『ヒール』が滅茶苦茶痛かったので、聖女をやめて勇者になりました
九重
第1話
『ヒール』は、ファンタジー小説やゲームにおいて、万能な聖属性魔法だ。どんな傷や病気も、たった一言呪文を唱えれば治る聖なる癒しの魔法で、慈悲と善意の象徴。使い手は聖人、聖女と讃えられる。
しかし、ここで少し考えてほしい。
古今東西どんな小さな傷や病でも完治するまでには時間がかかるというのがセオリーだ。早くて数時間。ヒドければ何年も病んで治らず死んでしまうことだってよくあるケース。
それを『ヒール』は、あっという間に治してしまうのだ。しかも怪我の痕も残らず後遺症も皆無。
これらのことから、私は『ヒール』は傷や病の治癒ではなく、傷ついたり病んだりした部分を削除して、その後元通りに再生させるものではないかと考えた。だからこそ、どんなものにも効果を発揮するのだろう。
とまれ、それはどうでもいいことである。『ヒール』の働き方がどうであれ、間違いなく効果があるのならば、そんなものどうでもいい。
問題は、
「うわぁっ! 寄るな! 俺は絶対ヒールなんてされないぞ!」
「いやだ~! ヒールなんてされるより、死んだ方がマシだ!!」
「助けて! 母ちゃ~ん!!」
私が部屋に入った途端、周囲は阿鼻叫喚の巷と化した。
しかも、泣き叫んでいるのは屈強な男たち。
ここは戦場で、彼らは人間世界を侵略する魔物との戦いで傷ついた騎士だ。ほとんどは重症で、中には腕や足を失った者すらいる。
こんな戦場で重症を負ったままでいれば、いずれ死に至るのは火を見るより明らかなのに。
「だ、大丈夫だ! 俺は元気だから、ヒールなんて必要ない!」
私の前で、頭部を血に染まった包帯でグルグル巻きにした騎士が叫んだ。
「だから! ヒールは、こいつにしてやってくれ!」
彼が指さしたのは、片足を失って逃げようにも逃げられない重症な騎士。二人とも、私が入ってくる寸前まで、息をするのも辛そうなくらいの様子だっただろうと思われる。
「てめぇ! 何を言っていやがる? さっきまで死にそうだって泣き喚いていただろう!」
「そういうお前も、これじゃ戦えないと悲嘆にくれていたくせに!」
瀕死だったはずの彼らのどこに、こんな風に必死で怒鳴り合う元気があったのか?
「俺はいいんだよ、侘しい独り身だから! てめぇは婚約者が待っているんだろう? ということで、ヒールはこいつにしてください!」
「あ! こいつ、俺を犠牲にして自分だけ逃げる気だな? 俺よりこいつが重症なんで、ヒールはこいつにお願いします!」
二人は、互いに相手にヒールをかけてくれと頼んできた。聞きようによっては、美しい譲り合いの精神と言って言えないこともないのかもしれない。
「ごちゃごちゃ五月蠅いわね! みんなまとめて――――エリアヒール!」
私は問答無用で『ヒール』の広範囲バージョン『エリアヒール』を唱えた。
眩いほどの光が部屋いっぱいに広がる。
途端、
「ぐぇぇぇぇっ!!!!!!」
「ぎぎゃぐぉぇぇぇぇっ!!」
「…………(ピクピクピク)」
大絶叫の嵐が起こった。
思わず耳を塞いでしまうほどの大声だ。
そして――――光を浴びた騎士たちは、すべてきれいに治癒されていた。足を失っていた騎士だって、五体満足になっている。
まあ、痛みに悶絶してもいるけれど。
やがて悲鳴が途絶え、シンと静まりかえった部屋の中に、パンパンという手を叩く音が響いた。
「お見事です。さすが“聖女”さま。今日も実に素晴らしいヒールでしたね」
ほとんどの騎士が項垂れるか泣き伏しているかしている中に、多少顔色を悪くしながらも普通に立って歩み寄ってきた騎士が、私に頭を下げる。
「マディール、あなたまたいたの?」
私は思わず呆れてしまう。
「はい。私にとって、聖女さまのヒールは、この上ない“ご褒美”ですから。あなたさまがおいでになると聞いたので、最前線で戦って、ちゃんと負傷しましたよ」
マディールは、見惚れるほどのイケメン顔に恍惚とした表情を浮かべた。
「……ヘンタイ」
「マゾヒストと、言ってください」
それは、どう違うのだろう?
