第2話 神事

 そして神事の日。

 彼は町から少し離れた山の中にいた。

 何度も人が出入りしているのでそこまで険しいわけでもなく、道も開拓はされているのだがそれでも宮司の出立ちをし、草履を履き、背中に區を背負って登るのはきつかった。

 人よりも体温の低い彼でなければ汗だくになって脱水を起こしていたことだろう。

 彼は、背後を向く。

 町では今頃、祭りの準備をしていることだろう。

 昨年と一昨年とコロナ蔓延で出来なかったから今年は気合いを入れると張り切っていたのを覚えている。今頃、両親も町内会に駆り出されていることだろう。

 てんやわんやしている2人を思い彼は苦笑する。

 そして次に浮かんだのはあの少女。

 りんご飴一緒に食べるんだから早く帰ってきなさいよ!と言って送り出した彼女を思い出し、急ぐか、と區を背負い直す。

 それからさらに1時間登り、太陽が山の頂上に差し掛かった頃、ようやく目的地に着いた。

 岩をそのまま掘削して造ったような鳥居の奥にぽっかりと口を開いたような小さな洞穴があった。

 彼は、背負ってきた區を下ろして上げ戸になっている蓋を上に上げる。

 中から出てきたのはLEDの小さなキャンプ用ランタンと紫の風呂敷に包まれた長方形のもの、そして一升瓶だった。

 ランタンをカラビナと一緒に腰に引っかけてランプを付け、右手に風呂敷包みを、左手で一升瓶を抱えて洞穴の中に入っていく。

 洞穴の中は心地よいくらいに涼しかった。

 つまり常人には極寒と呼べるほどに寒かった。

 足を踏み出せば草履の下で霜が割れ、天井に張った氷柱は溶けることなく鋭い牙を剥き出しに、岩壁に張った氷はランプの光を妖しく反射させた。

 

 チッチッチッ


 小鳥の鳴き声が聞こえる。

 彼は、足を止める。


 チッチッチッ


 小鳥の鳴き声が近づいてくる。

 南極にでもいかない限りこの寒さで動ける鳥など存在しない。

 しかし、鳴き声はゆっくりと近づいてくる。


 チッチッチッ


 LEDが近づいて来た者を映しだす。

 羽毛のような光沢のある茶色い着物、結い上げられた髪、金銀の見事な装飾の施された簪、そして青白くも美しいラインを描いた顔、そして鋭い目・・・。そして小さく分厚い唇から溢れる小鳥の鳴き声。

 声は、この女が発していたものだった。

 彼女の姿を見て彼はにっこりと微笑む。

「お久しぶりです」

 彼に声を掛けられて彼女は泣くのを止める。

 その代わりに人の言葉を話した。

「もう1年経ったのかえ?」

 見た目は若く美しいのにその喋り方は町のどの高齢者もしないような酷く古臭いものだった。

「ええっ。今年も暑いみたいです。僕には分かりませんけど」

「温暖化というやつかえ?」

「よく知ってますね。そんな言葉」

「この山を登りにくる輩がよく口にしておるわ。毎年のように"暑い""暑い""温暖化だあ"ってな」

 極力、登山に来る者たちの真似をしたようだが、それにしては品があり過ぎて伝わってこない。

 彼女は、そんなやり取りを飽きたとはがりに踵を返す。

「ついて参れ。これから先は先遣さきやりの私がいないことには辿り着かんぞ」

 そう言って歩み出す。

 彼も何も言わずに付いていく。

 奥に行くに従って氷が分厚くなり、寒さが増してきている・・・ような気がするが、彼にとって寒さとはあまり意味をなさない。ただ、草履や風呂敷の上に霜が張ってるのを見ると寒いのだろう、とは感じる。

