第11話 コーヒーの苦味

 初めてコーヒーが美味しいと思ったのは大学に入ってからの話だ。


 当初はそこまで飲み物に拘ることはなかったのだが、いつしか、兄の姿を見て「自分も大人になったら……」と思う時期も何回かあった。


 私が中学一年生の時。

 兄貴はいつも、学校帰りにコンビニでブラックコーヒーを買って、家で飲んでいたのは記憶に残っている。


 帰ったら実家のリビングでくつろぐことが彼の習慣化になっていたため、私も当時はその姿を見ても何とも思わなかった。


 いや、むしろ心底どうでも良いとすら感じてしまうのが普通だろう。


 だが、一つ気になったことは「何であんな苦い飲み物を毎日飲んでいるのだろう」と少々疑問に思うぐらいだ。


 それ以上でもそれ以下でもない。


 ただ単に、兄の生活リズムを観察していた私にとって、その景色を見るには退屈でしかなかったということ。


 言ってしまえば、その一言だけで済むはずだったのだ。


 正直、ブラックコーヒーばかり飲んでる人はあまり好印象を持たない。

 私の周りでも、男子生徒で見かけたことは何人かいるが、アレの何が美味しいのかよく分からなかった。


 しかしながら三年後。

 高校生になった私は、その苦さを美味しいと感じて飲んでいる人を……後々になって少しだけカッコいいと思ってしまった。


 なぜかは自分でもよく分からない。

 きっと、これも兄貴からの影響なのだろうと、無理やり解釈させられている自分自身が腹立たしいくらいに。


 だけど、その時の私はまだ飲みたい、と思えるような域までには達していなかった。


 幼少期から変わらず甘党の私にとっては、『観察するに至るが実行するに至らず』というモットーを掲げていたため、そこまで活発的に行動を起こす人間では無かったのだ。


 だからこそ、自分にとって「苦味」というものを味わうには、まだ少しだけ早かったのだろう。


「はあ……でも、ここまで来ると嫌になっちゃうわよね。ほんと」


 そして今。

 大学の友達と喫茶店でティータイムをしている私が口にしているのは、ブラックコーヒーである。


 残念なことに、その苦さを美味しいと感じてしまっている現実が待っていたのだ。

 数年前の私が今の自分の姿を見たら、きっと驚くことだろう。


 そのぐらい私の中で何かしらの変化があったということなのだから、そう感じてしまうのも可笑しくはない。

 いや、むしろこの状況を作り上げてしまっていること事態、異常なのかもしれないけど……。


「もー何よ優佳。そんなため息ついちゃってさー。何かショッキングな出来事でもあったの? ふふ、お姉さんに話してみなさいな」

「べ、別に。何も無いわよ。ただ単に苦いなーって思っただけだから」


 私の対面に座っているのは同じ学部の女友達。名前は長瀬新菜。

 彼女とは入学して間もない頃、講義で隣同士になってから話すようになって少しずつだが仲良くなっていった。


 たまにからかわれることも少々あるが……それでも大事な友達のうちの一人であることに変わりはない。


「ふーん? そっかそっかー。ウチはてっきりお兄ちゃんのことで頭一杯なのかなーって思ってたんだけど」

「は、はあ? ち、違うに決まってんでしょ。なに変なこと言ってくれちゃってんのよ新菜」


 思わず口の中に含んでいたものを吹き出しそうになったが、何とか抑えることが出来た……。


 も、もう。新菜ってば、たまにとんでもないこと言い出すんだから。

 せっかく今苦味を味わってる所なのに……これじゃあ全然分からなくなっちゃったじゃない。


「アハハっ! やっぱそうよねー。優佳が考え事してる時って、いつもお兄ちゃんのことだからなあ。羨ましいなぁー」

「ちょ、ちょっと。何勝手に勘違いしてるのよ! ち、違うんだからね!」

「はいはい。ブラコンおつおつー」

「に、新奈、後で覚えておきなさいよ……!」

「ひゃっはー、それは怖いなー。ふふ、まあでも、そーゆうところも可愛くて羨ましいんだけどね」

「最後の一言が余計よ!」


 はあ……なんか相手してると疲れてきた。

 でも、こんなに堂々と私に対してからかうことが出来るのは彼女くらいだろうか。


 新菜は私に比べて、何というかずっと大人っぽさがあるというか……なんかどこを取っても勝てる気がしないのよね。


 べ、別に私の方が胸が小さいわけじゃないけどっ。

 そこは勘違いしないでよね。


「にしても、兄妹って良いよねー。ウチは一人っ子だから、あんましそーゆうのに縁が無かったから」

「……新菜は憧れてるの?」

「んー。まあ、憧れてないといえば嘘になっちゃうから、答えはイエス……かなぁ」

「そ、そうなんだ。ふーん……なんか意外。あなたってそこまで執着するもの無さそなのに」

「にしし。ま、優佳の顔を見てると何だかさー。そう思っちゃうもの無理は無いって言うか……なんとなくだけど、自分にも兄貴が欲しいって感じる時ぐらいはあるのよねー」


 ストローでアイスティーを啜る彼女はニヤッと微笑みながら私の方に視線を向ける。


 まあでも、気持ちは分からなくもない。


 私からしたら、子供の時なんかはお菓子の取り合いで喧嘩ばっかりだったし。

 毎日顔を合わせるのも嫌な時期とか当然あるから、あまりそういう感情は抱かないけど……。


 でも、彼女にとってはそれが特別に思えるのだ。


 逆に言わせてしまえば、そう感じてしまうことの方が私にとっては羨ましいのかもしれない。

 もし私に兄貴がいなかったらと思うと……そんな世界線は残念ながら想像することは難しい。


 多分、新奈と逆の立場だったら、先ほどの彼女が言っていたことも理解することが出来たのだろう。


 兄妹が居ない人だけしか分からない感情があるように、兄妹が居る人達だけしか分からない感情もある。


 まあ、私は頼れる兄貴だったからまだ良い方ではあるのだけど。


「あ、そういえば優佳。確か来週、誕生日だったよね?」

「そ、そうだけど……急に何よ?」

「まあまあ、これ。さっきのお詫びと言っちゃあれなんだけどさ。日頃の感謝を込めてプレゼント持って来たんだ。ちょっと早いけど、おめでと!」

「え……? な、なによこれ。随分と箱が大きいけど……?」

「まーこれ。お酒だからねー。ふふ、しかも超高級品の。優佳も成人になるから飲める年になったってことで!」


 あと一週間でその年になるというのはあまり実感は湧かないものだが、改めて言われてみると、もうそこまで年数が経ったんだなと感じてしまう。


 今までの人生を振り返ると、良いことも悪いこともたくさん経験してきたなーって。


 そう思えるぐらいに、私は多分、今でも順風満帆な生活を送ることが出来ているのだろう。


「あ、ありがと……。お礼を言うのはちょっと照れくさいけど、こういうのって何気に嬉しいから」

「にしし。そうじゃろそうじゃろー。もっと我を存分に敬いたまえ。あと、大好きなお兄ちゃんと一緒に飲むんだぞ?」

「はあ……もう。何か抵抗するのも疲れてきたからそうすることにしておく」

「もーつれないなー優佳は。ふふっ」

「新菜がいつまで経っても反省しないからでしょ。まったくもう……」



 相変わらず新菜からからかわれる私ではあったが、この時だけはちょっとだけ、口の中に残っている苦味が、甘く感じた。





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