第93話、腹ペコ西川
調理実習室には香ばしくて甘い匂いがふんわりと漂っていた。
ワッフルメーカーで焼き上がった四角いワッフルを取り出して、真白は目を輝かせながらそれを見つめる。
焼き立ての生地から漂う香りに、見るからにサクッとした香ばしい表面と、もっちりとした生地の食感が楽しめるワッフル。
その焼き立ての甘い香りは、真白の心をときめかせるには十分すぎる程だったようだ。
「ふわぁ……すっごく美味しそう。ねえ龍介、これ食べてみてもいいの?」
「ああ。熱いから火傷しないようにな」
「うんっ! それじゃあ、いただきます!」
真白は小さな口でふうふうと息を吹きかけてから、出来立てのワッフルをぱくっと頬張る。
サクッという音が聞こえて、真白の可愛らしい頬がもぐもぐと動く。それから真白はほにゃんと蕩けるように表情を崩して幸せそうな笑みを浮かべた。
まるでリスが頬袋にどんぐりを詰め込んだような、そんな幸せいっぱいな笑顔だった。
「どうだ? やっぱり焼き立ては格別だろ?」
「すっごく美味しいよ、龍介! 外はサクサクで、中はふわふわ! それに甘くて香ばしい匂いが口の中いっぱいに広がって、ふわわ……こんなの幸せすぎるぅ」
「真白がそこまで褒めてくれるなら文化祭もばっちりだな。あとは試食用に小さくカットして――」
そうして俺も焼き立てのワッフルを食べようと手を伸ばした時だった。
廊下の方で騒がしい声が聞こえてきて俺はふと顔を上げる。なんだかその声には聞き覚えがあって、それはどんどん近づいてくる。
そして勢いよく調理実習室の扉が開け放たれた。
「やべえ! めちゃくちゃ良い匂いがすると思ったら! 龍介じゃねえか!!」
「うおっ……!? に、西川。お、おはよう?」
「おう。おはようだぜ、龍介!」
調理実習室に飛び込んできたのは友人の西川恭也。
今の時間はバスケ部の朝練の最中のはずで、その西川がどうしてここにいるのだろう?
赤みのかかった栗色の髪を汗で濡らしながら、体操着姿の西川はとても良い笑顔を浮かべていた。
「いやー体育館のトイレがぶっ壊れて使えないからよ。校舎の方を借りようと思ったら、なんか良い匂いがするからつい引き寄せられちまったぜー」
「いいのか、朝練中なんだろ? 早く戻らないと玲央に怒られるぞ?」
「大丈夫だって。ちょうど休憩時間だからよ。龍介が朝から何かしてるって話は玲央から聞いてたけどよ、まさかこんな美味そうなものを作ってるとはな」
西川は調理実習室の中をぐるりと見渡して、それから焼き立てのワッフルを見つけてぐぅとお腹を鳴らす。
その大きな音に真白はくすりと笑いながら西川に近寄った。
「おはよう、西川くん。今日も元気いっぱいだね?」
「ま、真白しゃんっ……! はひっ……お、おはようごじゃいまず……!!」
「あはは。西川くんってば相変わらず面白いんだから」
「そ、そう言ってもらえて、光栄でずっ!!」
西川は分かりやすいくらいに顔を真っ赤にして、まるで気を付けするようにピンと背筋を伸ばしたままフリーズしていた。
真白を前にすると極度の緊張で固まってしまうのは相変わらずで、今も真白に声を掛けられただけで頭が真っ白になってしまったのだろう。
真白もそんな西川に慣れたもので、くすくすと笑いながら焼き立てのワッフルをひとつ手に取るとそれを西川に差し出した。
「ねえ、西川くんってお腹空いてる? このワッフルすごく美味しいから食べてみて。朝練も頑張れるかも!」
「あ、あばばばっ……! ま、真白しゃんからの、お恵み……!?」
真白とワッフルを交互に見つめながら口をぱくぱくさせる西川。しかしいくら緊張していても体は正直だったようだ。
俺と真白が見守る中、西川は焼き立てのワッフルを素直に受け取って口に入れる。そしてゆっくりと頬張ると西川は大袈裟に反応して瞳を輝かせた。
「う……美味ええぇぇぇ! な、なんだこれ!? サックサクで香ばしくって、ふわふわでもっちもちでめっちゃ美味いんだけど!?」
「あはっ。西川くんも龍介に胃袋を掴まれた仲間入りだね?」
「こ、こんなの知っちまったらもう抗えねえって……」
そのまま大きな口でワッフルを平らげて、西川は幸せそうな吐息をこぼした。
胃袋を掴まれた仲間入りだとかはよく分からないが、まあワッフルが西川の心を掴んでいたのは確かだったらしい。
