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生前、閉野由紀恵しずのゆきえさんは、はしたない物書きとして街中に知れ渡っていた。

みずぼらしい身なりに、白い厚化粧。ひび割れた丸眼鏡を掛けて、あの街の公園に出没していた。

一目で分かる程、珍妙だったのだ。

私が見かけたのは、ベンチを机代わりにして紙を置き、錆びた万年筆で何かを書き殴っている姿。その様子は、薄ら寒く感じる程に気色が悪く、哀れとすら思った。頭を搔きむしりながら、くしゃくしゃくしゃと叫び続ける、痩せこけた女性の衰容すいよう。半紙か何かに書かれた筆跡は、汚くて、うにょうにょと蛇が群がっているようにも見えた。

それでも、不思議と目が離せなかったのだ。

ぴったりと。両手を静かに合わせていた。全ての指先をくっつけて、聞いたこともないような言葉を、ゆっくりと吐き出したのである。筆を取り直した瞬間に見せた、あの深遠な眼差し。緩慢な動作には一切の淀みがなく、ただひたすらに眼下の紙面と向き合っていた。

時間が、なにか厳かなもののように感じられたのだ。

周りの雑音、そよめきを置き去りに。その時だけは、あらゆる音が止んでいた。皮膚を流れる血液のせせらぎも、心臓が発した微かな鼓動も。はっきりと感じ取れたのである。

きっと、あの人は手紙を書いていたのだろう。

理由は分からないが、確信に近い気持ちがある。張り詰めた声の迫力に、つらつらと運ばれてゆく筆の動き。天を仰ぎ見るような所作は、どこか、遠くの誰かに向けられていたように思える。

大空の、遥か彼方。

あるいは、天国なのかもしれない。

靄の掛かったこの夜空からは想像がしにくいが、この空の向こうにはあの人の思い人が存在していて、その人に何かを届けようとしていたのではないか。そんな事を、考えてしまう。

由紀恵さんとは、そういう人間であった。

倒錯的な、魅力と言うのだろうか。薄汚くて、明らかに近寄り難い筈なのに、息を呑むほど清らかだと、確かに感じたのである。既に、遥か昔に出会っていたかのように。その雰囲気に対して、私は馴染みを覚えてしまって。声を、掛けてしまった。

「……お祈りの時間、なのでしょうか?」

孤独だったから、なのかもしれない。

当時の私は、独りぼっちで。私の元を去った紙川様に対して、寂しさを感じていた。

——ええ、その通りよ!

だからこそ、余計にシンパシーを感じたのだろう。半狂乱だった狂人に、街の人々からハブられた存在感。

——あたくし、お祈りをしていた所なの!

由紀恵さんの置かれた状況は、虐められていたわたしと大体同じで。至る所に痣があったのを、覚えている。

——今日は、特に絶好調なのよ!

頬に付いた青痣に、乾いた泥で汚れた顔。無邪気に笑った口の中には、歯が全く生えていなくて。言葉を話すことが、碌に出来てなかった。

——ねえ、素敵なそこのあなた。

だからこそ。私は、よく読み取れたのだ。話そうとした言葉のニュアンス。吐かれた声の色合いが、かえって明確に。

——聞いていて、くださる?

熱を、帯びていた。掛けていた眼鏡の視界の中で。弾けた空の波音が、

——はなしの、おはなし。

一本の、赤い髪の色。とても、静かであった。公園に植えられた森の雑音。湿気った言葉の繰り返しが。

——わたしのはなし。

木霊こだまのように。耳の中に届いて、羽虫の響きを残してゆく。くしゃくしゃの暗がり。

——はなはなしは、なし。

焦げた蛇が、手紙の中では……。

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