私――――異世界に“聖女”として召喚された女子大生、安西静香は、眉間に深いしわを寄せた。
私が、異世界召喚に遭ってしまったのは、今から一年ほど前だ。普通に歩いていたのに、突然足下が光って地面に吸いこまれ異世界に、という基本に忠実なパターンの召喚だった。
その私の前に最初に跪いたのが、マディールだ。フルネームは、マディール・ゾムド。銀髪碧眼、国一番の騎士で王族の血もひくイケメンハイスペック騎士は、この国の王の御前に私を案内した。そして、王直々に“聖女”として魔王討伐の旅に同行してほしいと懇願されたのだ
そこからのやり取りを、あえて説明する必要はないだろう。
私は、二つ返事で王の依頼を引き受けた。だって私はオタクだし、異世界召喚は憧れで、ご褒美となっても忌避するものではなかったからだ。
あ、もちろん魔王討伐の暁には、元いた世界の元いた場所と時間軸に帰してもらえることはしっかり確認済みである。
あまり信じてもらえないのだが、こう見えて私は案外しっかり者なのだ。
その後、村人出身の細マッチョイケメン勇者と、ネガティブ根暗メガネ男子魔法使いに引き合わされ、マディールと私を含めた四人で騎士の一個師団を率い、魔王討伐の旅に出ることになった。
意気揚々と旅立った“私”は、その直後から大きな問題にぶつかっている。
その問題とは、他でもない聖女である私の使う聖魔法『ヒール』のことだ。
既にお察しのことだろう。なんと、私の『ヒール』は、とんでもない“激痛”を伴うものだったのだ。悪い箇所を、麻酔なしで削除して強引に再生するのであれば、その痛みも納得だと思う。
「ハッ! あ、うわぁっ!」
「もう嫌だ! 俺は騎士なんて辞めてやる!」
「こんな痛み、これ以上我慢できるものか!」
「逃げろぉぉっ!」
私がマディールと見つめ合っている間に、あまりの痛みに動けなかった騎士たちが復活し、一目散に逃げ出していった。なんせ、彼らは『ヒール』で健康になってしまったのだ。その逃げ足はとんでもなく速い。
脱兎のごとく走る彼らの姿には、騎士の矜持も何もなく、ただただ恐怖あるのみだ。
情けないと笑うことなかれ、私が彼らの立場なら間違いなく同じ行動を取る自信がある。それほど私の『ヒール』は、痛かった。ちょっとお試し気分で、自分の虫歯に『ヒール』をかけてしまい、死ぬほど後悔した私には、よくわかる。
麻酔なしで歯をガリガリと削られて、神経むき出し状態で無理やり治療されてみてくれたら、きっと誰でもわかってくれることだろう。
しかもその痛みは一瞬に襲いかかってくるのだ。なおかつ同時に治癒されてしまうため、気絶することすら許されない。
ジクジクとずっと続く痛みと、一瞬で終わるけれど死んだ方がマシだと思ってしまうほどの痛み。
一瞬だから、そっちがいいと思ってしまう人もいるかもしれないが、私はここで声を大にして訴えたい!
止めろ!
悪いことは言わないから止めておけ!
本当に死にたくなるから。
ともかく、私は、もう二度と自分に『ヒール』は、かけない! と、そのとき口の中から出てきたインプラントに誓った。
「おやおや、困ったものですね。また騎士が減ってしまいそうです。どうして、みんなあの程度の“痛み”を我慢できないのでしょうね?」
心底不思議そうなマディールの疑問の声は聞こえなかったことにする。
彼の感想は、彼が痛いのが“大好き”なヘンタイだから言えることだからだ。喜々として私の『ヒール』を受けるなんてことができるヘンタイは、マディールだけだった。
「これでは、魔王城に着く頃には、みんないなくなってしまいそうですね?」
「さすがに、少しは残るでしょう?」
ガランとした部屋を見ながら、私とマディールは会話する。
残念なことにマディールの危惧は、一ヶ月後に的中した。魔王軍との連戦の中で、何度も『ヒール』で癒やされ続けた自軍の騎士たちが、痛みに耐えきれず全員逃亡してしまったのだ。
そして、逃亡者の中には――――“勇者”も入っていた。
勇者が置き去りにした聖剣を前に、私とマディール、そしてもうひとり逃亡せずに残ったネガティブ根暗メガネ男子魔法使いのツバルツ・ヨガリは、途方に暮れる。
「いったいどうして勇者まで?」
ツバルツの質問に、私はちょっと口ごもった。
「……えっと。勇者は昨晩ちょっと特殊な魔物と戦って……それで『ヒール』をかけたら、今までの比じゃないくらいとんでもなく痛かったみたいで……」
マディールは、碧の目をキラリと輝かせた。
「それは、いったいどんな魔物だったんですか?」
食いつき気味に聞いてくるのは、きっと“とんでもない痛み”に期待しているからだろう。
一方、ツバルツは露骨に嫌そうな顔をした。彼には、痛覚耐性というスキルがあって、よほどの痛みにも耐えられる。しかし『耐えられる=痛くない』という方程式は成り立たないのだそうで、痛いものは痛いらしい。
ただ、彼はその痛みに耐えられるだけなのだ。
考えてみたら、ものすごく残酷なスキルなのではないだろうか?
