あの日の夜の白煙の

今井士郎

夏の日と、秋の夜

『登場人物は、3~4名?』

『プロット作成後に声かけ開始』

『手持ちネタ

 ・ペルソナ葬儀 三つの酒場

 ・ラプラスの悪魔と書店員

 ・隠し部屋の釣り竿

 どれか使える?』

『この感じだと、活字でブレストするよりノート使った方がいいんじゃないかなぁ』

『書けん』

『うーむ……』


 途切れ途切れに、ここまで書いたところでキーボードに指が張り付いた。ディスプレイには意味のない文字列……というより、ひたすら「あ」が並んでいく。四行ほど「あ」が並んだところで、ひらがなの入力上限に到達してしまい、ディスプレイは「あ」を迎え入れるのをやめた。

「書けねえんだけど?」

 俺は、恨めしいんだか情けないんだかよく分からない表情で振り向く。中古で購入して数年、俺の腰を守り続けてくれたオフィスチェアが、微かに音を立てた。

「知らねぇよ」

 視線の先の男は、顔の前、頭の上に掲げた漫画から目を逸らし、上目遣いにこちらを見て、素っ気なく言った。人んちのベッドで寝そべりやがって。優雅だなおい。

「知れよ」

「知れよって何だよ」

「知らねぇよ」

 デスクに向き直った俺は、両の親指でこめかみを揉む。視線の先には、『あ』が書き散らされたディスプレイがあった。

 書いた分しか原稿は進まない。世界はなんと不思議で理不尽なことであろうか。ギブミー靴屋の小人。世界は君たちを求めている。俺が黙ると、外の猛暑にも関わらずひんやりとした空気を保ってくれているエアコンの、微かな音だけが部屋に響いた。

 俺の部屋には三十手前のオッサンが二人。なにも起きない訳がなく。「二人のうち一人が、物語を書けずに頭を抱えつつ、嘆いて呻いて世を儚む」という事態が起きた。そうです俺はカスですゴミクズです。

「だいたい、いきなり脚本書けって言われて、書けると思うか?」

 俺は再度振り返る。

「いきなりじゃねぇよ、半月あったろ」

 今度は漫画から目を離さず、返事が返ってきた。


 そう。半月前だ。

 目の前で寝そべる男、三村が、急に連絡を寄越してきた。

『年末、久しぶりに公演打とうぜ』『だから新作よろしく』と。

 メッセージアプリのタイムスタンプが、やりとり自体数年ぶりであることを示している。『こいつは何を言ってるんだ?』というスタンプを複数返したが、三村が返してきたスタンプは、勢いよくサムズアップするポニーテールの美少女だった。

 俺と三村は、アマチュア演劇仲間。大学時代の四年間と、就職してからの二年ほど、一緒に公演を打ってきた仲だ。同学年で演劇サークルに入り、大学も三年になった頃からは、脚本・演出の俺と、舞台監督の三村が中心になってメンバーを集めるのが恒例になっていた。役者もスタッフもめまぐるしく入れ替わる中、俺たちのコンビはなんとなく続いて。

 大学の演劇サークルと言えば、男女がくっついたり離れたりがつきものであるが、残念ながら、俺にそういう話はなかった。女子との距離の詰め方なんて、未だに分からない。気になった女子はいないでもなかったが、もしアプローチをかけていたら、本格的に嫌われて公演直前にキャストが離脱、なんてことも起きていたかもしれない。たらればを話せばキリがないが、チャレンジしなかったのは、多分正解だったのだと思う。三村はバイト先やらクラスやらでひっきりなしに彼女を作っていたようだが、ちらりと聞いたくらいだ。


 社会人になってもしぶとく続けていた演劇だが、三年目に入ったところで、一旦ギブアップした。割と定時に上がれていた新人時代が終わり、二人とも仕事の拘束時間が増えてきたからだ。二十二時に帰宅し、日付が変わってから脚本を書く、なんて生活を試してみたこともあったが、メンタルが病みそうになって早々に諦めた。大学時代や新人時代にも、夜中に執筆することはあった。しかし、余裕がある生活の単なる夜更かしと、体力ギリギリの生活にネジ込む深夜作業は違うのだ。言いたかないが、歳を食って体力も多少は落ちてきているのだろうし。

 芝居を続けていた頃も、習作を日常的に書いていたわけではない。公演に向けてようやくひねり出した第一稿に、やれ盛り上がりに欠けるだの、やれ登場人物の台詞がおかしいだのと散々なケチを付けられながらリテイクして、なんとか公演に間に合わせているだけだった。俺は世にあふれる「息をするように創作」している輩とは違う。

 小説や漫画と違って、脚本は半完成品。『脚本』として完成しても、そこに役者の演技が、各種スタッフの努力が上乗せされることで、脚本家の脳内よりも、世界はずっと広がってくれる。アマチュアなら、脚本「に」上乗せされるだけでなく、仲間の意見で脚本「が」何度も何度も生まれ変わっていく。ちょっと固くて突飛さがなくて、しかしメインのストーリーラインだけはしっかり構えている俺の作品は、他人の力を借りて、ようやくエンターテイメントとしての広がりを得るのだった。

 自分一人では、物語を完成させられない世界。才能も根性もなく、しかし『おはなし』を書くことに強い憧れがあった俺には、ちょうどいい世界だったのだと思う。

 ……とはいえ、周囲から本格的にケチを付けてもらえるのは、叩き台になる第一稿を完成させてから。まずはプロットを作ってやらないといけない。生まれ変わらせるためには、まず生まれなくてはならないのだ。

 ……で、『面白い』って、なんだっけ?

