ウロボロスの檻

戦ノ白夜

薬草を摘む少女

 さわ、と穏やかな微風に木の葉が歌う。どこかでのんびりと鳥がさえずる。

 萌え出づる若葉の柔らかな黄緑が、辺りを明るく照らしている。昇る太陽はあたたかく、薄雲たなびく空は優しい青色に染まる。川は水底に光の網を輝かす。

 そんな雪解けの祝福に包まれて、小径こみちをゆく少女が一人。

 粗末な網籠を手に、彼女は進む。道は、広がる森の中へ、そして山の麓へと続いていた。

 臆することなく少女は進む。もう何度も行き来した道だった。隣を歩く者がいないのも、いつものことだった。それに、途中で引き返すことは今や、到底できなくなっていた。

 待っていて、お母さん。そう念じながら歩く。心做しか歩調が早まる。

 少女は病に臥せる母親のために、薬草を摘みにいくのだった。


 山麓、道の終わりに、薬草の群生地がある。かつて母に教えてもらった場所だった。昔は母と共に歩いた道だ。もう一度一緒に歩けるように、彼女は毎日、一人その道をゆくのだ。


 薬草を採る場所は、家からそこまで離れているわけではなかった。まだ幼い彼女の足でも、少し頑張れば歩き通せる距離だ。半日もあれば、行って帰ってくることができた。

 道中、何事もなく、目指す場所へと辿り着く。よく日の当たる、少し開けた場所だ。傍には泉が、背後には山の岩壁が――そして、小さな洞窟がある。

 そこら中に生えている薬草を摘み取り、籠に入れていく。手が泥だらけになろうが、草の汁で緑色に染まろうが、お構いなしだった。


 籠はすぐにいっぱいになった。さて、帰ろうか。その前に手を洗っていこうか。そう思った少女が籠を脇に置いて、泉に手を浸したときだった。

 波紋の広がる水の鏡面に、ぬっと何かが映り込んだのだ。

 少女は振り返った。そして悲鳴をあげて泉に落ちた。


 水飛沫を浴びながら、少女が元いた場所に佇んでいたのは――黒い大蛇。

 人の胴の数倍はある太さの、龍と見紛うような体躯を横たえて、鎌首をもたげていた。爛々と光る真っ赤な目は、水面にぶくぶくと浮き上がる泡をじっと見つめた。

 そして、蛇は徐に首を伸ばすと、泡めがけて泉に頭を突っ込んだ。


 上から射す光を懸命に掴もうとしてもがいていた少女は、己の身体がぐいっと引き上げられるのを感じた。次の瞬間には、水の外にいた。

 所々に金の鱗が混じる、蛇の胴が見えた。草の上にそっと降ろされて、少女は自分が今まで蛇に咥えられていたのだと知った。

「ああ乙女子よ、どうか怖がらないでくれ。取って食いやしないから」

 後退りかけた少女を制するように、蛇はそう言った。その声は、低く太い男の声だったけれども穏やかで、聞く者をゆったりと包み込むような優しい響きを持っていた。

「驚かせてすまない。俺のせいでお前が濡れてしまったな、そこで乾かそう。おいで」

 蛇は鼻面を寄せて少女の髪を撫でた。大きな頭が近付くと、鱗が黒いおかげであまり目立たなかった口の線が見えた。大きく裂けているからか、笑っているように見えた。

 へたり込んでいた少女は立ち上がり、籠を持ってそろそろと蛇に近付いた。もしも彼女が蛇嫌いであったらそうもいかなかったのだろうが、決して苦手ではなかったし、襲われることはないと分かった今では、幻のような大蛇の神秘に心打たれていた。

「こんなに綺麗な髪をしていたんだな。洞窟の中から見ていたときには分からなかったが」

 少女の顔ほどもある、瞬きをしない大きな目がくるりと回って彼女を舐め回すように見た。

「……洞窟って、そこの洞窟から?」

「ああ、そうだ。お前がここに来ては薬草を摘んで帰るのを、毎日眺めていた。そのうちに見ているだけでは飽き足らなくなって、外に出てきてしまったというわけだ。お前と話してみたくなったのさ」

 蛇は緩くとぐろを巻いて、少女を自分の上に座らせた。そうして自分では少女のすぐ傍に頭を置いて、シュルシュルと舌を出しながら喋った。

「洞窟、狭くないの?」

「中は十分広い。見せてやろうか」

「見たい。……でも、お母さんが入っちゃダメって」

「そうなのか。心配することはない、俺の他には何も住んでいないからな。お前の服が乾いたら見せてやろうな」

「うん」

 少女の緊張はすっかり解けていた。青い瞳をいつになくきらきらさせ、大蛇の鱗を撫でた。

「すごい、すべすべ」

「腹の鱗の方がもっと滑らかだ。触ってごらん」

「わあ、ほんとだ。不思議」

 あどけない顔は、笑うと更に幼く見えた。だがそれも、蛇がこう聞いた瞬間に曇った。

「毎日採っていくその薬草は何に使うんだ?」

 はっと俯いた少女の横顔に落ちる翳を目にして、蛇が僅かに口端を吊り上げたかに見えた。しかし彼女の知るところではない。

「……お母さんが病気なの。新鮮な薬草で薬を作らなくちゃいけないから、毎日採りに来るの」

「それなら、家に植えて育てたらどうだ」

「ううん、家だと育たないの。ここじゃないとダメみたい」

「そうかそうか。偉い子だな、お前は」

 母の話題になったからだろう、少女は蛇から滑り下りる。

「帰らなきゃ、お母さんが心配しちゃう」

 その顔にありありと現れる不安の色。

「そうだな、今日はもうお帰り。また明日お話ししよう」

「うん。さよなら」

「気を付けてな」

 普段よりも長居してしまった分を取り戻そうとするかのように、来た道をぱたぱたと駆け戻っていく彼女を、蛇は長らく見送っていた。


 ◇


 それからも少女は薬草を採りに通い続け、その度に蛇と少し話しては帰った。

 目当ての薬草は、季節に関係なく一年中生えている奇妙な植物だった。であるから、少女は毎日欠かさずそこへ来た。雨であろうと、雷が鳴ろうと関わらず。

 そして花が咲いて散り、青葉が茂り、色を変えた葉が風に吹き散らされ、再び蕾が膨らみ始めた頃。少女の顔はどんどん翳りを増してゆき、ついにある日、彼女はやって来なかった。


 しかし蛇が思いわずらう様子は全くない。却って嬉しそうなようすで、そわそわしながら辺りを這い回った。

 あの子はまたここに来る。そう確信しているが故。

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