第32話
龍騎兵の隊長は私たちを連れて、炎の帝王が立っていた辺りへと上がった。
その頭上で永遠に燃え続けることになっていた火はもう、ない。
いつの間にか消えた帝王が潜り込んだ抜け穴は、それが焚かれていた高い献火台の裏にあった。
モハレジュが感嘆の息をつく。
「よく知ってるね。私も見たことないのに」
それは、ハーレムの女だったことを自ら白状しているに等しい。
隊長はちょっと驚いた顔をしたが、それがもはや過去のことになっていることを察したのか、微かに笑った。
「抜け道を知っておかんと、守ることもできんからな」
追跡する側に回ったのに、そう言ってわざわざ私のほうを振り向いたのは不思議だった。
ぼんやりと光る長い螺旋階段を降りると、緩やかな下り勾配の、広く長い、廊下が続いている。
何に照らされているのか、太陽の下のように明るい。
炎の帝王はかなり遠くへ逃げたと思っていたのだが、まだ、その姿は遠くに捉えることができた。
アッサラーが皮肉に笑った。
「あの長いマントが邪魔だったのだろう」
そこに刺繍されているのは、アッサラーと同じ、太陽に孔雀をあしらう炎の神の紋章だ。
すでに帝王を異端者と見なしている修行僧としては、まさに天罰といったところだろう。
だが、土砂降りの中で戦った身体で、そう簡単に追いつける距離ではない。
龍騎兵の隊長がどういうつもりで反旗を翻したのかは聞く余裕もなかったが、少しでも早く追いすがって成敗したいところだろう。
だが、それは私の思い込みにすぎなかった。
後ろから飛び出してきた
「うかつに近づくな!」
脚だけは駿馬のように逞しい脚をした、華奢な身体の若者が凄まじい勢いで、炎の帝王の背中に追いすがる。
今にもその手が首筋を後ろから引っ掴もうとしたところで、長いマントが脱ぎ捨てられた。
それこそ鼻面から目隠しをされた馬のように、若者の足も鈍る。
隙をついて、炎の帝王はこけつまろびつ逃げ出した。
若者がマントをはねのけたときは、手を伸ばしたくらいではとても届かないくらいに間が開いている。
だが、さっきの俊足からすれば、物の数ではない。
今度はアッサラーが叫んだ。
「追うでない!」
そのときにはもう、遅かった。
若者の足は速かったのだが、それが災いしたのだ。
あっというまに追いついたところで、廊下を真っ白な光が包んだ。
それが消えたあとも、しばらくは目の前がぼんやりしていた。
やがて物がはっきり見えるようになった頃には、炎の帝王の姿はどこにもなかった。
ただ、若者をアッサラーが助け起こしているばかりだ。
後に続く
隠し扉でもあるのではないかと壁を探りながら、尋ねてみる。
「さっきのは?」
あの光を浴びた若者には息があったが、答えることはできないようだった。
代わりに答えたのは、アッサラーだ。
「あの男が、マントの下に着ていた服の隠しから刀の柄のようなものを押し当てたのだ」
そういえば、幼い頃、刀鍛冶の父が教えてくれたことがある。
昔、さっきのような大雨が当たり前に降っていた頃、高い木や塔に、こんな光がよく降ってきたと。
雷とかいうらしい。
そんなものには、伝えられた刀鍛冶の技は役に立たない。
隠し扉も見つけられはしないのだ。
せめて、巧妙な仕掛け罠の技があればと思う。
それは、龍騎兵の隊長も同じことだった。
「どこへ逃げた!」
怒鳴りながら、部下たちと壁を叩き続ける。
私は耳を澄ましてみた。
打った刀を水で冷やすときの音で出来栄えを量るだけの耳は父に養われている。
だが、壁の向こうに変わった音が聞こえるわけでもなかった。
龍騎兵たちの手に血が滲みはじめる
そこで、モハレジュがふと気付いたようにつぶやいた。
「あたしも聞いたことがある。神様から授かった力だって言ってた……飛刀を手に入れろって言われたとき」
名前を言わないのは、炎の帝王のことを思い出したくないからなのだろう。
華奢な指で壁を撫でては、軽く叩いて音を確かめる。
そのうち、壁に耳を当てはじめた。
ついてきた山猫頭は、そちらには背を向けた。
「確かにいい刀だがな」
