第5話 隠されていた記憶、そして鍵

「はあ、まあつまり、あなたのお母さんはいまだにお父さんのことが好きすぎるってことね」

「うん。だからお父さんの前だとちゃんとおめかしするし、言葉遣いだってちゃんとするんだよ。しかもお父さんのために世界征服をやろうなんて本気で考えてるみたいだし」

「はあ」

 相変わらずの曇り空の下、光の差し込まない雑木林は四時という時間にしてはとんでもなく暗い。空気はじめつき、空乃の髪はそのせいで少しくせっ毛気味になり、空乃はそれを手で押さえつけてまっすぐにしようとするけどこの程度で直るような素直なやつではないことは知っている。諦めた。

「それでね、日葵ちゃんが言ってたことなんだけど、時雨沢さんは覚えてる?」

「幽霊の正体は私に関わりのある人みたいなことかしら?」

 空乃はうんうんと頷いて、

「そうそう。だから時雨沢さんに心当たりはないかなあって」

「ないわ」

 あまりの早さの即答に空乃は一瞬呆けた。

「ないの?」

「ええ。だって、お父さんもお母さんも一人っ子で、叔父さんや叔母さんはいないから従兄弟もいないし、おじいちゃんとおばあちゃんはみんなまだ生きているもの。ひいおじいちゃんとかにまで遡っても、私が生まれる前に亡くなっているしね」

 幽霊の正体は凜花の血縁ではないということだ。

「うーん、じゃあお友達とか昔お世話になった先生とかかな」

「そんなものいないわよ」

 これまた即答。

 またも空乃は呆けてしまって、会話に変な間が生まれた。慌ててなにか言葉を紡ごうとする。なにかこう、幽霊の正体を掴むきっかけになるようなことはないだろうかと考える。そういえば、凜花は実際に幽霊の言葉を聞いているのだから、なにかがそこからなにかわかるかもしれない。

「幽霊さんの話し方とかになにか懐かしさを感じることはない? 懐かしさじゃなくてもちょっと気になるところとかでもいいんだけど」

 凜花は思案するように上を見た。

 もしかしたら、見た場所から幽霊の声がするのかもしれない。

「懐かしさとかはわからないけど、たぶん、喋り方からしてけっこう年は若いんじゃないかしら。それとどんな声かはフィルターがかかったみたいでよくわからないけど、男ではないと思う」

「なるほど」

 あとは、凜花の立場になってみたら自分はいったいどのようなことをして自分に関わりのある人を探すのかを考える。そのためにはまず過去を探っていくことが大事であり、そのために必要なことは、自分の過去をよく知る肉親に話を聞くかもしくは自分の過去の収められた写真を見るかだろう。

「じゃあ、時雨沢さんの家に行ってみて、お母さんに話を聞いてみたり、アルバムとか見てみようよ。どこかにヒントがあるかもしれないし」

 凜花は自分の家に人を入れることにわずかな戸惑いを見せた。しかし、空乃の提案よりも実のある考えが浮かばずに、否定もできなかったのだろう。

 雑木林を抜ける。コンクリートに舗装された歩道を歩き、寂しいぐらいの店の数を横目にしながらどんどんと進んで行く。

 二人が並ぶには微妙に細すぎる歩道は、凜花を前にして歩く。そうすると凜花の背中が見える。その背中には凜花に憑りついた幽霊がいるのだろうかと、空乃は目を凝らしてみたり耳を澄ませてみたりするけど、なにも見えないし聞こえない。幽霊はいったい、どうして凜花に憑りついたのだろうか。凜花の話を聞く限り、決して凜花に害を与えようとしているわけではないと思う。

 その答えはこれから紐解かれるのだろうか。

 凜花の後ろをひたすらに歩き続けてたぶん十分ぐらいが経ち、一つの脇道に逸れてからさらに二回ぐらい横道に入る。

 コンクリート製の側溝の先には横並びに家が建っている。

 たまに犬を飼っている家があって、その犬は空乃たちを見咎めた途端に親の仇でも見つけたかのように吠えた。空乃は心臓が飛び出るほどびっくりした。それに対して凜花は何食わぬ顔で慣れっことばかりに歩き続ける。カラスが電線にたむろしている。黒猫が目の前を横切る。

