第15話
*
教室に戻り、自分の席に着く。すると一人の女子生徒が私のそばにやって来る。
「あんた、また保健室?」
ちょっと呆れたような声音で尋ねてくる彼女の名は
「うん。調子良くなかったから」
「原因は?」
「寝不足」
「やっぱり」
杏ちゃんはため息を吐く。でもそれだけだった。私はあれ? とちょっと疑問を感じる。いつもならもう少しお小言を貰うのだけど、今日はそれがなかった。
「お説教はなし?」
訊いてみると、杏ちゃんは少しバツが悪そうな顔で答えた。
「だってあんた、ここ最近本当に調子悪そうだったじゃない。それは良くなったみたいだから、ちょっと安心したわ」
杏ちゃんが言っているのは私が獏に記憶を食べられていた時期の話だ。解決した今となってはあまり気にしていないが、確かに当時の私はおかしく見えたろう。なにせ昨日のことさえ覚えていないのだから。杏ちゃんはそんな私を間近で見ていて、ずっと心配してくれていたらしい。なんだかんだ、良い友達なのだ。
「ちょ、ちょっとなによ。にやにやして」
「別にー。杏ちゃん良い子だなあって思って。ありがとう」
「う、うるさいわね。心配くらいするわよ。友達なんだから」
杏ちゃんは赤くなりながら言う。その反応はちょっとねねに似ていた。私はこういう素直じゃないタイプが、からかい甲斐があって好きなのかもしれない。
「でも、本調子に戻ったならまた注意するわよ。授業サボって保健室に行くのやめなさいよ」
「サボってないよ。体調悪いだけだもん」
「だからそれ寝不足の症状でしょ。夜はちゃんと寝なさい」
睡眠時間というのは個人差がある。いかに現代の女子高生に求められる生活習慣と私の必要とする睡眠時間が合っていないのかという問題を事細かに説明してあげても良かったのだけど、真面目な杏ちゃんには効果が薄そうだったし、それにお腹が空いていたのでやめた。私は「はーい」とだけ返事をすると、鞄からお弁当を取り出し立ち上がる。
二人で杏ちゃんの席へ向かう。空いている椅子を借りて、向かい合って座りお弁当を広げた。
しばらく普通に昼食を取る。半分くらい進んだところで、ふと杏ちゃんが言った。
「あんた、本当にもう大丈夫なの?」
「うん。もう平気。なんか治ったから」
「確か、記憶がないとか言ってたわよね。実際、本当に昨日のこと覚えてなかったりしたし。……結局、病院には行ったの?」
「行ってない」
「ちょっと、それ、本当に大丈夫なの」
杏ちゃんの心配はもっともだった。でも、獏がいなくなった以上記憶がなくなることはもうないし、それに実際、あれからなんの問題も起きてはいない。とはいえそれを杏ちゃんに説明するのは難しい。
「まあ、大丈夫だよ。もう変なところ全然ないし」
「そう……」
杏ちゃんはなおも心配そうに私を見ていたけれど、私はこれ以上どう話せば良いのかわからなくて、黙々とお弁当に向かうしかなかった。
「あのね、私も一応いろいろ調べてみたのよ。記憶とか、そういうの。それで気になるのを見つけたの。夢子、あんた催眠って知ってる?」
催眠?
