初雁球場物語
忌川遊
初雁球場物語
「ハイハイストップ。だからねぇ違うのよ~。京一ってのは言わば恋愛マスターなんだなぁ。なのにお前っ、お前はまるで初恋の高校生じゃねぇかぁ」
「はい、すみません」
俺は頭を下げた。
「お前さん、女性を知らねぇな」
「はぁ?…はい」
ムカつく言い方だ。
「もう一度出直してきな。童貞くん」
周りの女達が笑っている。我慢が出来なかった。
バンッ!
椅子を蹴り倒した。自信たっぷりな中年オヤジのニヤニヤ顔が一瞬固まった。俺はドア開けて出ていった。
「敏腕ぶってんじゃねぇぞ、小心者のハゲオヤジが」
まあいい、あの間抜け顔を見て少しスカッとした。
この後はバイトがあるが、それまでは時間がある。少し遠回りしていくか。
久しぶりに母高の近くに来た。相変わらず屋上からは応援部の大太鼓とデカイ声が聞こえてくる。
「変わらねぇな」
戻りてぇよ、そう呟きそうになった。が、堪えた。
近くには野球場がある。当時野球部だった俺は思わず近くに行ってしまう。相変わらずスタンドへの入口は無防備に開けてある。
中に入った。難しいノックの球をさばくショート。外野には顧問に注意されている背の高いライトがいる。
「戻りてぇな」
口に出てしまった。この頃と比べたら俺のポジションも随分変わったものだ。
くそっ、急にあいつの言葉を思い出した。一つは間違っているが、実は大体当たっている確かに俺には未だ彼女がいない。
ふと横を見ると…ん?、女がいる。
「珍しいな」
黒のスーツ姿だ。関係者でもなさそうだが、じっとグラウンドを見ている。
「女を知る、か」
俺は立ち上がった。
「何か悩み事ですか?」
これで良いのか?
「まあ…ハイ」
微かに笑いながら答えてくれた。柔らかそうな性格の人だ。
「よくここに来るんですか?」
「いえ、今日が初めてです」
「そうですか…」
会話を続けられない。すると今度は彼女が話し始めた。
「この子達、みんな一生懸命ですよね。すごいな、て思って」
「確かにそうですが…。私の時はもう少し厳しかったものですよ」
びっくりしたような顔をしている。しまった、引いているか?
だが彼女は少し近づいてきた。美しい匂い、ではないかもしれないが働く人の香りがした。
「あの、野球部だったんですか?」
「…はい、この高校の」
「へぇ~!そうなんですか!」
彼女はさっきよりも大きく笑った。と思うとまた暗い顔に戻ってしまった。
「私、営業職なんですけど全然ダメなんです。ちゃんとやっているつもりでも毎回言われます、お前には必死さが足りないって。だから必死にプレーする選手達が眩しくて、羨ましくて」
「人からなんと言われようとも関係ない。自分はどうかなんじゃないんですか?」
「でも…」
「それに私から見てあなたは十分一生懸命です。だって今も自分のことをしっかりと見つめているじゃないですか」
「……」
彼女はうつむいてしまった。
「明日は良いプレーが出来ますように!野球だけに!」
ボールを追うさっきのライトがずるりと滑った。それを見て、彼女はまた微かに笑った。
どうすれば良い?どうするのが正解なんだ?
「あ、そろそろ会社に戻らなきゃ」
彼女は立ち上がった。
「え、あの…」
「お話してくださってありがとうございました、えーとお名前は?」
「松田です」
「松田さんですね、私は熊井です。今日はありがとうございました」
そう言って彼女は軽く頭を下げた。
「あの、熊井さん!またいつかお会いしませんか」
頭を下げる彼女にとっては突拍子のないことだったかもしれない。でも彼女は笑って答えてくれた。
「ええ、良いですよ」
「またいつか」
今思えば、これ程頼りにならない言葉はなかった。それでも俺は彼女に会いたかった。彼女の慈愛に満ちた笑顔が忘れられなかった。
四ヶ月程経っただろうか。俺は相変わらず売れない役者として過ごしている。バイトも休みですることが無いため、俺は母校の公式戦を見に来た。直接甲子園に繋がる大会ではないが、シード権を賭ける大事な試合だ。
外野に近い席に観客はほとんど居ない。そして、ふと横を見ると…彼女がいた!あの日とは違い私服姿だ。表情もいくらか明るい。
「あの、こんにちは。お久しぶりです、熊井さん」
「あ、あなたは確か…松田さん!」
プレーボールが掛かった。先攻は相手チーム、先発投手は背番号11だ。
一回は両者無得点。
二回、相手チームの五番がツーベースヒットそのランナーはさらに三塁に進む。
「えっ、今のは?」
「ボークです。えー簡単に言えば、投手がやってはいけない動作をしてしまったんです」
「なるほど…、緊張してるんですかね」
「…まだまだ新チームですからね」
さらにキャッチャーのパスボールで一点入った。
「もったいないなー」
俺は思わず頭を抱えた。
「まだまだこれからです!」
彼女のこの言葉には少し驚いた。初めて会ったあの時よりはかなり元気そうだ。
三回、四回、はともに無得点。五回はチャンスをつくるも一番を打つあのショートが見逃し三振をした。
「ああー…もったいない」
「まだまだこれからです!」
いつの間にか彼女の方が熱くなっている。五回が終わりグラウンド整備に入ると急に会話が途絶えた。改めてじっと彼女の横顔を見た。
見逃し三振か、
今日会えたのは奇跡とでも言うのだろうか?今日会ったことでバッターボックスに入るとこまでは行った。言うなら今しかない。
ヒットか空振り三振か
何も言わなければ見逃し三振で終わる…
「あの?…何かついてますか?」
「え、いえ…」
普段優しい彼女の瞳だが、今はなんだか鋭く見える。力がこもった目をしている。
ビビって何もしなければ、何も残らず呆気なく終わる…そんな思いは高校時代、打席で何度も経験したではないか!あの時は山ほど居た観客にもビビっていた。だが今日はそれすら無いではないか!
