本当の理由

林凜

第1話

 彼女の家に着く頃には既にかなり暗くなっていて、アパートの蛍光灯が眩しかった。錆びた鉄の臭いが、ジメジメとした外階段に漂う。


「すごい雨だね」

彼女は2人分のホットココアを持ち、キッチンから顔を出しながら言った。訳ありな彼女は、僕に依存している。それが分かっているから、彼女のことを深く知ることが怖い。彼女はその事実に気がついているのだろうか。

「甘いの、好き?」

マグカップをひとつ、僕の前に置く。僕がこくりと頷くと、嬉しそうな顔で、マグカップを両手で抱え1口飲んだ。

 今日あった少しだけ面白い話、実家で飼っている犬の話、たわいもない話をずっとずっと、話し続けた。なんとなく、ただなんとなく、僕らは一緒にいてはいけない気がした。だから、お互いの人生に何の影響も与えないような話をした。そんな当たり障りのないつまらない話でも楽しくて面白くて、沢山笑った。


 それから、何時間経ったのだろうか。カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しい。ふと僕の左斜め前にある全身鏡に映った自分が、目に飛び込んできた。楽しそうに笑っている自分と目が合う。鏡の中の彼は街に溢れている無難な服に無難な髪型で、自分の意思など隠れてすらいない。はなからそこに、存在していない。――何をしているのだろう。僕は、このままでいいのだろうか。呼吸が苦しくなった。胸の浅いところで、慌てて息継ぎをする。――ドクン、ドクン、ドクン。全身が、脈打つのがわかった。心臓がドキドキして、足の血の巡りが止まったような気持ち悪さに襲われる。胸が、息が詰まり笑顔が難しくなって、

「――どうかした?」

パッと風が吹いたように。彼女の笑顔は魔法のようだった。

「ううん、なんでもない」

自然に、内側から出た笑顔を向ける。そっか、と、もう冷めきったであろうココアの最後の一口を飲み、マグカップを2つ持ってキッチンに消えていった。彼女のお母さんは、彼氏から暴力をうけている。彼女もそうだった。だから僕のところに、逃げてきた。彼女のお母さんが亡くなった今、それがどれだけ賢明な判断だったかがわかる。彼女は、梨花は、僕が守る。そう誓った夜だった。


 彼女は時々僕に見えない壁を作る。悲しいことがあっても、笑っていた。胸の中の暗くて狭いその部屋には、何があるのだろう。その部屋の鍵はもう、どこかに落としてしまったのだろうか。たった今、彼女のお母さんのお葬式が終わったところだった。

「梨花」

赤信号を背に、緩く結んだ長い髪を揺らしながら、ゆっくりと振り向く。今日も、彼女はどこか悲しそうに微笑んでいる。

「顔を思い浮かべた時、周りにその顔が笑顔の人はいる?」

突然の質問に、彼女は不思議そうに僕を見た。構わず続ける。

「例えば、いつも悪口ばかりの人や怒っている人だったら、顔を思い浮かべても笑顔ではない。ふとした時でも笑顔が浮かぶ人は、きっといつもニコニコしているんだろうな。周りも本人も毎日楽しいだろうね」

「何が言いたいの?」

彼女はもっと不思議そうに首を傾げる。

「君のお母さんは、どうだった? 君自身は、お母さんと居る時どうだったのかな」

納得のいかない表情のまま、少し考える。

「……怒ってばかりだったから、前者、かな」

「僕が思い浮かべた君の顔は、笑顔だよ。僕は、笑顔が浮かぶ人と一緒にいたい。君はそうは思わない?」

僕は彼女の笑顔を思い浮かべながら言う。

「お互いに気の合わない人が、たまたま親子になってしまっただけなんじゃないかな。色々思うことはあるのかもしれないけれど、君が罪悪感を抱く必要は無い」

彼女の目が、少し赤いような気がする。

「……私のご飯がなくても、私に愛がなくても、どれだけ傷つけられても、お母さんが大好きだった。笑顔が見たくて、なんでもした。でもお母さんは私よりも彼氏が大事で、物心ついて段々それに気がついたとき――」