「それって、なんかたまにテレビとかで見るやつ?」
「まあそんな感じ。でもテレビでやるショー的なものだけじゃなくて、ちゃんとした医療現場でも使われているんだって。私も最初怪しいなって思って見てたんだけど、別に変なものじゃなくて、ちゃんとした心理学の分野らしいし」
けしてオカルト的なものじゃないって言いたいのかな。真面目な杏ちゃんは怪しげなものへの警戒心は高いけど、その分世間一般に認められるような権威には弱いところがある。騙されやすいタイプだ。
「その催眠の中にね、忘れた記憶を取り戻すっていうのがあるの。過去に遡って自分の記憶を思い出すんだって」
「それで私の記憶を思い出せないかって? でもなあ……」
私の記憶がなくなったのは獏に食われたという普通ではあり得ない理由だ。食べられてしまった記憶は思い出せないとか忘れてしまったとかではなくて、本当に私の中から消えてしまった。
催眠であれ他の治療法であれ、そういったものが使われるのは、思い出すのが不可能なくらい昔の記憶とか、思い出すのが嫌で封印してしまったような記憶を取り戻すためじゃないだろうか。どちらにしても記憶はなくなっているのではなくて、単に思い出せないだけだ。すでに私の中に存在しないものを取り戻すのは、普通の治療では不可能だろう。
「まあ、躊躇うのもわかるわ。ただ、催眠療法ってカウンセラーみたいなこともするらしいから、話を聞いて貰うだけでも違うんじゃないかなって思ったの。いきなり精神科とかそういう病院に行くのが不安なら、そういう手もあるってこと」
「なるほど」
「あと、こっちが本当は話した一番の理由なんだけど。うちの学校にね、そういうのが得意な先輩がいるんだって」
「そういうの?」
「だから、催眠」
催眠が得意な先輩がいる? 言葉を理解してもいまいちピンと来ない。
「え、なに。そういうのって、学生でもできるの?」
「さあ……。でも、勉強すれば誰にでもできるテクニックではあるらしいわよ。それにその先輩、話を聞くのがすごくうまいんだって。相談に乗ってもらった子がすごい褒めてた」
「褒めてたって、実際にいるの? その、先輩に、催眠をかけてもらった子」
「ええ。それもかなり。うちの学校じゃかなりの有名人みたい」
「へえ……」
世の中変わった人はいるものだ。高校生で、催眠術を得意として、周りの生徒の悩みを聞いているなんて。私は感心して頷く。
「でもまあ、私もう治ったし、大丈夫だよ」
「え? あ、そう? まあ、そうよね」
杏ちゃんはちょっぴり残念そうに返事をした。私はお弁当を食べる手を止めて訊いてみる。
「もしかして、ちょっと興味あった?」
「う……。まあ、その、少しね……。催眠なんて、怪しいオカルト的なものだと思っていたけど、そうじゃないって聞いて。それに私も夜、眠れなかったりするし……。そういうのも、催眠で良くなったりするんだって」
体質的に万年睡眠不足な私と違い、杏ちゃんは杏ちゃんで、眠れないという悩みを抱えているらしい。彼女は真面目過ぎて繊細なところもあるし、いろいろ気にかかることも多いのだろう。催眠療法がカウンセラーとしての役割も果たすなら、悩みを聞いてもらうだけでも効果はあるはずだ。
「ごめんなさい。本当はね、私も結構興味があったの。学校の中にそういうのができる人がいるなら、一回くらい受けてみても良いかなって。でも一人で行くのは不安だったから、夢子といっしょに行けないかなって思って」
なんだ、そういうことだったのか。
「いいよ」
私がそう言うと、杏ちゃんは目を見開いて顔を上げた。
「え、でも」
「別にいいよ。私も全然興味ないわけじゃないし。それでどうするの? 今日の放課後にでも訪ねてみる?」
「ありがとう。……あ、でも今日は無理だわ。私、委員会の仕事があるし」
そういえば彼女は、環境美化委員会とかに所属していた。
「ふうん。じゃあどうしようかな……」
行儀悪くお箸を口に咥えて考えながら、ふと気づく。
「ねえ、考えてみたらその先輩、いきなり会いに行ってその催眠とやらをかけてくれるの? 向こうにだって準備とかあるんじゃない?」
「え? あ、確かにそうね。それに人気な先輩みたいだし、予約待ちとかになるのかしら」
「じゃあとりあえず、今日私だけで会いに行ってみるよ。それでお話して、大丈夫そうだったら、今度また二人で行ってみようか」
「ええ。わかったわ」
「その先輩、名前はなんていうの?」
「
「物理準備室? なんで」
「なんか、先生に言って、その部屋を自由に使ってるみたい。部室みたいにして」
ふーむ。よくわからないがとにかく名前は覚えた。相生愛華先輩。良い人だといいんだけど。
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