第14話 怪しい詠唱文?
開きっぱなしだった吉野のノートを橘が覗き見ている。
「もしかして、これって先生が考えた詠唱文ですか?」
「うん。私の中には良いストックがなくてね。橘くんから教わったものをいくつかアレンジをしてみたんだけど、なかなか上手くいかないね」
「個性的ですね。面白いと思いますよ。けど、ところどころにクエスチョンマークがあるの、これ何のことです?」
「ああ、それはちょっと誤用かなとか厳密に考えてみるとおかしいかもと思うものを少しね」
橘が暗誦している詠唱文を書き取って、読んだ時に違和感があるものには吉野がチェックしていた。
「『闇をまといし
「いきなり質問するけど、『まといし』の『し』って何?」
少し考えた後に橘は迷いなく答える。
「過去の助動詞『き』の連体形の『し』」
橘は文法問題でほとんど失点をしたことがなかったよなと吉野は思い出す。
「完璧な解答だね。そう、この『し』の正体は過去の助動詞『き』でしかありえない。訳すと『闇をまとった鎧』ということよね」
「それに何か問題でも?」
「過去だから、もしかしたら『昔に闇をまとった鎧だが今はまとっていない』という意味にも捉えられるわけだよ。過去の状態が今に至るまで引き続いている保証はないといえばいいかな。そういうのを回避するためには『闇をまとえる鎧よ』や『闇をまといたる鎧よ』のように完了の助動詞『り』『たり』を使った方がいいね。この詠唱文が文語を基本としているのなら、『まとう』の『う』は『ふ』となって、ハ行四段活用の動詞、助動詞『たり』は連体形に、助動詞『り』は四段活用には已然形か命令形に接続するので……」
説明をしながら、ノートに書いていく。
口語 まとう + り → まとえり → まとえる鎧
+ たり → まといたり → まといたる鎧
文語 まとふ + り → まとへり → まとへる鎧
+ たり → まとひたり → まとひたる鎧
「こんな感じかな。『女神に祝福されし勇者よ』なんてのも、過去には祝福されたけど、今は女神の祝福の効果が残っていないただの勇者かもしれない。だから『女神に祝福されし勇者よ』の『し』はちょっとおかしい。他にも『選ばれし○○』『仕えし○○』『備わりし○○』『司りし○○」なんかも引っかかる。適切な場合もあるにせよ、『し』は『る』や『たる』に置き換えた方が無難だと思うよ。助動詞の『き』を学習した時に唱歌の『ふるさと』の例を挙げたのは覚えてるかな?」
「ふるさと」の歌詞を書いていく。現代仮名遣いではなく、歴史的仮名遣いで吉野は書いた。
兎追ひしかの山 小鮒釣りしかの川
「覚えてます。『兎を追ったあの山、小鮒を釣ったあの川』ですよね」
「そうそう。こうして『おひ』が漢字『追ひ』だと誤解も少ないけど、平仮名だけだと『おいしい』と誤解しやすいわけね。耳から最初に覚えていく言葉の中には、そういう誤解は多くあるかな。曲なんかを聴いて、いざ歌詞を読んでみると全然違ったってことは何度もあったな」
『アルプス一万尺』の「こやり」を「子ヤギ」、『どんぐりころころ』の「どんぶりこ」を「どんぐりこ」、『ぶんぶんぶん』の「野ばらがさいたよ」を「お花がさいたよ」と、枚挙に暇がない。『荒城の月』の「めぐる盃」を「眠る盃」と覚えていた作家もいた。
「この歌って、じゃあ『ふるさと』は今はもうないかもしれないという可能性があるんですかね」
「まあ、3番の歌詞に『いつの日にか帰らん』とあるから『ふるさと』はあるんだと思うけど、でもかつての山や川はもうないかもしれないね」
吉野の表情が一瞬だけ曇る。「いつの日にか帰らん」と自分が口にした言葉が、今の自分たちの境遇と重なりあう、とは橘には言えなかった。
「そういう考え方ができるんですね。じゃあ、僕が最初に使った魔法は……」
「『渾沌より生まれ出でたる冥界の王よ』の『生まれ出でたる』だよね。これは『冥界の王』なんだから『生まれ出でし』でも今も存在しているような気もするけどね。『渾沌より生まれ出でし冥界の王よ、今再びその力を
橘には説明を省いたが、過去の助動詞「き」にも平安時代よりも古い時代には、動作の作用が続いていると見られる事例があり、さらに平安時代末期以降に「わが園の咲きし桜を見渡せばさながら春の錦はへけり」(『為忠集』)の「咲きし桜」のように単純に過去とはいえない意味用法も発生している。だから、「ちょっとおかしい」「無難」という程度の指摘に留まっている。
このように、吉野は橘の知っている詠唱文の中の文言や言葉の使い方などに対して、わかる範囲で明らかにおかしい文言の訂正や置き換えられる表現などを教えた。
「結構間違いがあるもんなんですね」
「いや、ここまで言っておきながらだけど、間違いかどうか、即断するのはやめた方がいいかもしれない。ゲームやアニメの中の詠唱文って文語で書かれるものが多いよね。中には現代の話し言葉で表現されるものもあるけど、たいていは重々しい雰囲気を作るためにというか、魔法っぽさを演出するためにあえて古い言葉を使っているんだと思う。江戸時代でも、たとえば平安時代の文章を規範として『
