泳ぐ

豊原森人

泳ぐ


 絶え間ない振動と、土の匂い。年式の古い軽バンらしい、唸るようなエンジン音。そして、後席の、貨物車特有のベンチシートという、まず居心地が悪い、この環境の中でも、増田碧ますだあおいは、数時間に及ぶ、新幹線での移動からくる疲れから、窓に頭を預け、駅から、父の実家にあたる、本家までの約二十分、浅い眠りについてしまった。しかし、車が停まった気配と同時に、運転をしてくれた伯父が――普段は畑仕事ぐらいにしか使わず、人を乗せることは滅多にない故に、人知れず緊張していたものか、一つ息を吐いてから、

「よし……美枝子さん。碧ちゃん起こしてやってくれ」

 との言葉を向けてくれる。これに碧は、隣に座る母親に起こされるのが、親戚の手前、子ども扱いされるみたいでカッコ悪いような気がし、

「起きてぇるよ」

 母に声をかけられる前に、毅然と――ただ、明らかに寝起きと分かるふにゃふにゃ声で答え、伸びをすると、彼女の背伸びした心中をさとったのか、苦笑いを浮かべる母親を視界の片隅で見ながら、すぐさまドアを開けて、実に五年ぶりとなる、本家の姿――海沿いの漁師町に在する、波の音と、爽やかな潮風に包まれた、重厚な、いかにも田舎の家、といった風情の日本家屋を見、長旅の疲れから萎え始めていたテンションは、一気に上がるのだった。


 八月の盆休みを利用して、N県の父方の実家に帰省をするのは、増田家の恒例行事であった。普段は都心で過ごす碧にとって、綺麗な海と、緑豊かな自然に囲まれた、田舎の原風景とも言えるこの地で、二泊三日、海の幸をたんまり食べ、いとこ達と泳ぎ、ぐったりするまで遊ぶのは、夏休み最大のイベントとして、物心ついた頃より楽しみにしていたものだった。 

 ただ、近年は、父親が多忙ゆえに盆休みが取れなかったり、本家の都合が悪かったり、悪天候で新幹線が運休したり、といった事情が重なりに重なり、思いがけず五年という、長期のインターバルを置く運びになってしまったが、故に、五年の間で本家の親戚や、三人のいとこたちに、実に久しぶりに会うことになるので、例年以上に、心躍らせながら、碧はこの日を迎えたのだった。


 真っ先に荷物を玄関に置くと、早くもエンジン音を聞いて来たものか、伯母や、祖母が玄関で出迎えてくれ、皆一様に、嬉しそうな表情で、

「大きくなったねェ!」

「すっかり美人さんになって!」

 など、五年前はまだまだちんちくりんでわんぱくだった碧の変わりように、驚嘆してくれる。彼女たちからすれば、往時は髪をショートにバッサリ切り揃え、こと遊びに行く際は、何かにつけ、二人の従兄弟に負けないくらいのヤンチャぶりを発揮していた碧が、背も髪も伸び、年相応に落ち着いた、大人の女性、と呼べるような変貌を遂げていたので、そんな彼女の姿を目の当たりにすれば、そうした反応をするのもムリはなかった。もっとも、彼女らからのこうした言葉は、毎年帰省した際のテンプレめいたやりとりではあったのだが、やはり十一歳から十六歳という、成長期を経た五年の歳月は大きかったようで、例年にも増して、テンションが高いものがあり、それが碧には、ちょっとくすぐったい思いだった。この反応は、すぐ後に慌しく階段を下りてきた、それぞれニつ、一つ年上の、いとこにあたる、りょうあきらも同様で、

「おっす、久しぶり!」

 そう言って碧が手を振ると、二人ともニヤニヤしながら近づいてきて、

「碧! うわっ、すげぇな」

 遼は口元に手を当てて吹き出しながらそんな事を言い、晃もまた、

「びっくりしたなぁ、誰かと思った!」

 日焼けした黒々しい肌と対照的な、白い歯を見せて笑うのだった。その二人の姿は碧とは対照的に――共に五年分成長した故、遼はヒョロいとも言える、細長い体躯をしていたのが、筋肉をミッシリつけ、また、かつての細い風貌をさらに印象付けていた、女性的とも言える、ツヤツヤのオカッパ頭は、短く刈り込んでいて、男臭い、いかにも海の男、というような姿に変わっていた。そして晃もまた、背もすっかり伸び、ストパーをかけて整えているのであろう、サラッとした長めの髪を揺らした、いかにもしゃれっ気が出てきた男子高校生という感じだったので、そこに五年前の、イガグリ頭で、碧や遼と比べると、とりわけヤンチャで、悪ガキだった、田舎の野球少年然とした風貌は面影もなく、

