第7話 この気持ちはなんですか

 アースとジュドの消えていった方角が気になりつつも、フロラは後ろを振り返る。そこには、一連の出来事の中でも微動だにせず、空になったバスケットを持って控えている侍女の姿。

 この何があっても変わらない安定感はどうだろう。私の安全地帯。


「エバ。ジュドは大丈夫かしら?」


「慣れているので数日で復活するかと」


 うん、大丈夫ではないらしい。フロラはこめかみを揉みほぐしつつ考える。ならばやはり必要だろう──特製ハーブティーが。

 そう判断したフロラは、エバに申し出る。


「公爵邸に帰る前にハーブを買いに街へ寄ろうと思うんだけど」


「かしこまりました。しかし今回共に行くべき相手は、あたしではなさそうかと」


「うん? どういうこと?」


 たいていはどんな無茶にも二つ返事で付き合ってくれるエバの予想外の返答に、フロラは首を傾げる。するとエバはこの世の真理を告げるような重々しい様子で口を開いた。


「差し出がましいようですが、人間のコミュニケーションというものについてお話しさせていただきます」


「ええ。聞くわ」


「人間関係を円滑に進める上で最も大切な要素のうちのひとつは、バランス感覚でございます。フロラ様は今日、アース様のお望みに反して騎士団を訪問されました。なので今度はアース様のお望みに叶うことをすべきなのです」


「なるほど。それで、一緒にハーブを買いに行くことがアースの望みに叶うこと?」


「その通りです」


 確信に満ちたエバの顔をまじまじと眺める。エバの瞳が真っ直ぐにこちらを見返してくる。

 結果、フロラはよく分からないがとりあえずエバを信じることにした。彼女の助言にはこれまで何度も助けられているから。


「つまり──アースってショッピングが好きなのね。意外だわ」


「……」


 エバが物言いたげな真顔でこちらを見ている。どうやら何かが違ったらしい。

 最近エバの表情からうっすらと意図が読み取れるようになってきたフロラである。今の真顔は"違う、そうじゃない"。

 ……もちろん、じゃあ何が正解なのかまでは分からないのだが。


「まぁとりあえず、アースが帰ってくるのを待ちましょうか。それまでに」


 くるり、と遠巻きにこちらを見ている団員たちに向き直る。


「まだジュドしか終わっていないので。アースもいなくなってしまったことだし、私と演習の続きをしましょうね」


「──!!」


 声にならない悲鳴が演習場にこだました。それからアースが帰ってくるまで、団員たちは絶対に破れない結界相手にひたすら剣を振り続け、炎や電撃に追い回される地獄を味わう羽目になる。







 ジュドに制裁を加え終わったアースが目にしたのは死屍累々となった部下たちと、その中央で一人元気そうにしているフロラの姿。


「あ、アース! 今から街で買い物をしたいんですけど、もし良かったら一緒に行きませんか?」


 待ちかねていたフロラが声をかけると、不審げな目で部下たちを見ていたアースは、途端に上機嫌に微笑みフロラに手を差し伸べてくれた。


「君がそんなふうに言うなんて珍しいな。それなら早く行かないと日が暮れてしまう。待っていてくれたのか?」


 などと可愛くて仕方がないというような声で囁きながら演習場に背を向けた上司を、団員たちは息も絶え絶えで見送った。


「団長の、え、笑顔……?」


「え、今、笑ってたよな……?」


「笑ってた……めっちゃ優しく、微笑んでた……」


「ていうか………」


 色んな意味でお似合いだな、と呟いたのは全員の心だっただろうか。




 ***






「わあ! 街はこんなふうになっているんですね」


「はしゃいで転ぶなよ」


 王都のメインストリート。初めて自分の足で街に降り立った感動を全身で表現するフロラの様子に、アースはさりげなく手を握っておく。安全確保半分、下心半分。


 今のフロラの装いは、平民とまでは行かないけれど目立たず街に溶け込めるよう、つい先ほどお忍び用にと着替えたもの。陽の光を受ける爽やかな白いブラウスと、膝下で軽やかに翻る紺色のスカートが、フロラの気持ちを浮き立たせてくれる。


 くるりと見回してみれば、王都の中心だけあって両側にさまざまな店が所狭しと並んでいる。

 きらめくショーウィンドウを備えたドレスショップ。それよりも少し敷居が低くてたくさんの人が出入りする洋服店。雑多な雰囲気が興味を掻き立てる雑貨屋。たくさんの本棚が森のようにそびえる書店。それに食欲を唆る香りで客を引き寄せるレストランやティールームまでも。