「微妙ですか?」
「たとえば、この『悪魔の名を冠す者よ』って詠唱文の一節、これは判断が難しいなと思ったな。『冠す』って古文で言ったら活用の種類は?」
「四段……、いや、サ変動詞ですね」
それを聞くと、吉野はサ変動詞の活用表をノートに書いた。
一般に、サ行変格活用動詞は文語文では未然形から命令形まで以下のように整理される。
未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形
せ し す する すれ せよ
「それじゃあ、『冠す』の活用形は?」
「終止形になりますね」
「そう。この表からは『冠す』は終止形しかない。でも詠唱文では『冠す者』とあって、『冠す』の後ろには『者』という名詞があるから、文語に従えば連体形『冠する』の方が適切なわけよ。じゃあ、この『冠す』は口語文法、つまり普段私たちが使っている文法に従っているかといえば、そうでもないのね。中学生の時に口語文法でサ変動詞を習った記憶はあると思うけど……」
再び、ノートに今度は口語のサ変動詞の活用表を書いた。
未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
し し する する すれ せよ
せ しろ
さ
「見ての通り、ここには『冠す』はないわけで、『冠する』しかないのね」
「じゃあ、『冠す者』は間違いなんじゃないんですか? 文語だと考えて『冠する者』にしないといけないのでは?」
少なくとも文語でも口語でも合理的な説明のつかない「冠す者」は、間違いとしか言いようがないと橘は思った。
ただ、吉野は異なる見解である。
「口語でサ変動詞のものは他にも『愛する』『課する』などがあるけど、『こと』を付けて『愛すこと』や『課すこと』でも私たちには通じる。他にも『べし』を付けたら、『愛すべし』『愛するべし』、『課すべし』『課するべし』とも言える。同じように、『冠す者』と『冠する者』を考えた方がいいかなと思うよ。今私たちが使っているサ変動詞の中には、説明したように結構微妙な活用形が多くて、揺れているんだよ。あとは終止形と連体形が現代語の場合ほとんど同じものが多いからという理由もある。だから『冠す者』については今は判断ができないな」
「よく冗談で使われている『~するです』っていうのも関係あるんですか?」
「面白い表現だよね。作文に書いてきたらチェックするけどね。そうだね、どうしてその表現に引っかかるのかという言語感覚と、どこが奇妙に思えるのかを理論立てて分析するだけの言語知識、こういうのは大切にしてほしいかな」
他にも、と「論じる/論ずる」を挙げて「論じること」「論ずること」「論じるべし」「論ずるべき」「論ずべき」などの例を挙げて説明をした。
「じゃあ、高校入試にも出てた口語文法って、完璧なものじゃないんですか?」
「そうだね。私たちの世界では学校文法と呼ばれているんだけど、これもたくさんある文法の考え方の一つに過ぎないわけね。山田
久しぶりに生徒にこんなに言葉のことを話すなあと、授業をしていた日々が貴重なものに吉野には感じられているのだった。
自分にはこの世界で何かをなすことは難しいように考えていたが、だったら詠唱文を分析することでその代わりを果たせないかと、この時吉野の中で一つの決心が固まりつつあった。
「詠唱文が古文のような表現になるってことですけど、じゃあ古文っぽさって何なんですかね? 単に古い言葉を入れ替えたらいいわけじゃないんですよね?」
「現代語から古文の言葉を引ける辞書もあるけど、それだけだと言葉が古いだけで古文の表現とは言えないよね。極端な話、私たちが英語を片仮名にして使うようなものになっちゃう。現代仮名遣いを歴史的仮名遣いにすればいいわけでもないし、漢字の旧字体を使えばいいわけでもない。まずは用言の活用の種類を文語に合わせることかな。私は詳しくないけど、クラシックの世界に『美しき青きドナウ』って曲があるんでしょ?」
「えっ、はい。ヨハン・シュトラウス2世ですね」
吉野の口から思いがけず曲名が出てきたことに橘は少しばかり意表を突かれた。
「これだって形容詞の活用の種類を口語に直したら、『美しい青いドナウ』となっちゃう」
「ちょっと違和感ありますね」
「『美しき青きドナウ』に私たちは慣れちゃってるからそう思うんだろうね。もし『美しい青いドナウ』しか今後使われなかったら、違和感を抱くことのない人たちでいっぱいになると思うよ。とりあえず、活用の種類を文語に合わせること。他の、古文っぽさかぁ、古文表現の特徴ってことだよね」
うーんと悩んだ後、それじゃあ、と言うと、吉野は橘でも知っている古文の文章を書いていく。
竹取の翁といふ者〈 〉ありけり。
いと寒き〈 〉に火など〈 〉急ぎおこして炭〈 〉もてわたる〈 〉もいとつきずきし。
「『竹取物語』と『枕草子』ですね。中学生の時に読みました」