「……淫魔よ」
私は、ツバルツに同情しつつ、重い口を開いた。
「は?」
マディールとツバルツの口がポカンと開く。
「だ、か、ら、淫魔よ! まあ、淫魔自体は返り討ちにしたみたいなんだけど、その“過程”で、ちょっと口には出せない場所に、傷を負ったか病気を貰うかしてしまったみたいで……『ヒール』をかけたら、もんどり打ってのたうち回って、泣きながら逃げていったわ」
マディールとツバルツは、ゴクリと唾を呑みこんだ。
二人そろってアソコを守るように手で隠すのは止めてほしい。
私だってそんなところにヒールなんて、かけたくなかったのである。
「そ、それは、仕方ないかもしれませんね」
「あ、ああ。さすがの私も、それは――新たな扉を開いてしまいそうで怖い」
同情たっぷりなツバルツの言葉に、マディールが頷く。
ともあれ、困った事態なのは間違いないだろう。
「騎士はともかく、勇者のいない魔王討伐なんて考えられません」
「ここは、一度城に帰って、勇者を説得するか、もう一度選定するかしないといけないでしょうね」
マディールとツバルツは、額をつき合わせて話し合う。
どうやら、いったん王城に引き返すという判断になりそうだ。
しかし、それはとんでもないことだった。異世界召喚されて、既に一年。ここまできたのに、振り出しに戻るなんて、許容できるはずがない!
しかも、勇者を説得もしくはチェンジして再び旅立ったとしても、同じことが起こらない確約はどこにもないのだ。
それでは魔王討伐がいつ終わるかわからないではないか!
私が地球に帰る際には、召喚された瞬間に戻してくれることになっているのだが、いくら時は戻っても、私の肉体年齢を戻せない。一、二年ならまだしも、三年、五年、と重ねてしまった年齢を、どうやって誤魔化せばいい?
若作りには限度がある。ある日、突然老けた私を周囲の人間はどう見ることか?
それくらいなら。
「そんな必要はないわ。このまま魔王討伐の旅を続けます!」
私は、大きな声で宣言した。
マディールとツバルツは、驚き慌てる。
「それは無謀です。私もヨガリ殿も、攻撃力は高い方ですが、それでも勇者には及びません。勇者なしで魔王軍を破り、ましてや魔王を倒すことなどできるはずがありませんからね」
マディールの主張に、ツバルツがブンブンと首を縦に振って同意する。
私は、腰に両手を当てた。プクッと頬を膨らませて、二人を睨む。
「なにを言っているの? 勇者なんかよりよほど高い攻撃力を持った人物が目の前にいるじゃない? 私は、たった一人で、騎士の精鋭を集めた一個師団と勇者まで退却させた恐怖の魔法『ヒール』の使い手なのよ! 私がいれば魔王軍も魔王も恐れるに足らないわ!」
ドン! と胸を叩いて、私は言い放った。
次の瞬間ゴホゴホとむせてしまったのは、ご愛敬である。
その後、私は宣言どおりの快進撃を続けた。私を助けてくれたのは、なにより魔物の習性と性格だ。弱肉強食で、強さこそ正義。戦って得た傷は己の勲章と誇りこそすれ負い目に感じる者など皆無の魔物たちは、一言で言うと“満身創痍”だったのだ。
つまり『ヒール』がとんでもなくよく効くのである。
「エリアヒール!」
「クギャァァァッ!」
「グォォォッ! ……お、俺の、失った右目が――――見える!」
「ギゲェェェ! 角が! 欠けた角が元通りに!」
「背中の古傷が!」
「腰痛が!」
「関節痛が!」
「白内障が!」
……うん。魔物は長命種。皆さんいろいろお体のトラブルを抱えこんでいたようだ。
そのすべてを治癒されてしまった魔物たちは、とんでもない痛みに体を蹲らせることになった。
「今よ! ツバルツ!」
「ファイアーダンス!」
私の声に合わせ、魔物の軍団が痛みでまだ動けないうちに、ツバルツが炎系の全体攻撃魔法を放った。燃えさかる炎が、健康になったばかりの魔物たちに襲いかかる。