真白を前にしているけどワッフルへ夢中になっていて、さっきまでの緊張が何処かに吹き飛んでいる。
「それだけ西川が美味いって喜んでくれるなら、うちのクラスの連中も満足してくれそうだな。良かった」
「マジで店で出せそうなレベルだぜ。勉強にスポーツだけじゃなくて、お菓子作りもすげーのかよ龍介。マジで完璧超人だな!」
「いや、別にそんなことはないって。ただまあ、お菓子作りは本当に自信があったんだ」
西川が店で出せそうなレベルと言っていたが、このワッフルは前世でバイトしていた喫茶店で出していたものだ。
あそこは店長がスイーツに並々ならぬ拘りを持っていて、俺はその店長に叩き込まれたものを再現したに過ぎない。
ただのワッフルと言えど、そこにはひと手間もふた手間も違いがあった。材料や調理器具に若干の違いがあるので完全再現とまではいかないが、文化祭で出すには十分すぎる出来栄えだと思う。
「いやー朝飯食ってこなかったから、このワッフルはマジで身に染みるぜ。他にもなんか作ってるんだよな?」
「ああ。今日は文化祭で出すメニューを選ぶ為の試食用で他にもいくつか用意してる。その中から一つか二つに絞る感じだな」
「すげーんだな。文化祭の為に試食会まで開くとか。龍介、クラスの為に頑張ってんだな」
「ああ。任されたからには全力でやるつもりだよ。クラスのみんなと笑顔で文化祭を楽しみたいから」
「はー。本当に龍介、変わったよな。不良だった頃は学校行事もすっぽかしてたのに。今じゃクラスの事を考えてみんなの為に一生懸命とかさ」
「もう後悔したくないんだ。たとえ失敗したとしても全力で取り組んだ事は、きっといい思い出になると思うから」
俺はもう前世での後悔を決して繰り返したくはない。
同じ教室にいて、言われた事をこなすだけで、そこに自分の意志はなくて。俺が過ごした前世での文化祭は、ただ周りに流されるままに待つだけのものでしかなかった。
だからだろうか。
前世の記憶にある文化祭は楽しくはあったが、同時に虚しくもあって、クラスの中心で笑い合う同級生達を眺めて、そこに自分がいない事に寂しさも感じていた。
それは悪役として今の人生を歩んできた進藤龍介としての俺も同じだ。
不良であるが故に周囲の人間と馴染めなくて、その寂しさを埋めるように、自分を理解してくれる悪友とつるむようになった。学校という青春の舞台からひたすら逃げて、毎日が空虚で色褪せたものになっていた。
そんな俺の日常を色鮮やかに彩って、ずっと傍で支え続けてくれたのが真白だ。
そして俺は大好きな真白と青春を楽しむと誓った。悪役だって青春したいと強く願った。
その願いを叶える為に、俺は今出来る事を全力で取り組んでいる。
真白とのかけがえのない思い出を作る為に、クラスのみんなと協力し合って、その結果、みんなで笑い合う事が出来たら……。
それは俺が憧れていた青春そのもので、そんな明るい未来を掴み取る為に俺は真面目に頑張るのだ。
そんな俺の想いが西川にも伝わったのかもしれない。
西川はクシャっと破顔して、それから嬉しそうに笑った。
「応援してるからよ。龍介のしたい事、全部思いっきりやれよ!」
「ああ。ありがとう西川。みんなで笑顔で文化祭を楽しめるように頑張るよ」
「おれで出来る事があるならなんでも手伝うからよ。例えばそうだな、ええと。他のスイーツも試食してやるとかさ!」
親指を立てて白い歯を輝かせる西川を見て、真白は悪戯っぽく笑ってから西川に一歩近づく。
「あは。西川くん、さては龍介の作ったスイーツがもっと食べたくって仕方ないんでしょ?」
「ギクッ!?」
「分かる分かる。さっき朝ご飯食べてなくてお腹空いてるって言ってたし」
「うぐっ! ま、真白しゃん、じ、実は……はい……」
「あはは。西川くん、リアクションが本当に面白いんだからっ」
「ひえええっ……! そんな最高に可愛い笑顔でおれを見ないでくれぇ……!!」
西川は真白に声を掛けられるだけで真っ赤になって、真白の一挙手一投足にどぎまぎしていた。
そんな西川の様子に真白は楽しそうにころころと笑っていて、そんな二人を見ていると微笑ましい気持ちになる。
そして俺も二人の会話に交じりながら、自分で作ったワッフルを一つ頬張った。
うん、美味い。
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