「あの、松田さん?」
彼女が怪訝そうな表情を浮かべた。
「熊井さん!私と、付き合って頂けませんか!」
「え、松田さん!?」
彼女はうつむいてしまった。まずい、これはまずい。
「松田さんのこと、私は人としてすごく好きです」
おお?!
「でも、すみません。いくら良くても、収入のない方はちょっと…」
思わぬところを突かれた。だがそこで俺は、高校時代の粘り強さを発揮していた。
「そろそろこの前受けたオーディションの結果が来ます。原作なら熊井さんもご存知のはずです。かなり手応えがありました。それまで、待って頂けませんか?」
「…分かりました。…あ、試合始まりましたよ」
本当はそれどころではないがとりあえず試合を見る。
六回、再びチャンスをつくる。一球ファールボールが彼女目掛けて飛んできた。素手だったが、どうにか俺の手の平で受け止めた。
「え、凄い」
「まだ残ってるみたいです」
冷静に言ったが、本当はかなり怖かった。
今度は空振り三振でこの回のチャンスは終わった。
ブーッ、ブーッ、ブーッ、
来た!
「来ました。すみません、ちょっと外しますね」
立ち上がり、駆け足で階段を上がり上のトイレの方に行く。
「もしもし、松田です。……はい…はい……はい、え?…なるほど、そうですか…はい、大丈夫です。分かりました。ありがとうございました」
そういえば今日はまだトイレに行っていなかった。…ここのトイレに入るのも高校以来か。相変わらず変わっていない。
「すみません。遅くなりました。あの…」
「今、チャンスです!」
ワンアウト二、三塁、ここで打順は9番だ。
だが、ネクストバッターズサークルにいる背番号4はベンチに下がり、代わりに背番号17が出てきた。
あのライトではないか!?
代打の切り札といったところだろうか?型はやや粗いが力強さはある。振り込んだ証は見えるスイングだ。
犠牲フライで同点、ヒットなら逆転もある。
初球を彼は迷わず振り抜いた!
ライナー性の打球がセンターへ!しかしこれは恐らくセンター真正面だ。
「これは、タッチアップか…。いや、厳しいな」
だが、強いスイングで放たれた打球は野手の予想より、そして俺の予想よりももはるかに伸びていく。
センターの頭を越えた!二人還ってくる。バッターも二塁に向かった。逆転だ!
「よしっ!」
「凄い!凄ーーい!!!」
俺は小さくガッツポーズをしたが、隣の彼女は俺の何倍も嬉しそうに喜んでいる。
するとバッターが客席に向かってガッツポーズをした。一体なんだろうか?
「今打った子、あの子に向かってガッツポーズをしたんです」
彼女が指差す方には、いかにも文化系の高校生がいた。
「ところで松田さん、結果どうだったんですか?」
はっ、ここで来たか!
「単刀直入に言うと、オーディションには落ちました」
「そうですか」
そう言った彼女の顔は、自分のことのように残念そうだった。本当になんて良い人だろう。俺はさらに話を続けた。
「でも聞いてください。映画に出演することが決まったんです!世間的にはまだまだ無名の若手監督さんですが、業界での知名度は高くて、きっと面白い作品になるはずなんです!」
そう必死に言う俺の顔を見て彼女は大きく笑った。
「この前偶然見かけたんです。あの子とバッターの子は親友なんです。お互い悩みを相談しあい、解決しあってるんですよ」
彼女は微笑みながら言った。
「それで私、あの子がヒットを打ったのを見て決めたんです。私はあなたにお会いしてからだんだん元気を取り戻せました。私もあなたを支えていきたいです。二人でお互い頑張りませんか?」
彼女はそう言って俺の顔を見た。
「…それはつまり…」
「はい!」
「あ、ありがとうございます!俺も、あなたの生活を楽しいものにできるように頑張ります。よろしくお願いします」
あっ
はっはっは、
彼女はまた大きく笑った。
「さすが元野球部ですね。なんでも一生懸命なところ、私大好きです!」
「俺もあなたの熱い優しさが大好きです!」
試合は母校の勝利に終わった。
かつて俺も歌った熱い友情の歌詞、勝利を称える応援部の力強い校歌が、この球場に鳴り響いた。
初雁球場物語 忌川遊 @1098944
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