Love connection ~その男、厄介につき~
宇月朋花
第1話 Love connection 愚者~Fool~
ネオン街から僅かに外れた裏通りの一角。
付近一帯の緑化計画に完全に乗り遅れた廃ビルの荒んだ空気に不似合いな艶の光るストレートチップが、埃っぽいコンクリートの床を叩いた。
赤黒く濁った血だまりを軽快に避けて、明かり一つ無い暗がりを迷わず進む足取りには迷いが無い。
既に意識を失っている探し人を一瞥して、男はげんなりと月明りのない澱んだ空を見上げた。
「煩い喚き声が聞こえないのは有難いんですが・・・事切れてませんよね?」
加減をするようにと上から指示が下りている筈だが、どうやら末端が勝手をしたようだ。
今回の案件は指揮系統が別だったので、大凡予想の範疇だが、万一これが自分の部下だったらと思うとぞっとする。
必要な情報を吐き出させた後は、セオリー通り
国民の血税で養われている犬は、とにかくよく吠える。
「すみません、
「それをどうにかするのがあなた方の仕事だと思うんですが・・・血液汚染は後始末が面倒で嫌がられるんですよ」
「そ、それはもう全てこちらで!」
どう見ても堅気ではない風情のスーツ姿の男が平身低頭で口早に言い切った。
その後ろで控えていた数人も同じように頭を下げている。
これだけ見れば随分と統制のとれた組織のようだが、やっている事はそこらへんのチンピラの延長と変わりない。
もう少し頭で動ける人間を現場に寄越すように後程依頼という名の文句を投げる事にする。
「当然です」
抑揚のない声音で返して、スーツから煙草を取り出す。
すかさずライターを取り出した男たちには指に挟んだ煙草を軽く振って見せて、必要ないと示して自ら火をつけた。
立ち上がって来る柔らかな煙とほのかに甘い紅茶に似た香りが、目の前の血だまりから一瞬だけ思考を切り離してくれる。
永季が暇つぶしのように片手間に吸う煙草ではない。
香料感のない匂いと、雑味の無い優しい甘みで苛立ちを抑え込んで、視線をコンクリートが剥き出しの天井へ向かわせて、瑠偉は珍しく舌打ちを零した。
「ひぃっ」
纏う気配の変化に気づいた男のうちの一人が呻いて一歩後ずさる。
一本吸って落ち着いてから連絡を入れようと思っていたが、予定変更だ。
取り出したスマホで空でも言える番号を呼び出してコール音を鳴らす。
どうせ一回では出ないので、着信履歴を埋め尽くすつもりだったのだが。
『ごめん、瑠偉ほんとにいま忙しい』
珍しくコール音3回で電話に出た相手に、べっとりと赤黒く染まった天井を見上げたまま溜息を一つ。
「
忙しい訳がないだろうと言外に告げるも。
『依頼は終わっただろう。もう完全にプライベートだよ』
「穏便にとお願いしましたよね?どうして天井にまで血糊が?人災については引き受けますが、厄災は完全にそちらの管轄のはずですよね?」
明確な線引きの元で、必要な連携を取りつつ統括地域の安寧を守る事を役割として仰せつかった筈だ。
お互いどれだけ不本意だとしても。
明らかに人外のものらしき爪痕の残る天井と柱の補修費用を考えるとげっそりする。
『そっちの幹部会の日程に合わせて終わらせようとしたらこうなったんだ。お偉いさんには上手く言っておいて。必要なら
『勘弁してくださいよ!主!』
「内輪揉めは後でしてください。それと掃除に六合は要りませんよ、余計ややこしいことになる。ここはまだいいですが、次の現場は歓楽街ですよ、今夜みたいなことは・・・」
『ああ、うん。まあ大丈夫だよ。厄災は回収しておいたから、あとはそっちの仕事。奴さん、結構長く憑かれてたみたいだから、反動で暴れるかも』
「もう暴れた後ですよ。おかげで床がレッドカーペット状態です。勘弁して下さいよ」
『次は先に寝て貰う事にするよ』
