第三章
第71話、新学期と夏風邪①
夏休みが過ぎるのはあっという間の事だった。
たった一ヶ月着ていないだけの筈なのに、制服に袖を通すのが随分と久しいものに感じる。
キャンプに、海、夏祭りに花火大会。俺が理想としていた夏休みの予定を全て実行し、真白と二人で両手が埋まる程の思い出も作れた。楽しい日々を満喫し、大切な人達と共に最高の青春の一欠片を胸に刻み込む。
前世では決してありえる事のなかった最高の夏を五感全てで感じながら、これから始業式を迎える事になる。長いようで短い夏休みがこれで本当に終わりを告げるのだ。
それに少し寂しさを感じてしまうのは、俺にとって真白と過ごした夏休みがかけがえのない時間だったからだろう。
だけどまた明日から新学期。
俺達の紡いでいく物語はまだまだ続いていく。
だから輝くような夏の思い出を胸に、俺は二学期へと思いを馳せていたのだが――。
「――へっくしょんっ!」
マスクの下でくしゃみが炸裂する。
二学期でも楽しい思い出を作ろうと思ったスタートダッシュで俺は早くも躓いていた。
楽しかった反動で夏の終わりに一気に疲労が来たようで、困った事に俺は新学期から夏風邪に悩まされている。
幸いにも身体がだるいのと喉に少し違和感があるだけで熱はなく、こうして学校に来る事も出来ているが体調はあまり優れない。
夏休みは真白と一緒にたくさんの思い出を作って、それはもう楽しい日々を満喫していたのだが……新学期を迎えた途端にこの調子だ。出席日数の関係で授業は休めないし、早めに体調を戻しておく必要がある。
マスクと風邪薬を持参して学校に来た俺は自分の席に座り、ティッシュで鼻をかみながら久しぶりの教室の様子を眺めていた。
窓際の一番奥の席では今日も眩しい青春の輝きが放たれていて、主人公とヒロイン達の仲睦まじい様子が今日も繰り広げられている。
「夏休み、いっぱい遊びましたね。頼人くん、日焼けしてますよ。白いお肌だったのにこんがりです」
「はは、みんなして外ではしゃぎ回ったからな。でも優奈はいつだって真っ白だ。つやつやでぷるぷるで本当に綺麗だよ、優奈」
「も、もう……頼人くんったら……」
「ふふ、照れて赤くなるところも可愛いな」
「頼人さん、この夏はたくさんの思い出を作れて本当に幸せでしたわ」
「美冬先輩……。その、仲直りしてくれてありがとう。俺が勝手な事言って怒らせちゃったのに、前と変わらずに接してくれて凄く嬉しかった」
「あの時はわたくしも大人げありませんでしたわ。ごめんなさい」
「いや、謝らないでくれよ。俺は本当に良かったと思ってるんだ。美冬先輩が仲直りしようって言ってくれたから、今があると思ってるからさ」
主人公の布施川頼人はヒロインの花崎優奈と桜宮美雪と仲直りし、いつも以上にべたべたとイチャつきながら幸せオーラを振りまいている。
それは大人気ラブコメ『恋する乙女は布施川くんに恋している』のワンシーン。
主人公の布施川頼人は夏休みの思い出と共に、ヒロイン達と眩い青春の新たな1ページを刻み込んでいく。
眺めているだけで胸焼けしそうになりながら、その光景に少しだけ違和感を覚えていた。
いつもなら前の席から振り向いて会話に参加する姫野夏恋、彼女の様子がちょっとだけおかしいのだ。
「なあ夏恋。俺とどっちがたくさん日焼けしたか勝負しないか!」
「ねえ、頼人。それってひと目見てあたしが負けちゃうって分かるんだけど……?」
「はは、やってみないと分からないだろ?」
主人公の布施川頼人は幼馴染の姫野夏恋にもぐいぐい接していた。
だけど姫野夏恋の反応はいまいちであり、布施川頼人に対して距離を感じるような対応をしている。
いつもなら腕をまくって元気いっぱいにスキンシップに応えてくれるのだが、今日の姫野夏恋は何処かぎこちない笑顔を浮かべていた。
そんな姫野夏恋の反応に布施川頼人は笑顔を浮かべつつも、彼は慌てた様子で夏恋に話しかけ続ける。
「そ、それじゃあ別の事で勝負しよう。ええっとだな……」
「ごめんね、頼人。今日は遠慮しておくわ。なんだかあんまり元気が出なくて」
苦笑いを浮かべた姫野夏恋はそのまま黒板の方へと振り返ってしまう。
いつもと様子の違う姫野夏恋の様子と、俺が原作で見たやり取りを思い出しつつ、その内容が俺の記憶にあるものと違う事を確かめる。
主人公である布施川頼人は生徒会長である桜宮美雪と喧嘩した。その後に幼馴染である姫野夏恋ともビーチバレーの大会で関係を拗らせる。
ヒロイン達との仲が一気に険悪になり主人公との関係が破綻するという所で、親友である木崎玲央が事態の収拾の為に奔走した。
玲央の話では無事に仲を取り持つ事が出来たという話だったのだが……姫野夏恋と布施川頼人の仲が拗れたままのような印象を受けてしまう。