「くっ! ……しかし、この程度の炎では、我らの動きは止められんぞ!」
「こんな軽い火傷、怪我のうちに入らん!」
体を炙る炎もなんのその。魔物たちはすっくと立ち上がる。
――――そう、そのままならば、きっと火傷は、それほど痛くはなかったのだろう。魔物の誰一人、怯むことすらなかったに違いない。
しかし、
「エリアヒール!」
問答無用で、私は再び『エリアヒール』を放った。
途端、
「グゲェッ!!」
「ギャァッッッッ~!!」
たった今立ち上がったばかりの魔物たちは、白目をむいて、倒れ伏す。
なにせ、私の『ヒール』は、悪いところをすべて削除して再生するもの。つまり、この場合、彼らは火傷した皮膚を生きたまま剥がれて無理やり再生させられたと同じ目に遭ったのだ――――と思う。
その痛みは想像を絶したようだ。凶悪極まりない魔物たちが、全員涙目で叫んでいる。
しかし、同情は禁物だ。なんといっても相手は魔物。彼らの耐久力と根性は、人間の騎士よりずっと強いはず。
「ツバルツ!」
「……ファイアーダンス!」
「エリアヒール!」
「……グッ、グッ、グッ」
「ウォォォ」
二度目は立ち上がれなかった魔物たちに対し、私は情け容赦なく三度目の攻撃命令を発した。
「ツバルツ!」
「……ファイアーダンス!」
「エリアヒール!」
「ギェェッ!!」
ここまでが、ワンセット。
私は、この後、同じことを五セットほど繰り返した。トータル八セット。
結果、
「うわぁぁぁ~! もう、嫌だ!」
「鬼だ! 悪魔だ! 鬼畜がいる!!」
「た、助けてくれぇっ!」
魔物の軍団は、全員這々の体で泣きながら逃げ出した。
私とツバルツ、そしてマディールの三人だけとなった戦場で、私はホッと息を吐く。
「……何故だろう。圧倒的な勝利を得たのに、罪悪感が半端ない」
ツバルツは、自分の両手を見つめ項垂れていた。
そんな彼の肩を、マディールがポンと叩く。
「次は、私も攻撃しよう」
「ゾムド卿」
男二人でいい雰囲気を作っているが、マディールが攻撃に参加したいのは、自分も『ヒール』の巻き添えになりたいからに決まっている。
「――――行くわよ、魔王城!」
私の快進撃を阻む者は、誰もいなかった。
そして、ついに私は魔王城にやってきた。本来ならば、ここで魔王四天王みたいな準ラスボス級の魔物と戦うのだろうが……私たちの目の前にあるのは、ガランとしたもぬけの殻状態な城内だ。
敵は、みんな逃げ出してしまったのである。
「ここまでの私たちの戦いを見れば、仕方のないことでしょう」
「ああ、己が所業とはいえ、あの戦いは、あまりに無慈悲すぎる」
「仕方ないでしょう? 情けなんてかけられるだけの余裕がなかったんだもの」
敵は人間よりも何倍も強い魔物なのだ。一瞬の隙を見せれば殺されてしまうような相手に対し、無慈悲も何もあったもんじゃない。
なにより、私は魔物を殺してもいなければ傷つけてもいない。
犠牲者ゼロなのに無慈悲とか、異世界は世知辛い。
「それより、いよいよ魔王との戦いよ。覚悟はいいわね?」
私は、自分より頭一つ分以上背の高い二人を見上げた。
ツバルツは、ギュッと唇を噛み、静かに頭を下げる。
マディールは、私の前にスッと跪いた。
「聖女さまの御心のままに。私は、あなたの盾となりましょう」
……正直、滅茶苦茶カッコいい。しかし、彼の内心が、盾役になってボコボコにやられたいという残念なものだということを知る私に、感動などできるはずもない。
むしろそのセリフで、不安がこみ上げてきた。
わざと魔王にやられたりはしないとは、思うのだけど……。
「魔王に勝ったら、好きなだけヒールをかけてあげるから、全力で頑張ってね」
そうお願いすれば、マディールはキラキラと瞳を輝かせた。