任された任務はこなしはするが、細やかな気配りというものが完全に抜け落ちている社会不適合者は、目の前の目的物だけが第一優先で、他の事はそこらへんの塵程度にしか認識していない。
どうせ押さえつけて厄災だけ引き抜いて適当にぽいっと放り投げたのだろう。
やはり最初から永季を向かわせるべきだった。
『それじゃあまた次の現場で。
正式な所在地不明の隠れ家に帰宅したらしい那岐の声がぞくりとするほど甘くなって、途端通話が切れた。
この後はどれだけ電話を架けても繋がらないだろう。
自由時間の全てを恋人との逢瀬に費やして、遅すぎる初恋を満喫している仕事仲間を胸の内で罵っておく。
羨ましい限りだ。
こっちは朝までに隠蔽工作と上への報告を終えて、スーツを着替えていつも通り仕事に向かうというのに。
役割という名の仕事を押し付けられてから数年、削られていく一方のプライベートに辟易する感覚はもう摩耗しきってしまって何も感じなくなっていた。
もう少しそれなりに感情があったはずなのに。
世捨て人のように
明らかに労働負担割合はこちらの方が大きい筈なのに、これではあまりにも見返りが足らなさすぎる。
八つ当たりの矛先を接待の場に残して来た事を悔いた。
煙草の先から零れた灰が血だまりに混ざって消えて行く。
腕時計を見れば、日付が変わって30分程が経っていた。
思考が途切れた途端甦って来たのは、朝起きてからほぼ丸い一日付き纏ってくる頭痛。
堪えるようにこめかみを押さえれば自然と眉根が寄った。
「それはもうただの人なので、いつも通り処理を。僕はこの後接待に戻ります。3時過ぎには永季が来ますからそれまでに見られるようにしておいてください。それでは」
外したシルバーフレームの裏仕事用の眼鏡をはずして胸ポケットに戻して、申し訳程度に緩めておいたネクタイを締め直す。
愛想も可愛げもない挨拶に見送られてビルを出る頃には、いくらか表情も戻っていた。
息を吐いた途端、狙ったようにスマホが震える。
「はい。
意識を日常に切り替える頃には、重たい雲の隙間から月明りが零れ始めていた。
★★★★★★
「ほら、あの人だよ。会社説明会で対応してくれた先輩」
「広報部の
「中等部から聖琳女子で卒業まで主席守り抜いた唯一の人らしくて、入社当時からかなり話題になったらしいよ。雰囲気あるよなぁ・・ちょっと近寄りがたい清楚な雰囲気」
「育ちの良さが出てるもんねぇ・・・見て、あのワンピース!雑誌に載ってたやつとおんなじ」
毎年春になるとエレベーターホールで交わされる会話は大抵同じだ。
フレッシュな新人の期待と、同僚達の誇らしげな眼差しを裏切らないように、より一層背筋は伸びる。
静乃が入社してからずっと守って来たイメージは、一ミリだって壊させるわけにはいかない。
キラキラとした軽やかな”音”が彼らの言葉と一緒に耳元で響いて、その興味と羨望に満ちた音色はいつだって静乃にプレッシャーを与えて来るけれど、同時に自尊心を満たしてもくれた。
静乃にだけ聞こえる音色は、時に静乃を傷つけ、時に守り、そして同時に強くもした。
所謂社会人デビューするまで、一度も自分に向けられたことの無い音色は、最初は静乃を戸惑わせ、不安にもさせたけれど、いつも別の誰かに向けられていたその音を一身に受け止めてからは、手放せなくなった。
裏切れないのは、他人だけじゃなくて、自分自身も、だ。
噂というものは、面白い位尾ひれを付けて独り歩きするもので、聖琳女子の主席という事実に付随した情報の殆どは全てが偽物だったけれど、それは静乃の価値を勝手にどこまでも引き上げてくれた。
彼らから投げられる音色が、少しも曇ることが無いように。
順応性の高さだけが長所の静乃にとって、過去の栄光は唯一のブランド。
彼らの望む自分でありさえすれば、落胆や軽蔑の音は聞こえては来ない。
