伝い、溜まった水を乾燥しきった口に含む。
――少しずつ、少しずつだ。
理屈まで覚えていないが、どこかで、こういうときに一度に飲みすぎたり食べ過ぎたりすると最悪死んでしまうと聞いた記憶がある。
乾ききった喉を潤すために一気に飲んでしまいたいが、その強い欲求とひび割れて水が触れるたびに走る唇の激痛を押さえつけて一口ずつ飲み下す。
そして飲みながら、すぐそばにあるもう一つの水たまりを手ですくい、全身を洗う。
恐らく、身体の大きさ的に7.8歳くらいだろうか。
小さな身体は腫れや傷跡、もはや腐って壊死しかけている箇所など満身創痍で、水がかかる度、水がかかったところに風が吹く度に耐えきれない激痛が走る。
しかし、生き延びるにはそうするほかないだろう。
洗いながら、今世の記憶を漁る。
どうも、元々のこの身体の記憶は受け継いでいるらしく昔のことを思い出すのと同じように想起することができた。
身体の持ち主は生まれてこの方、教育らしい教育を受けてこなかったらしい。
言葉を話すことも聞くこともできなかったようで、記憶はただただ写真のように目で見た光景、聞いた音が広がるだけだ。
記憶を整理すると、この少年は奴隷か何からしかった。
一日中、鉱山で岩の運搬をさせられ、夜になると魔法陣らしきものがついた装置につれていかれ"何か"を吸い取られる。
現代日本にはなかった魔法なんてものがあること自体驚きである以上、その装置の役割など理解できるわけがない。
ただ、その中に立つと全身の力が抜け、その後しばらく自身という存在そのものが目減りしたかのような喪失感と寒気が止まらないという状況が記憶として残っていた。
きっと俺が死にかけているのは、身体の酷使や病だけが原因ではない。
この装置が取ってはいけない何かを限界まで絞りつくしているからではなかろうか。
そうであれば、いち早くこの場から逃げ出さなければならない。
魔法にワクワクするような感情は一切沸かず、ただ得体のしれない現象に対する恐怖だけがそこにあった。
逃げる手筈は記憶を漁りながらいくつか考えた。
しかし何にせよ、まずは空腹を何とかする必要がある。
「これが、問題……なんだよな」
目の前にあるソレ。
廃墟と化した部屋の中、唯一ある食料は少年が言語化できずとも"大好物"と呼ぶべき感情を記憶の中で残していたものだ。
転生前の昨日に3分の1ほど食べ、空腹ながらも数少ない楽しみを次の日にもと残された"それ"は焦げた分厚い肉の塊である。
好意的に解釈すれば……だが。
数ミリほど焦げた表面を割ると、中から覗くのは大きな骨だけ粗雑に取り除かれ、毛も大半が残ったネズミらしき死骸や、黄色や茶色の蛆、草が混じる謎の大きな肉。
こういった廃棄物を大きな葉で一塊にまとめ、直火で蒸し焼きにした代物だった。
生きるためとはいえ、流石に口にするのはためらわれる。
しかし、紫や赤といった毒々しい色の葉が混じるその辺の野草を食べる勇気もない。
結局。
生きるためだと百回ほど念じた後、鼻先に持ってくるだけですえたにおいで涙と吐き気でえずく代物を、無理やり少しずつ咀嚼した。
結果は、精神では拒否していても身体が覚えていたのか飲み込むことはできたとだけ記憶にとどめる。
味も感触も二度と思い出したくもない。
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