 三階建てのマンションが見えてくる。

 緑色の壁が特徴的で、とてもエレベーターがあるほど近代的なものには見えない。

 それを指さす凜花。

「あれが私の家よ」

 


 外観から見た通りにマンションにエレベーターはなく、凜花の部屋のある三階まで階段を使って昇った。部屋を二つ通り過ぎてから、表札に書いてあるローマ字表記の時雨沢という文字を見つけた。当たり前だけど凜花がそこで立ち止まる。スクールバッグをがさごそやっている。それからストラップもなにもついてない鍵を取り出して、ふいに凜花の手が止まった。

 なんだろうと様子をうかがう。

「高菜さんは、私と一緒にいて嫌な気持ちにならないの?」

 搾りかすみたいな声だった。

 だからこその彼女の本音だと思った。

 質問の意図はしかしよくわからず、空乃はどういう意味と質問を返すことしかできなかった。だけど質問の答えは返ってこなくて、凜花はそのまま鍵穴に鍵を突っ込んだ。ドアノブを右に回すとそのままドアが開いた。凜花の背中が離れていった。

 空乃はその背中を追いかけて、お邪魔しますと言って凜花の家にあがる。

「そこの部屋が私の部屋だから勝手に入って」

「時雨沢さんは?」

「私はなにかお茶でも入れてくるから。あとアルバムが必要なんでしょ? 探してくるわ。それとうちは共働きだから両親とも帰ってくるのはそれなりに遅いから」

 凜花が空乃の家に来た時、そういえばお茶とか出してなかったことを思い出す。凜花が、次に家に来たときは、ちゃんとしたおもてなしをしなければいけない。そう思いながら凜花の部屋に入る。誰に言うわけでもない失礼しますを、とりあえず言ってみた。

 簡素な部屋というのが空乃の第一印象だった。

 ベッドとクローゼットと勉強机と本棚と遮光カーテンと小っちゃいゴミ箱、とりあえず生活に必要なものは一通りそろっているような感じだけど、ぬいぐるみとかポスターとか趣味嗜好の入ったものが置いていない。唯一趣味といえそうなものは本棚の中の本だろうか。そこには少女漫画っぽい背表紙もあれば、文庫っぽい背表紙もある。統一感はあまりない。だけど共通点はあるかもしれない。身を乗り出して背表紙のタイトルに目を通そうとした時に、凜花がコップを乗せたお盆を持ちながら部屋の中に入ってきた。

 反射的に姿勢を正した空乃は、

「早かったね時雨沢さん」

 凜花はお盆を空乃の前に置いた。

「忘れてたわ。こっちに引っ越してくる前にアルバムは間違えて捨てたらしいの。両親がいつかそう言ってたわ」

「ええ⁉」

「まあ私みたいなやつの写真が残っていたところでなんの価値もないからいいんだけど。でもまあ押し入れとか、あと両親の部屋とかを一応探してみるわ…………もう、うるさいな」

「幽霊さんがなにか言ってたの?」

「なんでもないわ。それじゃあ適当にくつろいどいて。なにか気に入らないものがあれば壊してもいいから」

「そんな野蛮なことしないよ」

 空乃はジト目で抗議してからお盆のコップを手に取った。一口含んで中身が麦茶であることを確かめた。夏に飲む麦茶はどうしてこれほどまでに美味しいのか、緑茶よりもほうじ茶よりも体に染みわたっていくような気がする。

「じゃあ探してくるから」

 凜花が踵を返そうとした。

 空乃はコップをお盆に戻して、それを呼び止める。

「まって、私も探すよ。二人で探したほうがきっとはかどるよ」

 凜花は空乃の視線をまっすぐに受け止めようとして、それからすぐにたじろいで視線を逸らした。

「好きにしたら」

「うん」

 凜花の後ろにぴょこぴょこついていく。リビングに通されたと思ったらそこに隣接された畳の一室に入っていく。障子の押し入れがそこにあって、黒くて丸い引き手に凜花が指を引っかけて襖を開けた。ぱっと見、折りたたまれた布団とビニールをかけられた電気ストーブと積み重なった段ボールが確認できる。