「そっちこそ! うわぁ、二人とも、背伸びたね」

「そりゃ伸びるて! お前もなんだ、すげぇ女じゃん!」

「晃より高いろ? 百七十後半くらい?」

「無いわ! ていうか私、生まれてからずっと女だけど!?」

 五年ぶりということもあって、どうでもよい会話でもすっかり盛り上がってしまい、場は笑いに包まれるのだった。そして、

「あれ? マユちゃんは?」

 この家の三きょうだいの末っ子にあたる、同い年の、もう一人の従姉妹――真弓まゆみの姿を探すと、

「アイツは買出し、こないだ免許取ったっけ」

 遼が答えるのだが、免許、という言葉にふと違和感を感じ、

「めんきょ?」

「こないだ原付の免許取ったんだて」

「なっ! ウッソでしょ? あの子バイクなんか乗るの?」

 原付バイクというものが、どうにも思い描いている、真弓のイメージにまるで合わず、碧はただひたすらに驚倒する。

 晃は、予想通りの反応を見せてくれた碧に対し、満足げに笑みを浮かべて、

「高校がここからだと遠いし、電車もバスもそんな無いから、学校から許可貰って、バイク通学してんだよ。バイクは兄貴のお下がりだけどな」

「バイク通学!! まーじで?」

 あまりにもイメージとのギャップがありすぎて、遠慮ナシにゲラゲラと笑う碧であったが、その時、丁度玄関より、ビビビ、という、エンジン音が聞こえてきて、

「お、噂をすれば」

 遼がサンダルを引っ掛けて、玄関から飛び出し、

「マユ! おじさん達来たぞ!」

 声をかける後ろを、碧も必死についてゆく。

「ホント?」

 そう声がするほうを、遼の後ろから、碧が窺うと――まず見えたのは、黒い、スポーツタイプの原付スクーターで、前カゴがついており、そこに、買い物袋がギッチリ詰まっているのが見て取れた。

 その傍ら、ヘルメットを脱ぎ、碧の方へ、笑顔で走ってくる、一人の少女――

 

 そこに、五年前の真弓とは、まるで別人の姿があった。


 碧は、一瞬、目の前の人物が真弓とは、信じられなかった。

 髪を無造作に伸ばした、野暮ったい印象のロングヘアで、本来パッチリとした二重瞼を、眠そうに細め、伏し目がちに他人の顔色を伺い――地味な見た目を裏切らない、何につけても消極的で内向きな性格。上にさほど歳も離れていない、加えてヤンチャな気質の兄である晃がいる反動からか、兎角幼少時の真弓は、総じて大人しい子、というのが、碧の印象であった。

 しかし、眼前の少女はどうだろうか。往時より身長はグッと高くなり、健康的に日焼けした肌に、明るいボーダー柄のノースリーブと、デニムのショートパンツという格好で、サラとした髪をポニーテールにまとめ、いかにもスポーツをやっていそうな、快活さと、セクシーさを十二分に漂わせている――少なからず、五年前までの真弓とは、まるで正反対な少女が、そこにいたのだ。

 碧が暫し唖然としていると、

「碧ちゃん、元気だった?」

 手を握って、嬉しそうにはにかんでくるその表情は、紛れもなく真弓の――五年分成長した、眩しいばかりの笑顔だったので、

「ちょ、ええ……どうしたのそんな」

 もはや絶句するしかなく、引き気味の笑顔を碧も浮かべてしまうが、真弓は、その反応に、満足げと言うか――どこか自信たっぷりというような、真っ直ぐとした瞳で嬉しそうに碧を見据え、

「ふふふ、五年前と比べてどう?」

 そんな事を言うので、そのキラキラとした目で見つめられたことに、何とも言えない、ドキリとした感情を覚え、それをさとられないように、視界の片隅の、遼と晃に、一体彼女に何があったのか、事の仔細を尋ねようとした瞬間、父親が、玄関からニュッと顔を出して、

「碧。まずはご先祖に挨拶」 

 たしなめる様に言って来るので、

「あ……と、とりあえず、お参りしてくるね」

 謎の、胸の高鳴りを抑えながら、その場を離れ、仏間に向かう。その中途、

「さっきの子は?」

 興味津々、という様子で、父が聞いてくるので、

「マユちゃんだよ」

 とだけ答えると、あからさまに目を丸くして、驚いた、という表情を浮かべてから、

「……すっかり色気づいたな」

 感慨深そうにボソっと言うのだが、その言葉を聞いた瞬間、ハッ、と、十六歳という年を考えれば、彼女にだって、彼氏がいてもおかしくない事に気づいてしまう。地味な女子が、恋人が出来てから、所謂女磨きに力を入れ、大胆なイメチェンをすることはよく聞く話だ。