「今は小学生でも暗誦している子はいるからね。冒頭は短いから、覚えてる人も多いよ。それで、山括弧のところに、それぞれ言葉を入れて補ってみて」
ペンを渡された橘は、括弧の中にふさわしい言葉を入れていく。特に難なく書くことができた。
竹取の翁といふ者〈 が 〉ありけり。
いと寒き〈 時 〉に火など〈 を 〉急ぎおこして炭〈 を 〉もてわたる〈 こと 〉もいとつきづきし。
「これで、いいかな」
「うん、いいね。それで見てもらったらわかるように、主語を示す『が』という助詞が古文では書かれないことが多い。この『が』を主格の助詞と言って、『の』にも似た意味があるの。また、『枕草子』でもわかるように、『を』という助詞も書かれないことがある。このように、特定の助詞は明示されないことがあるから、訳す時に『が』や『を』などを考えなければならないわけね。古文学習の難しさの一つかな。ただ、これが古文だけの特徴かというとそうでもなくて、私たちも『今日私これ食べる』のように、助詞を使わずに表現はするし、伝わるよね」
「メッセージを送ったり、友達と話す時はそういう表現をとりがちですね」
「古文の場合はそれが
「楫取『が』、また鯛『を』持ってきた、ですかね」
「そうそう、これなんかは格助詞の『が』と『を』が明示されていない文だね。詠唱文で短文ではなくて長めの文章を作る場合は今言ったことを少し意識をするだけでも違うかな。もちろん、これらが絶対に使われないわけではなく、明示されることもあるからね。古文といっても、広い時代だから、今私が説明しているのは平安時代の一時期の文法のお話ね。それで、他にも同じ格助詞だと『に・へ・と・より・から・にて・して』などは明示されるのが一般的だね。古典を書いた人たちは言葉をよく省略するけど、絶対に外せない言葉は外さないんだよ。誤読を生んじゃうからね。あとは、よく例に出されるやつは……これも読んだね。『伊勢物語』の東下り」
修行者あひたり。
「男たちが修行者に会った……ではなかったですね。確か、修行者が男たちに会った、でしたっけ?」
「そうだね。ずっと男たちの視点で読んできたから、主語も男たちにして修行者に会ったと意味をとりたいところだけど、もしそうであるなら格助詞『に』は明示されているはずで、ここは『に』がないから、『修行者が来合わせた』と解釈したいところ。今までの話をまとめると、古文っぽい表現にしたかったら、『が』『の』『を』などの語を抜いてみたらいいかもってことね」
もちろん、「我が名」の「が」は抜いてはいけないからね、これは連体格の『が』っていうんだよ、と吉野は付け加えた。
そろそろ満足をしたかと橘は考えていたら、吉野はまだ続ける。
「それともう一つ、この『枕草子』の例だけど、動詞や形容詞などの連体形で『もの』や『こと』、『ひと』や『とき』などの意味を持たせることができるのね。この時の『寒き』や『わたる』は連体形になってるけど、
「『捧げる』の後には『もの』が省略されているんだろうと思うけど、詠唱文にこの準体法を用いてるのは結構あったね。あ、ちなみに『捧げる』だと口語だから、文語のガ行下二段活用『捧ぐ』にして連体形『捧ぐる』にするのもいいかな。ついでにいえば、音を合わせて『汝に捧ぐるは鳳凰の咆哮』という表現にしてもいいかも。攻撃魔法っぽくなっちゃうけどね。個人的には『捧ぐる』よりは『捧げる』の方が好きかな。他にも、現代だと『負けるが勝ち』とか『言わぬが花』のような表現が残ってるね」
すでにこの時点で橘は若干引いているが、一度火が付いてしまったからか、吉野の語りが止まらない。それからも「実はあれも、これも」と続いていった。
ようやく収まりかけた時だった。
「そういえばこっちに古典の教科書とかは持ってきてなかったよね? あの日は授業もなかったからな。ちょっと待ってて……いや、しばらく待ってて」
そう言うと、吉野は自分の頭の中にある古文の助動詞の活用表と、主要な助詞を綺麗な字でノートに黙々と書いていき、やがてそれを綺麗に破ると橘に渡した。
「久しぶりにがっつり書いたよ。もし古文の助動詞や助詞を使いたい時に参考にしてね。本当は文法書があるといいけど、あいにくそれは持ってきてないからなあ。電子辞書はたくさん持ってきてるから、その中に入ってる古語辞書を使うと捗るよ」
「あ、はい。ありがとうございます。先生、今書いたもの全部頭の中に入ってるんですか? すごいですね」
「えっ、こんなの高校生に国語を教えてるんなら当たり前だよ。いろんな曲が頭に入っててすぐに演奏できる橘くんの方がすごいよ」
そう言い捨てた吉野は、元のようにエリュミ語の書き取りの練習に戻っていった。
吉野は橘のピアノやオルガン、ヴァイオリンの演奏に感銘を受けた。それと同じ程度に橘はあきれを通り越して、すっかり感服していた。橘の視線に吉野は気づいていないようだった。
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