彼女の声は震えていた。目がいっぱいになって、一筋の涙が流れる。彼女の中にあったストッパーが外れたように、次々に大粒の涙が零れていく。

「――私、お母さんが死んで嬉しいのかもしれない。そう思っている私が、いっちばん嫌い」

なぜ今も、そんな顔を見せるのだろう。嗚咽しながら、歯を見せて笑った。信号が変わるまでの時間を知らせる小さな粒が、半分を切ったところだった。

「今、幸せ?」

はっとなった。間違ったことを聞いた。僕は慌てて訂正しようとしたが、彼女は鼻を啜って話し始める。

「幸せだよ。今が、多分一番幸せ。あの時のことを思い出すと、いても立ってもいられない気持ちになるの。なんてゆうか、こう、ここがきゅーっとしめつけられて」

視線を地面に落とし、心臓の当たりを撫でながら言う。

「僕の目を見て言ってくれ」

「――ちがう、ちがうの。本当に、幸せなんだよ。でも何でだろうね」

へへっと笑って続ける。

「……今までで一番、寂しいや」

彼女はまた、悲しそうに笑っていた。悲しい時に笑うなよ、言葉が直前でつっかかって出てこない。

「君は優しいね」

彼女は静かに呟いた。その意味が聞けないまま信号は青になり、彼女は無邪気に走った。また僕に、壁を作ったのだろうか。

「……お母さんのこと、大好きなんだね」

そっと呟く僕の独り言に、えー何聞こえなーいと足を止める。僕は彼女に1番の笑顔を向けて、言った。

「僕たち、ずっと一緒にいよう」

彼女はもう一度目を潤わせ、ゆっくりと頷く。僕が掴んだその細い腕は、少し震えているような気がした。


「私たち、別れよう」

彼女がそう切り出したのは、彼女のお母さんが亡くなって、ちょうど1年が経った今日だった。

「私ね、ニュージーランドに留学に行くことになったんだ」

僕は思わず彼女の腕を掴む。

「……どういう、こと?」

彼女の真っ直ぐな瞳に、嘘は見当たらない。

「なんでそんな大事なこと1人で決めたんだ?僕も着いて行く。梨花は僕がいないと何も出来ないんだから――」

「それが嫌なの!私を、これ以上支配しようとしないで」

彼女は、何を言っているんだろう。

「ずっとずっとあんたが居るせいで、自由になれない。……お願いだから、もう私を解放して」

気がつくと、泣き崩れる彼女を、思い切り叩いていた。僕に依存していたのは梨花の方だ。むかつく、むかつく、むかつく。激しく蹴る僕に、彼女は頭を抱え丸くなりながら、ひたすら耐えていた。

「ずっとずっと一緒にいよう。そう話したじゃないか。梨花の過去の傷を癒せるのは僕しかいない。僕が梨花を守るから」

背中を優しく摩る。顔を上げた彼女は――怒っていた。笑っていない顔がとても怖くて、不安で、戸惑う。

「私、もう行くね」

いつ纏めたのか分からない大きなボストンバッグを肩にかけ、力強い口調で僕に言った後、逃げるようにこの部屋を去って行った。彼女はお母さんを失ったあの日、今までで一番寂しいと言った。沢山傷つけられてきたはずなのに、泣いていた。

「……僕の、何がいけなかったんだろう」

床には合鍵が投げ捨ててある。全身鏡に映った僕はとてもやつれていて、みずぼらしく、汚かった。


 彼女の居なくなったアパートは、なぜだかいつもより狭く感じる。僕は彼女を追いかけなかった。梨花の怒った顔が、脳裏に焼き付いて離れない。彼女がいつも笑っていたのは、僕を怒らせないためだったのだろうか。お母さんに捨てられ可哀想な梨花を、僕が助けた。沢山の愛をあげた。それなのに彼女は未だ、心の奥底の部屋を見せてくれない。扉の前まで行くことがあっても、鍵はどこにも落ちておらず、開くことは出来なかった。僕は彼女を傷つけた。その事実だけがこの狭い部屋に残されていて、ハッとする。依存していたのは、僕の方なのだろうか。

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本当の理由 林凜 @rinmomoichigo

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