 なるほど、カレシが出来たのか。

 そう一人合点する碧であったが、心中には、一方同い年の自分が、彼氏のカの字もなく、異性を意識することも無く、女友達とバカ騒ぎをしながら日々青春を過ごしていることに、ちょっとしたむなしさと、それとはまた別な――正体不明の寂しいような思いが沸き起こってくるのだった。


 例年、この永山家の盆というのは、碧たちの来訪からはじまるようなもので、まず碧たちが仏間でお参りを終えた後、外から取ってきた出前でもって昼食を取り、そこから大人たちは、仏壇参りにやってくる、分家や、隣町に住む遠縁の親戚の相手をする一方、子供たちは、海で、夕方までタップリ遊ぶのが、毎年恒例であった。

 五年ぶりとなった今回もその例に漏れず、同じようなタイムテーブルで過ごすことになるのだが、この年は――真弓の華麗なる変貌のおかげで、驚きの連続を味わうことになるのだった。

 お参りを終え、客間にて一息ついた後、店屋物を取るべく、同じ町内に在する、定食家の出前メニューを広げて、なんでも好きなものを頼むようにと、顔を皺くちゃにして笑う祖母に、各々礼を言いながら、まずは子供たちが、目を輝かせながら、品を決めてゆく。ゴシック体で印字された、定食類、麺類、丼物の、選り取り見取りなメニューを眺めながら、真剣な顔つきで持って思案していた碧であったが、隣の真弓が、ここでいの一番に、

「あたし、うな重にする!」

 元気にそう宣言するのだが、これに、碧は内心で、エッ!? と困惑してしまう。碧の記憶の限りの彼女は、こうした場面では、他人の顔色を窺うように、ラーメンとか、親子丼とか、軽めで値段も安い、当たり障りの無いメニューを選び、ほんとうにこれでいいの? と祖母に優しく聞かれても、黙って首を縦に振る、実に遠慮がちな子供だったのだ。

 それが、うな重、である。値段も中々にする上、胃にもズッシリ来るものを、無遠慮とは決して言えない――ニッコリ笑って、嬉しそうに頼む彼女の姿を見ると、やはり五年の間に、とんでもない心境の変化があったことを、察さざるを得なくなるのだった。

 その後、遼と晃がミックスフライ定食と焼肉丼、そして碧は悩みに悩んだ挙句、五目焼きそばに決め、各々の品を祖母が電話で注文している最中、

「マユちゃん、うな重なんか食べるようになったんだ」

 何気なく、言葉を向けると、

「せっかくだからね! それに来週、県大会もあるし、スタミナつけないと」

「県大会? 何の?」

「水泳。あたし水泳部だよ、高校で」

 テーブルに頬杖をつきながら、ふふ、と笑うのだが、

「は……すいえいぶ……?」

 目を点にして、ぽかんとしてしまうのだった。五年前の彼女は、どちらかというと読書とかゲーム類を好むインドア派であり、尚且つ、運動神経は、お世辞にもいいとはいえなかったのだ。この点、碧は幼少時より、彼女の性質として、十分に理解しているところだった。

 例えば、七年前のこと――伯母から小遣いを貰って、近所の商店へお菓子を買いに行く時だった。玄関の戸を閉めた瞬間、晃が、

「ビリっけつはお菓子なしな! よーいドン!」

 勝手にルールを叫んだ後に走り出し、続いて遼も、

「汚ねぇ!」

 笑いながらダッシュするので、運動にはそれなりに自信がある碧は、追い抜いてやろうと意気込んで走るのだが、その後をついていった真弓は、もののニ、三十メートル走っただけで息が上がり、へばってしまうので、その際のまって、まって、と叫ぶ彼女があまりにもかわいそうで仕方なく、途中で引き返して、ペースを合わせて歩きながら店に着き、その際、晃が、勝鬨の声を上げながら、真弓のトロさをしつっこくからかうのを、ちょっと語気を強めにして、窘めたことがあった。

 また、毎年恒例の海水浴でも、カナヅチの真弓は、皆でビーチバレーで遊んだり、砂浜でキレイな貝殻を探したりする以外は、基本的に浮き輪と共に波間をぷかぷか浮いているので、そんな彼女を差し置いて、遼と晃は、遠泳をしたり、すぐ近くの岩場から飛び降りたりし、主に晃が、

「ここまで来てみろ!」

 とか、

「来れないのかよ、ダッセェ!」

 なんておちょくる事が番度あり、その度に悔しそうに唇を噛み締めながら知らんぷりをする真弓という状況は、これまた、毎年恒例というか、この四人にとって夏の風物詩めいたものになっていた。そして、真弓の仇を取らんと、碧が晃を追いかけ、それを一歩引いて見守る遼、という構図もまた、お決まりになっていた。