 店が多ければ当然人もたくさん集まる。道行く人はみな、時折店を覗き込みながら楽しげに通り過ぎていく。


 馬車の上から眺めるのとは全く異なる街の活気を肌で感じて、フロラは胸を弾ませた。


「せっかくだから寄り道していくか?」


「はい!」


 喜び勇んで最初の一歩を踏み出したフロラは、そこで初めて繋がれた手に気づいた。


「へっ? 手をどうして……」


「はぐれたら困るだろう」


 アースはしれっと答える。


(たしかに地理も分からない初めての場所で迷子になったら困るけど……)


 気付いてしまったが最後、何だか全神経が手のひらに集中しているみたいに、触れた部分が気になってしまう。


(ああ、手に汗をかいてきた気がする。私の手、湿ってないかしら? じっとりしてるなとか思われたらどうしよう)


「いや落ち着いて私! どうしようもこうしようも、何もないから!」


「? なんだ急に大きい声出して」


「あっ、声に出てました? あはは……」


 フロラは笑って誤魔化すことにする。最近フロラが挙動不審でも気にしなくなってきたアースは、すでに横にある店を眺め始めている。


「どこか行きたいところは? なければ、適当に良さそうなところに入ってみよう」


「どこでも大丈夫です。何を見ても新鮮なので…」


 そうしてアースに手を引かれたまま、手近にある雑貨店に入ってみることになった。

 店内に足を踏み入れると、静かで少し埃っぽい独特の空気が周囲を満たす。右を見ても左を見ても、なんだかよくわからない古びた地図や食器、アンティークの棚や人形が、壁が見えなくなるほどに積まれていて、フロラは初めて人間界に降り立った時にも似た、異世界に迷い込むような不思議な感覚を覚えた。


「いらっしゃい!」


 店主だろうか。店の奥に座っていたおばさんが元気よく声をかけてくる。


「こんにちは。少しお店の中を見せてくださいますか」


「お好きなだけどうぞ!」


 にこやかに了承が返ってきたので、フロラはお言葉に甘えて隅々まで店内を見せてもらうことにする。


「お店の中なので、手は離して大丈夫です」


 やや納得できなさそうなアースから手を取り返すことに成功したフロラは、早速近くの棚から順に覗き込んでいく。

 ぬいぐるみだらけの棚、その隣は鏡の棚、時計の棚……本当に雑多だ。そんな中から気にいるものを探し出そうとするのは、まるで宝探しのよう。

 花瓶の棚、宝石箱の棚、宝石、埃まみれの石……。


「? 埃まみれの石?」


 すると横にいたアースが驚いたように目を瞠った。


「ほう、これは双子魔石だな。良質で貴重なものだ」


「双子魔石……」


 棚の隅に、二つの透明な石が無防備に転がっている。あまり輝きが感じられないのは、長い間ここで放置されているのか、薄く埃を被っているからだ。


「元々は一つの魔石だったものが、長い年月をかけて自然と二つに分裂したものを双子魔石と呼ぶ。魔力を込めると引き合う性質があるから、財力のある家だと、何かあった時のために子どもに持たせることもある」


 アースが石に魔力を当てると、二つの石が引き合うように動いた。


「でも、どうしてこんな場所に?」


「おそらくこれが双子魔石だと気付いていないんだろうな。滅多に目にすることのない代物だから無理もない。買っておくか」


 そう言ってアースは石を摘み上げると、店の奥に向かっていった。それを視線で追ったフロラは、店主の背後に予想外のものを見つける。


「あ、ハーブ!」


「うん? どうした」


「今日の目当てはハーブだったんです。まさかこのお店にあるなんて」


「お嬢ちゃんはハーブが欲しかったのかい? 実はそれ、あたしの趣味なんだよ」


 おばさんが嬉しそうに話しかけてくる。


「店の雰囲気とは少し違うだろう? ここは母の店でね。店番がてら少しだけあたしの趣味のハーブを置かせてもらってるのさ。普通の店にはないような、かなりマニアックなものまで揃えてあるよ」


「じゃあ、疲労回復のハーブティーに使えるものもありますか?」


「それならこのリルアメ草なんかお勧めだよ。煎じて紅茶とブレンドするんだ。すっきりした味わいで元気が出る。それからこっちのククム草なら、甘くてリラックスできる味わいで香りも抜群。あとは──」


「わあ」


 おばさんの説明を目を輝かせながら聞くフロラに、アースが小声で囁く。


「全部買って屋敷で色々と試してみればいい」


「ぜ、全部!? いや、いいです、いいです! そもそもこれまで高価なドレスや装飾品を用意してもらっていたのはどうしても必要なものだったからであって。これは必需品じゃありませんから!」