「全身全霊で挑みます!」
……意欲が出たようで何よりである。
「……帰りたい」
反対にツバルツのテンションは、ズン! と下がってしまった。
まあ、ここまできて帰るなんて選択肢はありえないから、頑張ってもらう以外ない。
私たちには、前進あるのみ、なのである。
最後にもう一度念入りな打ち合せをしてから、魔王の玉座を目指した。
そうして、ようやく魔王と対峙する。
「よくぞ、ここまでやってきた」
玉座から立ち上がった魔王は、身の丈三メートルはあろうかという美丈夫。真紅の長髪の両脇に立派な巻き角が付いていて、なんとなくヒツジを思い出してしまう。その上、魔王のマントの下からは、恐竜みたいに立派な尻尾がのぞいていた。
「聖女よ、そなたは我が眷属を散々に痛めつけてくれたようだな。しかし、それもここまでだ。魔族の頂点に立つ我は完全無欠。傷も病も我が足下にも近寄れぬ。そなたの『ヒール』など、恐れるに足らぬわ!」
魔王はそう言い放つと呵々と笑った。
自分で自分を完全無欠とか……相当のナルシストのようである。この世界には、マゾとか根暗とかナルシストとか、そんな男性しかいないのだろうか?
私が残念に思ったことが顔に出たのだろう。魔王はムッとした顔になる。
「なぜ、恐怖に震えない?」
「怖いと思う必要がないからです」
質問に答えただけなのに、魔王はますます怒りだす。
「ナルシストの上に短気だとか――――重症ね」
私の言葉に、魔王は、ほんの一瞬ビクッとした。
「……重症だと?」
「ええ。そうよ。あなたは病が肉体的なものだけだと思っているの? 世の中には精神的な病だってあるのよ」
魔王は、本気で驚いたようだった。
底の見えない闇色の瞳がゆらいで、微かな怯えを宿す。
「そのような戯れ言に惑わされるものか! 我の精神が病んでいるはずがない!」
「病気の人間ほど、己の病を認めないものです。ヒールをかけてみれば、すぐわかります」
「ならばやってみるがいい! 我は負けん!」
退くに退けなくなったのだろう。尻尾をビシッと床に叩きつけ、魔王は仁王立ちとなる。
ものすごい迫力だったが、私とてここで退くわけにはいかなかった。
「ヒール!」
大きな声で唱える。
眩いほどの光が魔王を包みこみ、魔王はその長身を強ばらせる。
――――しかし。
「…………痛くない! 痛くなどないぞ!!」
魔王は、そう叫んだ。
――――まあ、そうだろうなとは、思った。『ヒール』が精神的な病に効くのなら、とうの昔にマディールのマゾは治っているはずだからだ。痛いのが好きだなんて、生物の生存本能を揺るがす重大な病に決まっている。それを治せない時点で、『ヒール』の有効範囲が肉体的なものに限られるのは、わかっていた。
それでも、こんな茶番を演じた目的は、ただひとつ。
魔王に“隙”を生じさせるためだ。
「ハハハ! 聖女、敗れたり! やはり、勝つのは我だ!」
上機嫌で高笑いする魔王の背後には、いつの間にかマディールが立っている。
「今よ!」
私の合図でマディールは、手にしていた“聖剣”を、魔王の尻尾にブスリ! と突き立てた。
「グッ! なっ?」
「ヒール!」
すかさず私は高らかに叫ぶ。
「グ、グェッ! ギャァォォッ!」
魔王は、その場で悲鳴を上げて飛びはねた。
うん、さすが聖剣、魔王を傷つけられる唯一の武器である。勇者が聖剣を置いていってくれて、よかった。本来、聖剣は勇者の手にあってこそ、その実力を遺憾なく発揮する武器だ。勇者以外の者では、聖剣の威力の十分の一も出せないのだという。
しかし、現在私が聖剣に求めているのは、魔王への致命傷ではなく、ほんのちょっぴりのかすり傷。それくらいなら、勇者ならぬマディールでも十分事足りた。
ここまできたら、後は単純なルーチンワーク。
「マディール!」
ブスッ!