 凜花が段ボールをいくつか取り出した。

「アルバムがあるとしたらたぶんこの中だと思う。まあないとは思うけどね」

「今さらだけど勝手に段ボールの中を見ちゃってもいいのかな?」

「ほんとに今さらね。別にいいわよ。中身なんて昔に遊んでたおもちゃとかだろうし」

 凜花が段ボールを開けてみると、そこには確かにおもちゃ類が入っていた。

「昔のおもちゃを捨てずに持ってるんだね」

「そうよね、捨てちゃえばいいのに」

「だけど思い出のある物はあんまり捨てられなくなっちゃう気持ちわかるよ。昔に遊んでた着せ替え人形とか旅行先で買ったストラップとか、別に必要はないんだけどなんだか思い出まで捨てちゃうみたいで中々捨てられないんだよね」

「まあ確かにそうね。私もご当地もののストラップとかはここでは買えないからもったいない気がして捨てられないわ」

「ああそうそう、ちょっと遠いところで買ったものだとなおさらだよね」

 空乃が小さく笑うと、凜花もつられるようにして微笑んだ。

 空乃は思わず見入ってしまった。ずっとぶすっとした表情だったから、そんな風に笑うんだとはじめて知った。空乃のそんな思いに気づいたのか、凜花が自分の顔を無理やり無表情に戻した。だけど無理やり戻そうとしたからかそんな無表情がどこかちぐはぐなものに見えてしまうのは空乃の気のせいだろうか。

 空乃がまたも笑うと、凜花は今度はつられまいとして立ち上がり、

「親の部屋でアルバムを探してくる。さすがにそれは高菜さんに任せられないから」

 ずんずんとした足取りでその背中が消えていく。

 一人になった。

 もったいなくて捨てられなかったストラップとは、部屋に見当たらなかったがいったいどこに置いてあるのか、ご当地と言っていたがいったいどこで買ったものなのか、いくつか聞きたいことがあったけどまた聞くタイミングはあるだろうしなにより学校でいくらでも会えるのだから焦らなくてもいいと思った。

 空乃は、自分の作業に集中することにした。

 段ボールに敷き詰められているおもちゃをかき分けていって、下のほうにアルバムのようなものが埋まっていないかを確かめる。しかしどうしてもおもちゃのほうを見てしまう。兄弟はいないと凜花は言っていたが、一人っ子にしてはずいぶんおもちゃの量が多く感じる。まあ空乃だって昔のおもちゃをかき集めたらこれじゃ済まないぐらいの数になるだろうし、別におかしなことではないと思った。だけど次の段ボールを空けてみると、さっきの段ボールとほとんど同じようなおもちゃたちが入っている。

 これはおかしい。

 見比べてみれば、二つずつ同じおもちゃが入っていることもある。

 空乃がぱっと思いついたのは、兄弟が喧嘩しないようにおもちゃを兄弟の二人ともに与えているようだ、ということ。着せ替え人形がまったく同じ服を持っているし、データカードダスのカードホルダーが二つもあるし、携帯ゲーム機のソフトの同じやつが別のバージョンとかいうわけでもないのに二つある。

 空乃の頭に形を持った違和感が巣食った。

「ねえ」

 言葉が空から降ってきたように感じた。驚いて振り返った。

 凜花がいた。

 その顔はまるで生気が失われたように真っ青だ。その手にはアルバムのようなものを持っている。両親にアルバムを失くしたという嘘をつかれたから、それを確信してショックを受けたから、顔の青ざめかたとしてはその程度で済むようなものではない。自分がこの家の子供ではないと突拍子もなく知らされた時だったら、これぐらいの青ざめかたをするんじゃないだろうかという具合だ。

 なにがあったのか。

 声に出して聞く勇気は空乃にはない。

 ねえに続く言葉を愚直に待った。

「これ」

 凜花がアルバムを開いて、空乃に一つのページを見せてくる。

 空乃はそのページを見る前に凜花の顔をうかがう。なにかにすがるような顔つきだ。空乃になにかしらの答えを望んでいる。だけど、目の前に掲げられているアルバムのページを見なければ望まれている答えもわかるはずがない。