 彼女が歩みを止める。

 鋭い目をさらに細める。

「着いたぞ」

 そこは巨大な氷壁だった。

 全長だけで裕に山の頂上まで届きそうな巨大な氷壁は湧き出た清水のように透明でランプの明かりに照らされ、七色の光沢を放っている。

 その氷壁の奥に大きな影が見える。

 雪よりも白く、触れたら突き刺さりそうな鋭い毛、黒曜石を思わせる瞳、氷山のような巨大な牙、雄々しく立つ耳・・・。

 それは巨大な犬だった。

 巨大な氷壁すらも狭く感じるほどに巨大な犬がそこに鎮座していたのだ。

 犬は、じっと黒曜の目をこちらに向けている。

 しかし、それは彼も、そして彼女も映していない。

「今年も目覚めなかったようですね」

 彼は、首を上げて凍りついた犬を見る。

「目覚めたら困るわ」

 彼女も同じように見上げる。

「もし目覚めたらこの世は終わる」

「そんな怖そうには見えないですけどね」

 彼は、彼女の前に進み出ると一升瓶を置き、風呂敷包みをその横に並べる。しゃがんで風呂敷包みを解くと出てきたのは藤の花が描かれた漆塗りの三段重だった。

 一段目には昆布の煮しめ、川魚の佃煮、黒豆、綺麗に巻かれた卵焼き、おにぎり、栗きんとんに練り菓子。

 二段目には唐揚げ、ローストビーフ、マッシュポテト、コブサラダ、鮭のムニエル、ポーチドエッグピラフ、ガトーショコラとチーズタルト

 そして三段目には餃子、春巻き、焼売、ピータン、青椒肉絲、チャーハン、焼きそば、そして桃の形のあん団子。

 それらが規則正しい法則を持って並べられたブロックのような美しさを持って輝いていた。

 彼女は、お重に納められたご馳走を珍しげに眺める。

「また、見たこともない食べ物が並んでるな」

「せっかくだから和洋中味わってもらおうって婦人会の人達が張り切ってましたから」

「どうせ食べれもしないのに律儀なことだ」

「山神様へのお供物ですからね。それに・・・」

 彼は、彼女を見て笑う。

「一緒に食べてあげて下さいね。その方が喜びます」

 彼がそういうと彼女は驚いたように鋭い目を丸く広げる。そして恥ずかしそうに笑った。

「揶揄うのはいいから早く始めてくれ」

 そう言って首をぷいっと横に向ける。

 彼は、楽しげに笑って「了解です」というとゆっくり立ち上がり、両手の手袋を外す。

 そして愛おしい人の頬を撫でるように優しく氷壁に触る。

 彼の手と氷壁の間から冷気が白い煙となって溢れる。

 両の手を中心に霜が渦を巻くように広がり、氷壁を覆っていく。

「毎年聞いてますけど本当にいいんですか?」

「・・・ああっ構わない。さっきも言ったようにこの氷が割れたらこの世は終わってしまうからな。

 怒りが鎮まるまで眠ってもらうしかないのだ」

「何千年も冷めることのない怒りってなんなんですか?」

「・・・それは聞かない方がいい。聞けば二度と人間として生きたくなくなってしまう」

 そう言って鋭い目を閉じる。

 彼は、山神の顔を見る。

 鋭い怒りに唇を吊り上げ、牙を見せつけ、黒い双眸で睨みつける。

 何をすればこれ程の怒りを激らすことができると言うのだろうか?

 しかし、彼が思ったのはそんなこととは別のことだった。

「戻ってほしくないんですか?」

 彼女の肩が震える。

 顔が下を向く。

「大切な人なんでしょ?戻ってほしくないんですか?話たくないんですか?」

「・・・大丈夫だ」

 彼女は、顔を上げる。

 そして切なく微笑む。

「いつか必ず戻ってくるから」

 そう言って彼女は、再び顔を俯かせた。

 足元に凍らない雫が落ちる。

 彼は、目を閉じ、氷壁に当てる両手に力を込めた。


 花火が上がる。

 色鮮やかな大輪が黒い空を埋め尽くす。

 花弁が膨らんだ後に晴れた音が空気を震わすもそれ以上の歓声がさらに響き渡る。

 約2年ぶりの花火は街の人々は歓喜の声を上げ、涙していた。

 彼と少女は、神社の境内に腰掛けて花火を見上げていた。

 少女は、この季節にぴったりの藍色に朝顔が描かれた浴衣を着ていた。

 お世辞でもなくとても良く似合っている。

 そしてその手には約束通り、彼女の唇よりも真っ赤なりんご飴が滑らかな光っていた。

 ちなみに彼も宮司の出立ちを脱ぎ捨て、浅葱色の浴衣に袖を通し、その手には特性スープ焼きそばを持っていた。コンロから離れたというのに今だ溶岩のように沸騰しているスープ焼きそばを一口口に運ぶと途端に冷めて香ばしい焼きそばに変わる。

 彼に少しでも祭りを楽しんでもらえればと父と母を始め町内会のみんなが考えてくれた一品だ。


 人はどこまでも優しい。


 きっと山神もそのことを理解していつかは怒りを鎮めてくれるはずだ。

 そんなことを考えて小さく唇を上げる。

「何考えてるの?」

 少女が怪訝な顔をして尋ねてくる。

 可愛らしい顔。

 彼は、思わず笑ってしまう。

「人はどこまでも優しいなって思ったの」

「そうなんだ」

 彼女は、呟いてりんご飴を齧ろうとして、止める。

「どうしたの?」

 あんなに楽しみにしてたのに?と彼は眉を顰める。

 すると、彼女はりんご飴を彼の前に差し出す。

「食べて」

「えっ?」

「食べて!」

 少女は、がグイッと押し付けてくる。

 思わず頬にりんご飴が触れそうになる。

「ダメだよ。凍っちゃうよ」

「そんなのいいから食べて!」

 彼は、うーっと唸るもあまりに真剣な少女の訴えに負ける。

「食べれなくなっても知らないよ」

 彼は、小さく口を開き、りんご飴を齧った。

 その瞬間、少女も反対側に唇を押し付ける。

 彼の目が大きく見開く。

 少女は、そっと目を瞑る。

 花火が上がる。

 夜空を焼く閃光が2人の影を大きく伸ばす。

 影同士の顔が溶け込むようにりんご飴の影を飲み込み、お互いの口が重なるように映る。

 りんご飴の表面が凍っていく。

 彼は、思わず口を離す。

 りんご飴が境内の上に落ち、ガラス細工のように砕ける。

 少女の頬と唇が砕けたリンゴ飴よりも赤い。

 見えないが恐らく自分の顔もそうなのだろうと彼は感じた。

 人生で初めて身体が熱いと感じたから。

 少女は、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑む。

「冷たい」

 彼もそれに釣られるように微笑む。

「冷たい男だからね」

 幾つもの花火が舞い上がり、夜空を彩った。

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