「……書けんわ」

「頑張れ」

「このやろう……」

 そういえば

「ずいぶん急だったけど、他の誰か、もう座組に入ってるん?」

 公演を思い立った三村が最初に声をかけたのが、長い付き合いの俺だったのかもしれない。

 でも、その前に誰かと意気投合して「公演打とうぜ!」となっていたのかもしれない。

「役者で、設楽はいる」

「へー」

 設楽さん。二コ下の女の子。

 俺たちが四年の頃、二年生でサークルに入ってきた子、だったと思う。俺たちの作品に出演したのは、社会人時代含めて三回くらいだったろうか。

 役者としては、俺たちのサークルの中で平均よりちょい上。本番が近付くと、不安そうに思い詰めた顔をしている子だった。

「連絡取ってるんだ」

「あー、来年、結婚する」

「え?」

 途方に暮れる自分と、やけに納得している自分を感じる。

 そうだよね、俺たちもいい歳だしね。

 三村はモテる方だったしね。死ね。

「で、アレか。『結婚前の最後の思い出に、演劇したいなー』か」

「それ」

「クソが」

 死ねと言わなかっただけでも褒めて欲しい。

「でも、式の準備とか大丈夫なの?」

 多少の平和な嫉妬心はあれど、大人だからね。俺はトーンを平静に戻して言った。

「式はだいぶ先だから」

「設楽さんねぇ……」

 彼女のことは、タバコの香りと一緒に思い出す。


「真壁さんって、吸うんですか」

 ちょっと意外そうな声だった。

 そりゃそうだよね、普段の飲み会でも吸ってないし、実際、普段から吸ってる訳でもなし。

「いや、今だけ。なんか刺激にならんかなと思って」

 大学構内の喫煙所。屋外にぽつんと設けられたそこは、俺たちが卒業した数年後には閉鎖されたのだと聞く。役者たちが練習をする学生会館と、売店を擁する生協の明かりが、遠くもなく近くもなく見える位置だった。大声自慢の役者たちだったら、ここから建物まで声を届かせることもできるだろう。

「脚本、いつできるんですか?」

「んー……、今月中には?」

「練習、二ヶ月しかできないんですか!?」

 今の俺に言わせれば、二ヶ月『も』だ。大学の施設で、授業の合間に、週に何度も練習ができるのだ、週末だけの3ヶ月で作品を作り上げる社会人劇団基準で言うと、恵まれすぎている。

 ……まぁ、学生劇団には「メンバーの大半が、全くの演劇未経験である」という巨大なディスアドバンテージがあるのだが。

 二年生で我がサークルに合流した設楽さんは、今回が初の舞台になる。彼女には経験も知識もないし、今は役柄の軽重も分からない訳だ。作品をひねり出せない脚本家のせいでな。はっは。

 室内で体を動かしていた設楽さんは半袖Tシャツ。屋外で突っ立ってる俺は長袖シャツ。脚本を手元に持たない役者連中は、基礎練習と称する謎のダンスをしていたのだろう。僅かに汗ばんだ設楽さんは涼しい風に目を細めているが、三ヶ月後の本番の頃は、すっかりコートが必要な季節のはずだ。

「できる限り前倒しするからさ。『水木』をどうやって逃がせばお話が成立するかなって」

「え? そこ、まだ考えてないんですか?」

「俺なんぞの発想力でオチまで決めてたら、チマチマしすぎるの。どうやってなんとかするかは、登場人物と、未来の俺に任せて、まずは書き始めるし、書き進めんのよ」

「へー。……脚本書けるって、凄いですよね」

 俺に言わせれば、わざわざ舞台に上がって、スポットライトを浴びて、生の観客の目の前で演技をできる役者という人種の方がどうかしている。俺には、絵を描ける感覚も、楽器を弾ける感覚も分からない。だから、まぁ、俺程度の素人芸であっても、できない人にとっては「凄い」のだろう。俺は曖昧に「ありがと」と笑って頷いた。

「ここまでで、気に入ってる登場人物いる?」

「『佐原』いいですよね。普段はお調子者ぶってるのに、芯は真面目な感じで」

「え、マジ!?」

「え? なんですか?」

『佐原』は、とにかく軽い人物として書いていた。芯の真面目さなんて、ここまで意識したことはない。根が真面目に見えたとしたら、作者のガチガチな性格が透けて見えてしまったのだろう。