そう言いながら、もと来た廊下を眺めやるのは追撃を警戒しているからだ。
同じく狼頭もうなずきながら、遠くを見やる。
「何でわざわざ欲しがるのか、そんなものを」
やがて、廊下に数多の足音を響かせてやってくるものがあった。
飛刀に剣、十文字槍に偃月刀を手に、私たちも振り向いて身構える。
だが、目の前にずらりと並んでいるのは、追っ手の群れではなかった。
勇気を振り絞ってかけつけたらしい市民たちは、いかにも持ち慣れない武器を手に、そわそわと所在なく立ち尽くしていた。
さらに、遅れてのこのこやってきた者がある。
「ああ、やっと待ってくれた。どうしようかと思った、こんなところに置いていかれたら」
厳めしい角の割には鈍重な亀の甲羅……スラハヴァーだ。
一刻も早く炎の帝王を捕えて、これまでの罪を償わせようというところに現れて言うことではない。
だが、誰ひとりとして彼に悪態をついたり、冷ややかな眼差しを浴びせたりする余裕のある者はなかった。
他の
「お前らにいいところを持っていかれちまうからな」
市民たちの中にも、軽口を叩く者がいる。
「まあ見てろ、安全なところで」
すると口々に、皮肉と嫌味の応酬が始まった。
「そうするさ、お前らは嫌いだがな」
「そいつはお互いさまだ」
「鉄砲つきつけられて脅されるのはごめんだ」
「そいつばかりは俺もだ」
そのうちに、モハレジュは隠し扉を見つけていた。
「開いたよ」
扉が開くと、私は武器を手にしたまま、中に飛び込んだ。
ぼんやりと明るい通路に、後に続く者たちの足音が響く。
足元は硬い石で、やはり緩い勾配になっていた。
だが、かなり狭い。
これでは、飛刀を振るうのが精一杯だ。
私は、目の前に現れる者がいないか警戒しながら、後ろにいるのが誰か確かめもしないで告げた。
「ついて来ないほうがいい」
山猫頭が、自信たっぷりに鼻で笑った。
「今さら水臭い」
すると、その後ろにいたらしいモハレジュが強引に割り込んできた。
「ダメだって言ってもついていくよ」
アッサラーの声も、さらに遠くから聞こえた。
「あの力の源をつきとめねば」
さっき見た閃光のことを言っているのだろう。
異端者があれほどの強大な力を手にしていることが許せないのだ。
すでにテニーンが龍となって地上から解放された今、私もまた、身体の中から湧き上がる不思議な怒りを感じていた。
その怒りも、スラハヴァーの素っ頓狂な大声で紛れる。
「一緒に行っていいかな」
その手前にいるらしい狼頭が、面倒臭そうに答えた。
「そこから動けるんならな」
どうやら、角と亀の甲羅が隠し通路の入り口に引っ掛かっているらしい。
さっき哀願されたこともあって、置いていくのも気の毒だと思ったが、どうすることもできなかった。
通路をぼんやりと浮かび上がらせる光の中、剣を手にした軽装の兵士が現れたからだ。
私は再び、振り向きもせずに言った。
「戻れ。いずれにせよ一対一だ」
背中にぴったりと身体を寄せるようにして、モハレジュが不満げに尋ねた。
「どうやって?」
その後ろから、山猫頭が非難の声を上げる。
「あいつのせいだ」
隠し扉のあった辺りから、困り果てたようなスラハヴァーの声が聞こえる。
「俺?」
狼頭が再びぼやいた。
「言わんこっちゃない」
放っておけ、と狗頭人は微かにつぶやいた。
飛刀を構えると、兵士は低く屈みこんだ。
その背後には、銃を構えた別の兵士がいる。
だが、そこでモハレジュが叫んだ。
「撃てやしない! 弾が跳ねるからね」
そこで跳ね起きた兵士の剣を、柄元から叩き斬る。
身体をすくめたところで、後ろにいる兵士の銃身を斬り落とした。
それでも、危機は去らなかった。
まだ、外の通路にいるらしい隊長の声が聞こえる。
「挟まれた! 気をつけろ!」
山猫頭が大声で答えた。
「心配ねえ!」
狼頭が、咆えるように続ける。
「こいつがいる!」
スラハヴァーが、戸惑いながら応じた。
「……俺?」
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