「君は気付いてないかもしれないが、我が公爵家の婚約者になった時点で君用の予算として品格維持費が付けられている」


「品格維持費?」


「公爵家の婚約者として相応しい品格を維持するための予算だ。だいたい金額は──」


「!?」


 あまりに膨大な額に、フロラはドン引きした。


「実際に結婚したら10倍になるからお勧めだ」


「おお……。ん? 結婚?」


「資金がたっぷりあるのは分かっただろう。で、全部買うか?」


「じゃあ、気になるものを全部、にします」


 何だか一瞬気になる単語が出た気がしたが、フロラは深く考えないことにしてハーブに集中した。


「どれが欲しいんだい?」


「そうですね……。とりあえずさっきのリルアメ草と、ククム草と。こっちのは何ですか?」


「ああ、綺麗な花だろう? これはね。ゼランというハーブの花の部分を乾燥させたもので、お湯で煮出すと──」







 無事ハーブを手に入れたフロラは、ご機嫌で店を出る。


「ありがとう! 最近物騒だから、気をつけて帰ってね!」


 ちなみに双子魔石にもきちんと正規の値段を払ったので、おばさんもすこぶるご機嫌で送り出してくれた。


「アース、長い時間付き合わせてすみません。すっかり夜になっちゃいましたね」


「見ているのも楽しかったからいいさ。ハーブについて詳しく考えたことはなかったが、なかなか奥が深いんだな」


「ですよね! 私もびっくりしました。今度本でも見て研究してみます。……って、あれ?」


 昼間にはわいわいと賑わっていた道が、今は人ひとりいない。規則正しく立った街灯が、誰もいない道をぼんやりと照らしている。


「どうしたんでしょう? みんな早寝なんでしょうか」


「まさか」


 首を傾げていると、公爵家の紋章を掲げた馬車が滑るようにやってきて、御者が扉を開けてくれる。


「どうぞお乗りください。ジュド様のご指示で参りました。なんでもここ数日、この付近で行方不明者が増えているそうで」


「そういえば、おばさんも最近物騒だって」


 道に立っていても仕方がないので、とりあえずアースと二人、馬車に乗り込む。


「……この王都で行方不明とは」


「事件のにおいがしますよね。これは要調査です」


 そうだ。私は困っている人たちを手助けしたくて、人間界へ来たのだ。それなのに、まだ何も役に立てていない。

 こうしている間にも困っている人がたくさんいるのに。


「今日も仕事をするはずが、結局遊んじゃったわ。どうしてこうなったのかしら……」


「楽しくなかったか?」


「もちろん楽しかったけど、計画とは違いました」


 今さらではあるが仕事をしようと、少しでも挽回するつもりで窓から街を観察していると、その様子を見ていたアースが深くため息をつく。


「君は何故そんなに仕事がしたいんだ」


 アースがおもむろにフロラの手を取ったので、びくっとして振り向く。


「あの! 昼間もそうでしたけど、急に手を握るのは」


「聞いてくれ」


 抗議しようとしたフロラだったが、見慣れた漆黒の瞳が予想外に真剣な光を宿していて、言葉を失う。


「たった一か月。──君が人間界に慣れるのに使った時間だ」


 言い聞かせるようにアースが言葉を紡ぐ。


「君は勇敢にも身一つで、神が住まう世界から、人間界という異世界に降り立った。しかも神の身体を捨てて、人間の身体に変わって。そして右も左も分からない状態から俺を味方に付け、人間界の作法を学び、俺の婚約者として社交界に存在を認めさせた。それだけのことを、一体君以外の誰が成し遂げられると思う?」


 アースが少し苦しげに、フロラと視線を絡めて囁く。


「──君は十分頑張っているから、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないか」


 アースがそんなふうに心配してくれていたなんて、気付かなかった。

 神は孤独だ。フロラは生まれてからほとんどの時間を、たった一人で生きてきた。誰かに心配してもらった経験など一度もなかった。フロラはぼんやりとアースを見つめる。


 その気遣いを無碍にしたくない。そんな想いから無意識に頷きそうになって──けれどその時、天上界で目にしたある光景が脳裏に蘇った。その光景をぼう然と眺めるだけの、無力な自分の姿も。


 忘れてはいけない。いや、忘れることなどできない。

 あの時感じた気持ちは。痛みは。悲しみは。どこまでもフロラを追いかけてくる。だから。


「私は、頑張りたいんです。……どうしても」


 そう答えるしかなかった。それでも自分のことをそんなふうに気遣ってくれるアースの存在が、ありがたくて、嬉しくて。少しだけ胸が苦しくなった。


「そうか」


 言いたいことはたくさんあるだろうに、アースは黙ってフロラの髪をそっと撫でる。


「無茶だけはしてくれるなよ」


 仕方なさそうに微笑むアースの視線は柔らかいままで。

 どうしてだろう。髪をすり抜けて去っていくその指先に、無性に触れたくなったのは。

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