 ……といったことを設楽さんに説明して、「まぁ、深み深み」と付け足しておいた。キャラが多面的に見えるのは良いことだ。

「そういう勘違い、起きるんですねぇ」

「脚本家の脳内からは、活字しか出せないからねぇ。そういうとこも含めて演劇だから。役者が面白くしてくれる分には歓迎よ」

 いいながら、新たな一本に火を点けた。

「おいしいんですか?」

「俺も、口元でスパスパやってるだけだし。深ーく吸ったらむせるんだと思う。良い香りだとは思うけど」

「吸ってみてもいいですか?」

「ハタチ超えてたっけ?」

「先月、誕生日でした」

「ハッピーバースデートゥーユー」

 ほんのりとメロディラインに乗せながら、俺は一本のタバコを差し出した。

 日本で一番売れている銘柄らしい。この数年前に名前が変わって、コンビニバイトの呪詛がネットと教室に飛び交っていた。

「はい、吸って」

 言いながら、彼女の咥えたタバコに火を点けてやる。

 一口息を吸い込んだ設楽さんは、微かに視線を逸らしながら、気取った表情で煙を吐き出した。そして照れたように笑う。

 非喫煙者が、二人きりでタバコを吸っているおかしな光景。

 悲しいことに、我が人生でも指折りでドラマチックな絵だったと思う。 創作の世界だったら、こんなシーンを共に過ごした男女は完全に両思いなのだが。現実には「友人」として、「知人」としての親愛という奴があり、「男女として距離を詰められるとちょっと」という関係性が、確かにあるのだ。挨拶すれば好きになっちゃう、いまいちイケてない男子大学生の基準を、女性側に要求してはいけない。

「あ、良いですね。香りは」

 次の一口を深く吸い込んで見た設楽さんは、今度は苦しそうに咳き込んだ。

「そう思う? 見込みあるね。今日は念入りに歯磨きした方が良いよ。明日の朝、口が臭くてびっくりするから」

「そうなんですか」

 そうなんですよ、と呟き、割と近めの女性の顔をぼんやり眺めながら、俺は作品の世界の妄想に意識を飛ばした。

 主人公の水木は、ヤクザになぜか大物と誤解されたカタギのサラリーマン。客人対応の組事務所から、正体を隠したままで逃げ出さなくてはならない。

 喫煙者割合の多い密室。もうもうと立ちこめる煙。緊張と恐怖。勧められるタバコ。固辞する水木。誤ってバケツの水をぶちまける佐原。まだ長いタバコを眺めながら、手持ちぶさたそうな設楽さん。ん?

「無理に吸わなくて良いよ。先っぽをぐりぐり、ってやって、火ぃ消せば良いから」

「はーい。じゃあ、ごちそうさまでした。休憩終わるんで戻りますね」

 喫煙者が見たらもったいないと嘆くんだろうな、という長さを残して、白い棒が箱の中に消えていった。

「うん、稽古場は後で覗くかも。顔出さないで帰るかもしれないから、その時は『探さないでください』で」

 はーい、と再度声を発して、軽やかな足取りで彼女は建物に向かっていく。

 純粋な二人きりで彼女と会話したのは、あれが最初で最後だった気がする。


 そういえば、大学時代に『好きな子』はいなかったなと思う。

 女性に対する好意と下心は分かるが、正直「恋愛」という種類の好意なのだと自信を持てたことはない。

 目の前の男は、そういう感情と関係性を正常に育んできたのだなと、羨望の気持ちが浮かんだ。

「設楽さん、幸せにしろよ」

「そんなに仲良かったっけ?」

「そこまででもないかな」

「なんだよ」

 お幸せに。

 意外と素直な気持ちでそんな言葉が出てきたことに驚きながら、ディスプレイに目を戻した。

 ネタ候補に、ラプラスの悪魔がいたな。現在の全てを知っている故に、未来の全ても見通せる悪魔。

 カタカナついでにあの概念も入れたら良いんじゃないかな。メビウス。 メビウスの輪。暗示するのは「永遠」。

 全知の悪魔として漂う永遠。嫌すぎる。悪夢でしかない。自分だったらごめん被る。

 しかし、だから良いんじゃないか。創作なんだから。


「ネタ、できるかも」

 ぼやいた俺は、改めてキーボードを叩き始めた。

 あの時の香りがやけに恋しい。しかし手元には一本のタバコもない。

 口元の寂しさは、セリフとアイデアをぼやくことでごまかして、俺は物語を紡ぐ。

 こんなにもドラマチックでない我が人生。しかし、常にドラマと隣合わせなのだ。

 こんなもの、幸運だと思うしかないじゃないか。

(了)

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あの日の夜の白煙の 今井士郎 @shiroimai

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