第2話 休暇


 なんだ? このにおい。鼻先でツンとして、のどの奥に刺激が残る。覚えがある感覚。柑橘かんきつ系の香水だ。私が持っている香水と同じにおいだった。


 念のために軍手をはいて、もう一度ポストを開ける。ポストのなかは水気があり、香水のにおいが充満していた。香水をばらまいたように思える。誰が? なんのために?

 気味が悪い。私はすぐに夫に伝えた。


「たちの悪いいたずらだな」


 夫はため息をつきながら言う。


「いたずら? ただのいたずらで済まされないよ」


 私はむっとして反論した。夫は面倒くさそうな顔をして、ポストのなかをさっといて家のなかへ入ろうとした。

 ポストのなかは端のほうがまだ汚れていた。私は夫から雑巾を受け取り、端まできれいに拭いた。雑巾を洗って乾かさなくてはならない。サッと拭いただけで、片づけた気になっているんだから。

 わけが分からない恐怖と夫への苛立ちが起こる。いたずらだと思うことにしよう。あれこれ考えても仕方がない。



 朝の慌ただしさは、昨日の出来事を忘れさせる。私はいつも通りお弁当と軽い朝ごはんを作って会社に行く準備をする。居間からあの香水のにおいがする。お義母さんがポストから新聞を持ってきたのだ。



 会社に着くと、チーフが怪我けがをしたので一ヶ月ほど休むと報告を受けた。その間は私がチーフ代理をすることになった。

 チーフの仕事なんてやったことがなかったが、事務所のスタッフが手伝いに来て仕事を教えてくれるらしい。

 急なことばかりだった。新しくチーフの仕事を覚えながら、サブチーフの仕事を違う子に教える日々が続く。精神的な疲れが大きかった。


 メンバーの休暇状況を把握するのも仕事のうちだった。


「休みをください」


 作業者は次々と休暇申請をしてくる。実家に帰るから。三者面談があるから。病院に行くから。それは土曜日だってできることではないのか。

 三者面談だって、必ずしも母親が行く必要はあるのだろうか。父親が同行したっていいのではないか。同じ年代の女性社員が多いので、休む時期も理由も似た人が多く、同じ日に休暇者が重なる。

 いい加減にしてほしい。事前休暇以外にも、いきなり具合が悪くなって突発的に休む人だっている。休暇対応要員だって無限にいるわけではない。


 私は事前休暇の承諾しょうだくを、同日二名までにした。

 三名以上希望者がいた場合は事情を聞き、優先度と話し合いで決めることにした。このように決めてしまえばよかったのだ。

 念のために労働に関する法律をウェブで検索したところ、このやり方で問題はなさそうだった。

 新しく覚える仕事がたくさんあるのに、わがままな休暇申請にく時間がもったいない。


「美雪ちゃん、この日休みちょうだい」


 水木さんがいつもの調子ではっきりと言う。水木さんが希望した日はすでに一名、事前休暇者が入っていた。二名まではよいのだけれども……水木さんは休みが多い。毎月一度は休んでいる。


「有休はなくなるからね、使ったほうがいいんだよ」


 以前、水木さんはそう言っていた。


「水木さん、その日じゃなきゃだめですか? 水木さん、先月も今月も休んでますよね? あまり休まない人を優先的に休ませてあげたくて……」


 私は少し申し訳なさそうに、けれども口調ははっきりと言った。

 水木さんは瞬時に顔つきが変わった。断られるとは思っていなかったのだろう。今までのチーフは休暇がとりやすかったかもしれないが、今は私がチーフ代理だ。私のやり方に従ってもらう。


「そう、別にその日じゃなくてもいいわよ」


 水木さんは口をとがらせて言った。


「助かります、ありがとうございます」


 私は笑顔を作って言った。水木さんは「ふんっ」という感じの態度で行ってしまった。

 水木さんは、別の日に休みたいとは言わなかった。つまり用事なんてなかったのだ。これでよかったのだ、私のやり方は正しかったのだ。



 ポストを覗くが、まだ届いていない。それはそうだと思うが、わくわくするので覗くのが習慣になっている。


 今日の夕飯はサンマに大根おろしが添えられている。副菜は小松菜とツナの和え物に、豚タン。おみおつけは大根と油揚げだった。

 魚と肉の組み合わせはあまりよくないと聞いたことがある。根拠はないし迷信かもしれないが、一度聞いたので気にはなっている。豚タンはまた、お義父さんのつまみだろう。


 しかし私はサンマが好きだった。焼きたてで皮がパリパリしているのが特に好きだった。

 お義母さんはベジファーストと言い、小松菜から食べている。お義父さんは豚タンをゆっくりと食べている。夫はおみおつけが一口目だと、自分ルールがあるようだった。

 本当は、味を見てから醤油しょうゆをかけるのがよいのだろうが、お義母さんが焼くサンマは醤油が必要だ。私は塩焼きが好きだけれども、言い出せない。食べたければ自分で作ればいいと言われそうだが、そうもいかない。台所はまだまだ、お義母さんのものだった。


 食卓の中央に置かれてある醤油入れを手に取る。フタがゴム素材で柔らかくなっていて、そこを押して出量を調整できるものだった。

 容器を傾けようとしたとき、醤油がほとんど入っていないことに気づく。お義父さんは濃い味が好きで醤油をよく使う。それじゃなくても、サンマにかける醤油が全員分はないだろう。私はうんざりした気持ちが顔に出ないよう、醤油を補充した。

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