「ヒール」
「グギャォォガゴェィェェッ!!」
……回数は数えなかった。時間は、たぶん一時間はかからなかったと思う。
聖女の神力が、無尽蔵でよかった。
よせばいいのに最後まで抵抗したために、魔王は精神的にボロボロになった。
その魔王に無理やりペンを持たせて、私は魔法誓約書を書かせる。内容は、今後二度と人間の国に侵攻しないという約束と、今までの戦いの損害賠償。ここに魔王自身の血判を押させれば、無事任務は終了だ。
「さあ、さっさと聖剣で親指を傷つけて血判を押してちょうだい。グズグズしていたら、その傷をヒールで治すわよ?」
私の脅しは、効果覿面だ。
「わ、わかった! ヒールだけは止めてくれ!」
魔王は、素直に血判を押した。
こんな紙切れ一枚でと思うのだが、この世界での魔法誓約書の有効性は絶対なのだそうで、たとえ魔王といえども逆らえないのだとか。
それでも心配なので、釘を刺しておこう。
「万が一、誓約を破ったら、私が戻ってきて『ヒール』を連発しますからね」
魔王は、絶対誓いを守ると心の底から誓ってくれた。
なにはともあれ、これにて一件落着である!
その後、私は無事に人間の王国に帰還して地球に帰った。諸々合わせて二年近く異世界に行っていたのだが、地球ではノータイム。家族や友人に、ちょっと雰囲気変わったねと言われたが、その程度ですんでいる。
今まで通りの平々凡々な生活を、私は送っていた。
――――そう言いたいのは、山々なのだが!
「静香さま!」
少し離れた席から私の名を大声で呼ぶ、とんでもないイケメンの存在が、私の平穏な生活を見事にぶち壊していた。
ここは私の通う大学のカフェテラスで、全力で尻尾を振る忠犬さながらに手を振っているのはマディールだ。
別に待ち合わせしていたとか、そういうわけでは全くない。
「マディール、私は今日ここにこられるかどうか、わからないって言っていたでしょう?」
「はい。でもお会いできる可能性があるのなら、私は何時間でも待てますから!」
それは、ひょっとして放置プレイとかいうやつだろうか?
相変わらずマゾなマディールである。
しかし、周囲はそんなことは知らないのだ。こんな平凡女が、なにイケメンに待ちぼうけくらわせているんだと、嫉妬とやっかみ混じりの視線が、私にビシバシと突き刺さる。
早々にランチを諦めた私は、マディールを連れてその場を後にした。
「今度は、なんの用なの?」
「北の峡谷にドラゴンが出まして、ぜひ静香さまのお力をお借りしたいと」
「ドラゴンの一頭や二頭、魔王に倒させればいいでしょう?」
「それが、古代神竜と呼ばれる特殊個体で、魔王ひとりでは難しいそうです」
「ほんっと、使えないわね。あの魔王!」
私は思わず舌打ちした。魔王なんて呼ばれているくせに、ドラゴンくらい倒せなくてどうするのか?
「私はもうお役御免になったはずでしょう? いったいいつまで働かせるつもりなの?」
ギロリとマディールを睨みつけた。
この世のものとも思えない超絶イケメンは、睨まれたのが嬉しいのか、うっとりとして頬を染める。
至極簡単に異世界からの帰還を果たした私だが、ひとつ誤算があった。簡単に帰れるということは、それだけ行き来が容易いということを失念していたのである。
もう会えないと思っていたマディールと私が再会したのはその翌日。
以来、なにかと言っては、私は異世界に喚ばれている。
それがどれくらい頻繁かと問われたら、いつも私を喚びにくるマディールが、私の家族と顔見知りになり、三回に一回は夕飯を食べていくくらい。
「たしか、前回はフェニックスだったわよね? どうしてそんなに面倒な魔物にばかり襲われるの?」
「さあ? 異世界だからでしょうか?」
そんな理由で、度々喚びつけられてはたまらない。
本当は全力でお断りしたいのだが、そうするとマディールが、私の前で人目も憚らずホロホロと泣くのだ。しかも、私が「うん」と言うまで、延々と。
超絶イケメンを泣かす平凡女に世間の目は冷たい。しかも、脅して諦めさせようとしても、マディールは唯一私の『ヒール』を喜んでしまうマゾのため、脅しがご褒美になってしまう。
結果、私は嫌々ながら、異世界で勇者の代役を続けていた。
「ヒール!」
今日も異世界に、私の呪文が響く。
「グギャギャァッ!」
もっと大きな悲鳴も、元気よく響き渡った。
健康になったんだから、元気のいいのは当然だ。
私の異世界生活は、当分続きそうだった。
『ヒール』が滅茶苦茶痛かったので、聖女をやめて勇者になりました 九重 @935
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