飛べない魔法使いと夢見るあなた

第1話 私とクジラと魔法少女

 最近はよく夢を見る。


 だけど、どんな夢を見たのかはわからない。


 夢の途切れた時はすなわち果澄の目の覚ます時であり、二度寝をしようか悩んでいる間にいったいどんな夢を見たのかを忘れてしまい、夢の内容を記憶の奥底からなんとか捻りだそうとするけど毎日それに失敗して非常にもんもんとした一日が始まる。


 イチゴジャムのパンをかじって、シャキシャキとした歯ごたえのキャベツを食べて、透明のコップに入った牛乳をちびちびと飲んでいく。歯を磨いて髪を整えて荷物をまとめて制服に着替えたら、自転車に乗ってひたすらに高校を目指していく。


 海岸沿いの道を行き、マラカスみたいな潮騒を聞き、容赦ない海風に果澄の黒髪が尾を引くように泳いだ。


 自転車の車輪は電動アシストによりわずかな力で回る。カゴに乗ったスクールバックはチャックの部分がわずかに開いていた。


 スクールバックのちょっとしたすき間から、プリントの一枚が白い翼のように羽ばたいた。


 果澄の視線が、プリントの羽ばたく後方に惹かれる。


 あれはいったい何のプリントだったのかを思い出そうとした。昨日の夜を思い出せば、宿題の数学のプリントとにらめっこしていた記憶が甦る。教科書の数式と照らし合わせて、二十問中の最後の二問が応用問題であったことまで思い出す。あいつらには苦労させられたが、問題が解けてしまえばなんと愛いやつであったことか。


 そんな記憶が海に向かって飛んでいく。


 自転車のスタンドを立てて、果澄は慌ててプリントを追いかける。あれが無くなってしまえばものすごく怖い先生に怒られるということはない。わずかな注意を受けてわずかな恥をかくぐらいのことしかこの身には降りかからない。しかしあのプリント一枚がわずかにでも内申に傷をつける可能性を考えれば、どうしたって諦めることができなかった。もはやあのプリントがなければ死んでしまうという謎の強迫観念だってあった。


 決して高くない動体視力を総動員して、決して目を離すまいと羽ばたいていくプリントを目で追った。


 その時のことだった。


 おかしなことが起こった。


 プリントが、端っこのほうから内側に吸い込まれていくように丸まっていく。野球のボールみたいになったと思ったら、それは心臓が脈打つようにどくんどくんと動き始めた。インクの黒がにじむように広がっていき、内側から盛り上がるようにして膨張していく。それは、何かの形を生み出そうとする過程だったのだと思う。現に、プリントだったものは果澄の知っている形になっていった。鯨偶蹄目の鯨凹歯類に属している海の中でも一番でっかい哺乳類。


 それは、クジラだった。


 種類なんてものは図鑑を読んだこともない果澄の知るところではないが、見た目からして一番オーソドックスなシロナガスクジラなんじゃないかと思う。プリントから生まれたシロナガスクジラは、空に浮きながらぶくぶくと膨張するように大きくなっていく。太陽の光を遮って、クジラの形の影を落として、果澄の真上には本来の大きさを取り戻したシロナガスクジラが浮遊している。こいつが落ちてきたらたちまちの内に果澄の体は紙のようになるに違いない。だからといってどこかに逃げるという思考は不思議なことに湧いてこない。あまりの非日常に、果澄の頭がついていっていないだけかもしれない。現に果澄は、口を馬鹿みたいに開けたまま呆けたように頭上を見上げている。


 だけどこれを説明するための便利な言葉があった。


 夢だ。


 きっとこれは夢に違いなく、朝に目覚めたと思ったのは気のせいで、果澄の体は今もベッドの上で寝息を立てているに決まっていた。


 だからシロナガスクジラが鼓膜を震わせるような叫び声を上げたことも、その後に台風を思わせるような水しぶきが地を叩いた音も、そのままシロナガスクジラが高度を落としてきて果澄に向かって落ちてきていることも、どこか他人事のようにただ見つめるだけだった。シロナガスクジラに潰される時が、きっと果澄の目を覚ます時に違いなかった。


 横のほうから声がした。


「マジカルプロテクションアッピア‼」


 目に痛いぐらいのピンク色が視界に飛び込んできた。


 何事かと思った。


 ピンク色で、そして半透明の光の壁が、シロナガスクジラの落下を軋みをあげながら食い止めているのだ。光の壁はどんどんお椀のようにへこんでいく。光の壁は徐々にシロナガスクジラの形になっていく。光の壁一枚を挟んでシロナガスクジラが鼻の先ぐらいまで近づいてくる。


 しかし、

「マジカルプロテクション最大出力!」


 そんな声が聞こえたかと思うと、光の壁は弾けたように平面の形を取り戻していく。上に向かう力により、雲を突き抜けるぐらいにシロナガスクジラが空高く飛んでいった。シロナガスクジラがゴマ粒のように小さくなって、やがて完全にその姿が見えなくなると、さっきまでシロナガスクジラが見えていた位置に、キランと星が瞬いた。


 やっぱり夢なのだと思う。


「大丈夫だった?」


 声のしたほうを見てみると、フリルたっぷりの服を着た少女がこっちに話しかけてくる。その頭にはつば広のとんがり帽子がある。その手には、ハート形に結ばれたリボンのついているステッキがある。スカート丈は太ももの半分が見えるぐらいの短さで、果澄の視線が下半身に向かっていることに気づくと、目の前の少女は慌てたようにスカートの裾を下に引っ張る。恥ずかしいのならどうしてそのような格好をしているのか気になるところではあるが、目の前の少女のイメージが、魔法少女だと思うとこれが普通の格好のように思える。


 あとなんで濡れてるのか。


 そんな疑問が顔に如実に表れていたらしく、


「これはね、さっきのクジラの背中から水がいっぱい出てきて、それを被っちゃたんだ。潮吹き反対だよね。せっかくの髪型も崩れちゃうし、服は肌に張りついて気持ち悪いし、あなたはクジラの下にいたから水をかぶらなかったんだね」


 そういえば、さっき台風みたいな水音を聞いた。あれはクジラの潮吹きの水が地面を叩いた音だったのだ。


「で、この格好なんだけど、ちょっと複雑な事情があるの。聞いてくれる?」


 こっちはなにも話してないのにグイグイ来る。


「まず、私の名前は高菜空…………いや、違うな。私の名前はマジカルスカイブルー……らしいよ」


 らしい?


「世界を救うために立ち上がった戦士、みたいな? 私も別に好きでこんな格好をしているわけじゃないんだけど、うんと、そうだね、ちゃんと最初から話した方がいいのかな——」


 あれは、いまから半日ぐらい前のことなんだけど——


 とんがり帽子の魔法少女は、そう言うと、複雑な事情とやらを語り始めた。

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