そもそも原作には一年生の時点でヒロイン達との関係に亀裂が入るような展開は全くなく、ただひたすら高校生初めての夏休みという青春の舞台を突っ走っていくものだった。
悪役である俺が起こしたイレギュラーな展開によって、確かに『ふせこい』の物語に変化が起こったのだ。
そして今もその物語の変化というのを俺は強く実感している。
「龍介っ、お見舞いに来たよ。大丈夫……?」
ぽんっと肩を叩かれて振り向くと、目を奪われる程の圧倒的で完璧な最強の美少女がそこにいた。
初雪のように無垢で可憐な白くて美しい柔肌、朝日を浴びて煌めくさらりとした黒い髪、青い瞳は宝石のように澄んでいて、見るだけで癒されてしまう優しい笑顔。
風邪など何処かに吹き飛んでしまうような美少女の姿に、俺は一瞬で胸をときめかせてしまう。
彼女は俺の幼馴染みである甘夏真白。全人類がひれ伏す程の超絶美少女の登場に教室中がざわついた。
物語の主人公である布施川頼人もヒロイン達そっちのけで真白に釘付けだ。
「真白、来てくれたのか。ただの風邪だから心配する程じゃないって」
「でも本当に大丈夫……? やっぱり休んだ方が良くない?」
「休む程じゃないんだ。熱も喉の痛みもそんなに酷くないしさ。ちょっと鼻水とくしゃみが出るくらいで」
「むぅ……わたしは龍介が心配です。無理して学校に来て……悪化したら大変だよ」
真白は心配そうに顔を曇らせる。一緒に登校してきた時から俺の体調を酷く心配していて、もうすぐホームルームが始まるというのに見に来てくれたのだ。
俺の大切な幼馴染みはいつも優しく甘やかしてくれる。
そんな真白を安心させようと俺はぐっと親指を立てた。しかし真白はむっとした表情を浮かべ、その小さな白い手で俺の額に触れる。
柔らかい感触と共にひんやりとした心地の良い冷たさが額に伝わる。それだけで俺の胸がきゅっと締め付けられて身体中に熱が回ったような感覚に陥った。
「……やっぱり朝よりも体温上がってる。無理してるね」
「本当に大丈夫なんだ。夏休みの最終日に医者へ行ってただの風邪だって言われたし、周りにうつさないようにマスクもしてる。それに出席日数がやばいから……」
「今は大丈夫でも悪化しちゃったら大変だよ。それに出席日数だってまだ何日かは余裕あるって前に言ってた。覚えてるもん、わたし」
「大丈夫だって、このくらいどうって事……」
「ばか。そのくらいって顔、してないもん。頑張るのは良い事だけど……本当に駄目になったらすぐ言って。分かった?」
「すまんな、心配かけて。ありがとう」
「……うん。分かったなら許します。よしよし」
真白は俺の頭を優しく撫でながら真白は青い瞳でまっすぐに見つめてくる。
本当に俺の事を心配してくれている事が分かって凄く嬉しいのだが、クラスメイトの視線がとても痛くて心に刺さる。真白も周囲からの視線に気が付いたのか、ぱっと手を離して少しだけ頬を紅潮させて目線を逸らした。
真白はこほんと一つ咳払いをして改めて俺を見つめる。やはり心配の色が色濃く出ているが、それを俺に悟らせないように微笑んでくれた。
「それじゃあまた休み時間に見に来るから。お大事にね、龍介」
「ああ、本当にありがとうな、真白」
健気なその姿に心を揺さぶられるも俺は気丈に振る舞う事にした。風邪で辛いが真白に心配はかけられない。
それから真白はひらりと小さく手を振りながら教室を後にした。去り際まで可愛いとは流石は俺の幼馴染みだ。
そんなラブコメらしい一幕も、俺と真白の絆が織り成す原作には決してなかった展開。
――俺は前世で過労死し前世でドハマリしていた大人気ラブコメ作品『恋する乙女は布施川くんに恋している』の世界へと転生を果たした。
しかし転生したその先は最強の悪役として知られる『進藤龍介』で、原作では数々の悪事を白日の下に晒されて破滅的な最期を迎える未来にあった。
けれど前世で真面目だけが取り柄だった俺はその未来を退ける為の努力を始め、大切な幼馴染である真白と共に数々の運命に抗っていこうと覚悟を決めたのだ。
そして真白との絆を深めて手を取り合って前に進んできた事で、この世界の物語は俺の知る原作の内容からどんどん離れていく。
その先にはきっと原作からは考えられないような未来が待っているはずだ。だから俺は諦めない、真白と二人で原作にあった破滅の未来を覆してみせる。頑張って主人公よりも幸せな青春を送るんだ。
だから風邪なんかに負けている場合じゃない。俺は気合を入れ直すと始業式に向けて背筋を伸ばすのであった。
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