三十路ファッションデザイナーの恋煩い
音
第1話 love at first sight
お洒落で大人の雰囲気が漂う街、銀座。仕事の打ち合わせや展示会などで何度も訪れたことがある場所だが、駅からの道のりを歩く時は少し緊張してしまう。
専門学校を卒業後、就職したデザイン会社から独立して約2年。デザインした服が大型のコレクションに使われたり、ファッション誌で特集が組まれる機会も増えてきた。まとまった休みがとれない中で、時間を見つけては少しづつ趣味のバー巡りをすることにしている。
今向かっている店は後輩から『
店内はそれほど広くないが、暖かなオレンジ色の間接照明が灯り、ジャズピアノが流れる良い雰囲気の店だ。案内された席に座り、辺りを見渡す。平日ということもあって客は俺1人しかいない。この空間を独占している気がして、少し浮かれてしまう。
1杯目にジントニックを頼もうと前を向いた瞬間、目の前に居たバーテンダーの女性と目が合う。
「えっ……」
思わず声が漏れた。艶っぽい黒髪は後頭部でふんわりと纏められており、華奢な肩の上には小さな顔が乗っている。陶器のような白い肌。シュッとした切れ長の目は長いまつ毛に縁取られている。綺麗に通った鼻筋に、形の良い唇。クールな顔立ちだが、冷たい感じは少しもしない。
うわ、すげえ綺麗な人だな。仕事上、可愛いモデルさんや、お洒落なスタイリストさんと一緒になる機会は多いが、ここまでの美人とは会ったことがない。
俺があまりにも見すぎていたのだろう。「どうかされましたか?」と、心配そうな顔をされていた。しまった、早く注文しないと。
「あー、すみません。xyzをください」
何を言ってるんだ、俺の馬鹿。締めに頼もうと思っていたカクテルを初っ端に注文してしまった。急に美人が出てきて、気が動転しているのだろう。落ち着きを取り戻すために、さり気ない風を装って彼女に話しかけた。
「良い雰囲気のお店ですね。裏路地にこんな素敵な場所があるなんて、驚きました」
「ありがとうございます。駅から少し距離があるので、見つけてくださるお客様はあまりいらっしゃらないのです」
彼女はシェーカーを振りながら、笑顔で答えた。
「お待たせいたしました。xyzです」
滑らかな手つきで差し出されたそれは、鼻を近づけると柑橘系のすっきりとした香りがし、口をつけると、まろやかな甘味とさわやかな酸味がひろがる。……うま。今まで飲んだどのカクテルよりも美味しい。おそらく、今後どの店に行っても味わうことはできない気がする。ジュースのように飲めてしまいそうだが、実際度数は高いので一口飲んでグラスをカウンターに置いた。
「凄い美味しいです。このカクテル」
「お気に召して頂きましてありがとうございます」
すごく大人びているが、おそらく俺より年下だろう。話し方を少し崩してもいいかと考えていると、彼女の方から視線を感じた。
「失礼ですが、ファッションデザイナーの多賀颯汰様でしょうか?」
え、なんで、名前。俺は特集を組まれたり、インタビューを受ける機会はあっても、顔はそれほど露出している訳では無いのに。
「え、俺の事知ってるの?」
「はい。以前私が通っている大学で、多賀様が特別授業をされたのですが、覚えていらっしゃいますか」
そうだ、思い出した。先月、経営学を学ぶ大学2年生のために、大学から授業を依頼されたことがあったっけ。大勢の前で話をするのは随分と久しぶりで、上手くできたかどうか不安だったが、学生のみんなには思っていたよりも好評だったようだ。
それよりも大学2年生ということは、彼女は今20歳か。自分より7歳も年下とは驚いた。成人したばかりには見えないほど落ち着いて、物腰も柔らかい。彼女のことを、もっと知りたいと思った。
「うん。もちろん覚えてるよ。じゃあ、h大の学生さんか。名前はなんて言うの?」
「はい。
「ほんと?すげー緊張してたから良かった。……えーっとじゃあ、澪ちゃんでいい?」
そこからはかなり話が進んだ。彼女は大学でファッションビジネスを専攻していて、俺の手がけた服や掲載された雑誌もチェックしてくれているらしい。話が進むと同時に酒の勢いも増し、ウォッカ・ギブソン、マティーニと度が強い酒を続けて頼んでしまった。元々酒は強い方だし、チェイサーを飲んでいるからそれほど心配はいらないが、明日も午前中から仕事があるので悪酔いはできない。
「そろそろ終電が近いですが、お時間大丈夫でしょうか?」
俺の心を見透かしたかのように、彼女が尋ねてきた。え、もうこんな時間?楽しい時間が過ぎるのは早いとよく言われるが、今夜は本当にあっという間だ。明日は10時から交流がある会社の方との打ち合わせがある。そろそろ店を出なければ十分に睡眠時間を確保できない。
「ほんとだ、じゃあそろそろ帰るね。今日は長居しちゃって申し訳ないわ、楽しかった」
「いえ、私もかなり自分の話をしてしまったようで失礼しました。楽しんでいただけたのなら幸いです。……すみません。最後にひとつよろしいですか」
少し眉尻を下げながら彼女が尋ねてきた。
「授業の際に頂いた資料に多賀さんのメールアドレスが記載されていたのですが、ご迷惑でなければ質問等を送信しても大丈夫でしょうか」
そういえば、学生さんに配った資料の最後に、俺が仕事で使っているメールアドレスを載せていたとふと気がついた。話を聞きたい時や質問をしたい時に連絡できるよう載せたもので、時々何人かの学生さんからメールがくる。
「全然大丈夫だよ。あー、でもメールだとやりとりするのが大変だから、LINEの方が嬉しい、かな」
1ミリも下心が無いわけじゃない。数時間前に、初めて会ったばかりの彼女に確かに惹かれている自分がいる。だけど少し早急過ぎた気がする。やべ、タイミング間違えたかな。変な酔っぱらいだと思われてないといいけど。
「迷惑じゃなかったら、だけど」
柄にもなく声のボリュームが小さくなってしまう。彼女の反応を伺っていると、
「ぜひ、よろしくお願いします」
彼女は少し目尻を下げながら笑った。
9月の前半だが、外はまだまだ気温が高い。夜中だというのに、湿気を含んだ生暖かい風が体にまとわりついてくるので、どうしても足取りが重くなってしまう。こんなにゆっくり歩いていては終電に間に合わない。諦めて駅近くのコンビニの前にタクシーを呼ぼうと、アプリのアイコンをタップした。
さっきの店はなかなか味わいのある店だった。次はもっとシックな服装で行こうか、いや、話を聞く限り澪ちゃんはカジュアルめの方が好きそうだ、などと取り留めもなく考えてみるが、頭の中はなんだかふわふわしていて、意識がどこかにいってしまっているようだ。
あー、明日打ち合わせの前に資料に目を通しておかないと。いや日付変わってるし、もう今日か。それにしても澪ちゃんが作ったカクテル、美味かったな。
他のことを考えようとしても、さっきから頭の中に浮かんでくるのは彼女のことばかりで、
ああ、もう。
顔があつい。こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。その感情が何なのかはまだ認められてないが、朝になっても、酔いが覚めても、きっと嫌でも思い知らされてしまうのだろう。
「……やばいかも」
体の熱を少しでも冷まそうと、俺は駅に向かって足を進めた。
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