 ページに視線を移した。八枚の写真があった。

 幼い少女二人が、おじいちゃんに抱っこされていたり笑顔でピースをしていたり公園のすべり台で砂場に突っ込んでいったり車の後部座席で眠っていたりほっぺたにソフトクリームをつけていたりポニーの背にまたがっていたりでっかい牛にびびって泣いていたり車の後部座席でやっぱり眠っていたり、ぱっと見でそれはどこにでもあるような家族写真である。

 が、幼い少女の一人は確かに凜花その人ではあるけど、だったら凜花によく似たもう一人の少女は誰だろうという疑問がある。どっちが凜花かはわからないけど、それは大した問題ではないだろう。凜花に聞いた話では姉妹はおろか従兄弟だっていないはずなのに。

 誰。

 凜花にもわかっていないことが空乃にわかるはずもない。

 言うべき言葉は、

「もしかしてお父さんとお母さんが、時雨沢さんにお姉さんか妹さんかのどっちかがいたのを黙っていたのかな」

 言うべき言葉かはともかく、凜花の望んでいた言葉はこれじゃないはずだ。姉妹がいることを黙っている理由なんて、それこそロクでもない理由に決まっているではないか。

 凜花のヘアピンに話題を触れた時、小学校低学年までの記憶が、彼女はまったくないと言っていた。幼稚園ならともかく、小学校低学年の記憶がまったくないというのは少し考えてみれば引っかかる部分ではある。さすがに全部は覚えていないけど、空乃は授業中の野良猫侵入事件や給食エプロン怪盗事件などのとりわけ大きな出来事はいくつか覚えているし、どうして覚えているのかはわからないけど、隣の席の子に落とした鉛筆を拾ってもらったとかクラスの誰もが給食で出たもずくを残したこととか、ほんの些細なこともいくつか覚えている。

 忘れてしまったのではなくて、忘れざるをえない状況だったのではないか。

 空乃はそう思う。

 凜花に憑いている幽霊の正体が、もしも写真の少女だとしたら。

 写真の少女はもう、

 この世には、


「いない」

 

 凜花は感情の整理もつかないままに呟いた。

 だっていないのだ。

 記憶の中に、現実の中に、だけど写真の中にだけ彼女はいる。

 思い出せ。

 凜花の記憶の始まりは、あの病的なまでに真っ白な、どこかの病院の一室だ。

 体はまったく自由に動かず、窓から吹き込んできた木の葉がゆっくりと顔に落ちてくるのを黙って見ていた。寝ている無防備な凜花の鼻に、吸い込まれるように木の葉が落ちた。息苦しくて、鬱陶しくて、しかし、なにをするまでもなく木の葉は風に乗ってどこかへ飛んでいった。

 誰かが入ってきた。

 看護婦さんだ。凜花が目を覚ましたことに気づいた彼女は、回れ右でそのまま病室を出ていった。誰かを呼びにいったということすら考えに至らず、凜花は胡乱な頭でなにも考えずにぼおっとしていた。

 どれぐらいの時間が経ったかわからないけど、一気に五人ぐらいが入ってきた。

 ちゃんとは覚えていない。だけどさっきの看護婦さんはいる。もう一人ぐらい看護婦さんがいた。白衣の医者もいる。そして、凜花の両親もいたはずだ。

 不器用な力で抱きしめられた。

 たぶん両親のどっちかだ。

 両親の泣きそうな声、病状を伝えるシリアスな声、場の空気を和まそうとして話しかけてくる看護婦さんの雑談。

 内容なんてまるで覚えてない。

 だけどその時、両親のことを両親であると理解ができなかったのは事実だ。

 記憶がなかったのだ。生きていくために必要な知識はあるくせに、過去の記憶がどうしても思い出せない。

 今にして思えば、記憶は失われたのではないのだろう。凜花の心の大事な部分が記憶を封印していたのだと思う。

 なぜか。

 思い出してしまったら、凜花の心がひとたまりもなく壊れてしまうからかもしれない。

 だけど目の前には鍵がある。

 封印された記憶が、たちどころに氷解してしまうような魔法の鍵だ。

 両親がアルバムを隠していたのは何故だ。幼い凜花の隣にいる、アルバムの写真の彼女は誰だ。

 逃げられない。

 向き合わなければならない。


 記憶の鍵を開けた。

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