— 3 —
状況を、まずは整理しよう。
錆びれた駅の改札の前。
剥がれた広告が放った、セピア色の彩度。冷えた埃の匂いが、辺りには漂っている。
眼鏡の裏には、黒い脂が付いている。
瞼から飛び散った、皮脂の汚れ。黒ずんだ涙の油分は、こびり付いた
不完全燃焼。
どうやら、鉄の花束が降りてきたらしい。
脳裏に染み込んだ、由紀恵さんの恍惚とした表情……。
腕が、鉛のように軋んでいる。
気分が、あまり良くはない。沸き立つ衝動に乗っ取られて、疲れ切った後の身体。
頭は、凄くボーっとして。ズキズキとした痛みが走っている。指に溜まった痛みは、何時間も筆を握った後のようで。
描いた光景が、微かに目の中に残っている。
バカのように踊って、歩き続けて……。仕舞いには、微睡んでしまって。すっかりと、瞳を閉じてしまった。
結末へと向かう筈だった、物語の道筋。
夢中になって身体に染み込ませた言葉は、結局、その正体を掴む事は出来ず。また、脳裏に到来した言葉の空白も、その姿を思い出す事が出来ない。
ただ、虫に嚙まれた跡だけが残っている。
古い本を食べる、一匹の小さな
記憶が朧げなのに、”一匹”というのも可笑しな話だが。細長い銀色の昆虫は、確かに。私の肌を滑らかに蝕んでいった。
齧り取られた皮膚の、微かな紋様。
ミミズのように曲がりくねった跡は、シニカルで無意味な文字を描いて。薄いピンク色の痕跡となって、表面に沈み込んでいる。
静かに、薄皮の中を這うように。
私の腕の表面を、ほんのりと削るように。狭間の駅の住人は、私という存在を食べてしまった。天井に吊るされて、古びてしまった駅名。
ああ。なんて、無様なのだろう。
何も、読み取る事が出来ない。時間が経って、分からなくなった自分の居場所。気配が漂う薄靄の中では、名前すらも忘れてしまって。ただ、足が勝手に向かっている。
改札の向こう側からやって来る、豊かな香り。
甘くて暖かな林檎の匂いが、身体の中。鼻の奥をするりと通って、お腹をくすぐっている。
「……生ゴミのように。」
懐かしい、紙川様の風味。
身を委ねていれば、全てが上手くいって。贈り物を、受け取れるような気がしてた。
「……生ゴミのように、私は捨てられて。」
紙川様からの贈り物。眩しくて、花束のように美しくて。とても、綺麗な台詞。
「……花束のように、愛でられて。」
泡に変わった空白は、虹色のような色彩で。弾け飛んでゆく。
「……指先に止まった、この蝶のように。」
薄闇に花束、指先で枯れ果てた薔薇。他人から譲り受けた視界は、鮮明で。透明なレンズ。
「……
紙川様の内側のように、渦を巻いて。形を変えてゆく言葉の連鎖。脳裏に薄緑、目の中に映った落陽の曖昧さ。
「……丁寧に、足先をすり潰されて。」
光は、青白く消え去って。喉元に染み込んでいる。勝手に吐き捨てていた、あの世への切符。
「……売られて、しまったの。」
潔白な私の歌声は、既に出口を抜けていて。私の身体はゆっくりと運ばれてゆく。花束に釣られてしまった、幼い虫のような心。
「——だから……。」
腕の中は、がらんどう……。
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