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       ◆


 新居には説明のとおりにやはり窓が一個も無く、音声操作で照明を落としたら呆気なくあの十五年間慣れ親しんだ地下室の闇が視界と世界をべっとり塗り替える。続きなんだ、とおもった。考えないように、考えないように、気をつけてたけど。


 僕はベッドへからだを投げだしていた。医師さんたちが帰ったあと奥の寝室に引っこんで鍵をかけて視覚からの情報をゼロにして。まともに間取りの確認もしなかった。ドアを開けてすぐぱっと目に入ったでっかいベッドへ直行した。


 独りの空間に自分の呼吸が耳障りだ。


 やわらかい手触りを何往復かさせて撫でると、布団の表面からかすかに摩擦音が響いて、ひそやかに、なんだか人権が許されたような錯覚をした。


 どくん。どくん。どくん……。


 受け取っちゃいけない人権をそうと知りつつ受け取るのってたぶんめちゃくちゃよくないことだよ。


 乾いた嘲笑が自分の口からほとばしってるということに気づくまで少しかかった。


 ――犯罪者がなにをのたまっているのかね。


 お母さん。お父さん……。


 すっごく馬鹿みたいだけど、笑ってんのに涙がこぼれた。ぼろっぼろ落ちて高そうな布団が濡れてく。うわわわ。汚れてしまう。止まんない。あはははは……! なにこれ。ははは、あっははははははは!


 好きで孤独だったわけじゃないけど孤独じゃなくなるのは嫌いだ。


 高層の病棟で戦闘職員さんが治療を受け終わり、不死者が殺されて生き返り、僕の処遇が言い渡されたのちに、課長が怒りながら退室した直後だった、わずかに窓が開いてるせいで蒸し暑くなった血だらけの病室で、けらりと笑う僕にあの人は言ったのだ。ほかの人たちはあっちで新米検閲官に用意するデスクとか制服とかの相談をしててこちらには注意を払ってなかった。言われた言葉に僕は驚いて相手を見あげた。


 燃えるような赤毛の青年は右側の義手に握った拳銃を死角になるようからだで隠して僕へ押しつけ、もう一度同じ台詞を言った。


「あんた、気持ち悪いな」


「わはは。初対面の年下女子に向けた挨拶文としてわりと最悪のチョイスだよ、君。こちらこそ初めまして、ロットー・Tといいます、よろしくね」


 殺人も厭わないといった感じの冷たい双眸をしたSランク戦闘職員は、課長を護衛するために此処に連れてこられた挙句その課長に障害者呼ばわりされて、腹を立ててるのかもしれなかった。


「……地獄から。出てきたと認識しているだろ。よって無様にヘラヘラしていられる」


 絶対零度の眼光で赤毛の青年はなにかを嫌悪するみたいに僕を睨みつける。僕ではないなにかを、睨みつけてる。


「てへっ。笑顔がキュートだって? 照れるーぅ」


「あんたを見ていると吐き気がする」


「そ? 僕は親切だから〈吐き気止め〉もしくは〈視力永久封印〉を名無しの権兵衛くんにかけてあげるけど、君、どっちがいい?」


「……地獄とは、安全地帯へ逃げ延びたあとに姿を現す、遅効性の呪いのことをいう。あんたの虫酸の走るにやけ顔があと何年もつか見ものだな、墓無しの魔術師」


「ロットー・Tって名乗ってんじゃんんん、名乗られたらそれ使おうよ、名無しの権兵衛くんってば」


「墓無しの、魔術師」


 わざわざ繰り返しやがった。そしてそれだけだったのだ。ほかにはなにもなくて、赤毛の青年は撃たなかったしただ言いたい放題言い捨てて去った。


 優しいやわらかさの布団の上で僕は存分に大笑いしてる。空間を引き裂いて絶笑する。照明を消した窓の無い寝室は視覚的に地下室と同じだけれど、でも暗闇の匂いもかたちも感触もあまりに違いすぎるから、どうしてもあたたかく感じてしまう。混乱してる。受け取っちゃいけないんだ、でしょ?


 〈治癒〉の最中ずっと戦闘職員さんが浮かべてた苦悶の表情について考えた。医療魔法には痛みが伴う。僕であればあんな金切り声を必要としない〈治癒〉を提案できる。一般人数十人分の魔力を持ってるもん。


 それだけじゃない。大抵の魔法は一回見れば解析できるし、忘れない。何十万文字もある魔法陣をさくっと暗記できるのは魔術師だからだ。要人の自殺を止める仕事で、僕はおおいに貢献できるだろう。罪滅ぼしのひとつになる可能性はある。


 教師然としたゼクーくんの声が淡々と記憶のなかから再生される。


 ――「墓無し」という言葉がある。殺人を一度でも犯したことのある人間は、死したあと遺体が霧散するため、墓は作られないことから、こう呼ばれる。魔法の副作用として約七百年前の第一次魔法期以降に見られるようになった現象だが、いまだ仕組みは解明されていない。さて……。


 風の吹きすさぶ音がごおおっと耳にこびりついてる。病棟で、半分だけ開けられた片開き窓から、夏の残り香を運びこんでた風だ。遅効性の呪いの音だった。


 ごおおっ。


 呪いを外から読みとることはほとんど不可能だ。呪縛とは、静かなものと決まってるから。陽の届かない深みの奥に沈みこみ独り海の底でのたうちまわったって海面は波立たない。其処でどんなにおおきく悲鳴をあげても僕たちの耳には風しか聞こえないのだ。


 ごおおっ。


 〈呪い〉。言われなきゃ見逃しそうになるくらい精密な陣の絨毯。


 ゼクーくんの半径数メートルがむせ返るほどの〈呪い〉で埋め尽くされてるってことを、説明無しに見抜く人間は僕のほかに何人いるだろうか。無邪気にクレヨンを振りまわす六歳の少年と、四歳でジサツミスイをした寝たきりの妹ちゃんはどうなるのかな。


 静かで残酷な〈呪い〉を抱えた人はきっといくらでも存在してて、僕は彼らへほんのちょっとだけ手を差し伸べられる(かもしれない)才能を生まれ持って、自由を手に入れ、身分証も与えられて、今此処にいる。


 ――犯罪者がなにをのたまっているのかね。


 冷水を頭からかぶったみたいに、鋭利な震えが止まらない。


 揺れてた天秤がいっきに傾く。


 ――墓無しの魔術師。


 あはは、この世すごーい。


 名無しの権兵衛くんの言うとおりだ。地獄を出ることができたと浮かれてた。浮かれていたかった。駄目かな? 駄目だよね。生まれて初めて身の安全が保障された今日という日に僕は、どんな顔をするのが歴史的に正しいですか?


 ごおおっ。


 海底の僕に気づく者はいないので大丈夫だ。風が掻き消してくれる。海面は波立たない。


 受け取るのを禁じられた人権を受け取らないでいることが、僕にできるいっとう誠実な答えだった。


 知らない人が低く自殺の方法を囁いてくれたような気がした。


 他者へ危害が及ぶことを避けるために、来客の予定も無いこの広さの一人部屋で、わざわざ自分限定の記名方式をとる。


 陣を折りたたむ特殊な方法を何年もかけて編みだし、決行時に部屋の外を偶然通りかかるかもしれない誰かに万が一にも魔法が触れることのないよう、念には念を入れる。


 慎重に。


 やる。


 僕は、もう、殺したくないから。


 ――償いは過程でしかなく、決して終わらない。


 地下室で中断した〈攻撃〉を再び書いて発動するまで、魔術師には一秒も要らなかった。

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