いつまでも皆が憧れの唐橋静乃さんでいられる。
だから静乃は進んで自分のイメージを守り続けて来た。
「まだ乗れますよ、どうぞ」
エレベーターの中から、新入社員たちに向かって手招きすれば、尻尾を振ったワンコが三人飛び込んできた。
お礼の言葉と共に響いた音色は、やっぱりキラキラした軽やかな音。
「まーた静乃ちゃんのファンが増えたんじゃない?」
「ファンじゃありませんよ。わが社の大事な新入社員ですよ」
「金田さんの仕事、また手伝ってあげたらしいじゃない。初稿遅いのはいっつもなんだからそろそろ甘やかすのやめなさいよ」
「彼女なりに努力してるんですよ。先月よりは早くなりましたから」
「静乃ちゃんがそうだから、新人をみんなあんたに預けて来るのよ課長は」
愛想よく、丁寧に、低姿勢に。
会社で上手く生き抜く為にそうしていたら、定着したポジションは、感じが良くて雰囲気美人の優しい先輩と、使いやすい部下だった。
そういう自分に辟易する事もあるけれど、社会人唐橋静乃は、そうあるべきなので疑問は抱かないようにしている。
「中間管理職も辛いんですよ、きっと。私は話を聞いてくれる優しい先輩がいるので助かってます」
「ほんっとに・・」
広報部のフロアに戻りながら、先輩社員がほんのりと嫉妬を滲ませて来る。
この手の音色は、入社してから何度も向けられたものだ。
謙虚に首を振って見せれば、可愛い後輩めという誇らしげな音色の笑い声が返って来る。
勝手につけられたイメージに乗っかっているのは自分なので、決して驕ってはいけない。
「あんたがもう少し性格悪ければ虐めてやるのに」
「先輩は誰かを虐める位なら、面と向かって喧嘩売るタイプですよね。だから心配していません」
「わーお。褒めてくれてありがとう。じゃあ、そんな可愛い後輩にお願いが」
「また合コンですか?」
「分かってるじゃないのぉ!」
「予定早めに決めてくださいね」
「あんたの嫁入り修行とは被らないようにするから!」
「・・・嫁入り修行じゃありませんよ。お稽古です」
「え、嫁入り修行でしょ?お料理にお茶、着付けだっけ?あとは素敵なお婿さんを見つけるだけじゃないの!そのうち親戚がいいとこのボンボンを見繕ってくるんでしょうに」
「・・・そうだと良いんですが・・・」
憧れの音色を響かせた先輩社員の後ろを歩きながら、残念ながらこの10年ちょっと親戚に会った事はありませんと心の中で答えておく。
大手商社の出世コースをひた走っていた父親が母親と離婚をしたのは、聖琳女子中等部の入学式の1週間前のことだった。
それまで開けていた未来が一気に閉ざされて、それでも聖琳女子にしがみ付いて生きて来たのは、その名前の持つ圧倒的な影響力を目の当たりにして育ってきたからだ。
専業主婦一筋で苦労知らずだった母親が、縁遠くなっていた実家に必死に頭を下げて援け《たすけ》を請い、慣れないパートをしながら古いアパートでの暮らしを必死に守る姿を見ていたら、非行に走るなんて選択肢は出てくるわけもなく、溜まった鬱憤やストレスを全て勉強に宛がった結果、中高を通じて主席を守り抜く事が出来た。
自分たちを捨てた父親への意地もあった。
6年間で叩き込まれた礼儀作法と所作、元来持つ控えめな雰囲気と古風な顔立ち。
聖琳女子の名前に恥じない淑女として社会人デビューを果たした静乃のアフター5は、お稽古と言う名のアルバイトに埋め尽くされている。
それもこれも全ては、奨学金の返済と、今にも雨漏りがしそうな古いアパートから引っ越すため。
そして、唐橋静乃のイメージ保持のためである。
どれだけ誘っても滅多に飲み会に顔を出さない高嶺の花の正体は、張りぼてだらけの偽りの花。
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