 そんな記憶のページをめくってゆくと、運動神経が鈍く、泳げない真弓と水泳部というワードは、どうしても繋がることがなく、暫し呆然としていたが、その間もまた、スイミングスクールに、急に思い立って、五年前より通い始め、中学から水泳部に所属し、三年次の県大会では、個人種目で三位入賞したことや、八月の頭にあったという、夏合宿のトレーニングで、十キロ近いマラソンコースを、一年生部員ではトップでゴールしたことなど、真弓の水泳に関する話題が、真弓と、遼、晃、そして、出前が来るまでの間に、ビールと枝豆で場を繋いでいた大人たちから矢継ぎ早に飛んでくるので、それに調子を合わせて会話を返すのに、碧は精一杯になってしまう。

 そうこうしている内に出前が到着し、一同、各々の品を食べ始めるが、真弓は、二人の兄に負けないくらいのペースでがっつき、あっという間にうな重を平らげるので、ノロノロと丼に箸をつけ、三分の一ほど残ったものを、二人の兄に引き受けてもらっていた、かつての姿から想像も出来ない食べっぷりにもまた、驚いてしまうのだった。

 

 さて、そうして昼食を終えると、早速、各々タオルと着替え類、浮き輪、ビーチボール、そして水着を持ち、家々や畑を縫うように、浜へ走ってゆく。三百メートルも行けば、防潮林が見え、それを抜けると、殆ど地元民しか知らない、およそ五十メートルに渡って続く白い砂浜と、ちょっと大き目の岩が両脇に連なった、穴場の海水浴場にたどり着くのだ。底抜けに青い空の西側には、太陽がサンサンと照り、その陽光は、南方のリゾート地と遜色ない、透き通った海をより輝かせていた。

 すでに出発前、海パンにTシャツという、準備万端の格好だった遼と晃は、奇声を上げながらシャツとサンダルを脱ぎ捨てて海へ走り、思い切りダイブした後は、ただひたすら、ジャブジャブ泳いだり、水をかけ合ったりしているので、

「ほんと、男子ってやつは」

「ねー。子供だよねぇ」

 大人な目線で見つつ、碧と真弓は、近場の岩陰で服を脱ぎ、水着に着替えるのだが、持参したラップタオルを巻き、モゾモゾ着替えをする碧の横で、真弓は、岩影とはいえ、タオルも巻かずに、その場で真っ裸になる。彼女は、先に述べたように、内気で大人しいゆえ、往時から恥ずかしがり屋な面もあり、こと、こうした着替えの場では、見るものと言えば碧ぐらいしかいないのに、裸になることについてやけに抵抗がある風情で、チラチラと周りを気にしながら着替えていたものであった。それが、まるで皆見ろ、と言わんばかりに、堂々全裸でいるのもさながら、彼女のプロポーションに、碧は釘付けになってしまう。やはり水泳をしているだけあって、スクール水着の日焼け跡がハッキリと残っている身体は、よく引き締まっており、また、ふんふん鼻歌なんかを歌いながら、着替えている水着も、水色の模様がポイントとして入った、いわゆる白ビキニというものであり、それが黒く焼けた肌も相まって、絵になるというか、アニメのピンナップのような、性的とも言える光景だったので、自身の、当たり障りの無いデザインのハイレグと交互に見ると、その何ともいえない野暮ったさに内心苦笑しつつ、改めて、

(マユちゃんが、あんなビキニを着るとは。成長って恐ろしいなぁ……)

 しみじみそんな事を思うのだが、同性である自分から見ても、ついドキドキしてしまうほど、バツグンなスタイルをしている彼女に、つい見とれているうちに、彼女はアッという間に着替え終えて、

「碧ちゃん、先にいくよ! 早く来てねっ」

 そう言ってゴーグルを頭に掛け、岩場から出ようとした真弓は、ふと、動きを止めると、また碧のほうを振り返って、

「ちょっと見てて」

 ニッコリ笑いかけ、碧の反応を待たずして、丁度ジャンプ台のようになっている、海側に突き出た、後方の岩場のほうへ、忍者のようにサッサッと、リズム良く登っていく。その岩場の頂上は、優に三、四メートルの高さがあり、下のほうはちょうど岩場の途切れ目になっている上、海流の関係か、周辺が極端に深くなっているため、飛び込みをするには持って来いの場所であった。一方で、その頂上から飛び込むのは、もっと大人になってから、ということを、幼少期から母にきつく言われており、実際に今まで碧が海に飛び込む時は、その頂上付近にある、せいぜい一メートルちょっとくらいの岩場を使っていたものだった。

 実際見ると、中々に高い場所である。そこから飛び込まんとする碧を見ると、いやに自信満々な、見てろ、と言わんばかりの笑顔が、何だか盛大な死亡フラグように思え、唐突に、碧の心に不安な思いが陰差した。

「おー! いいぞ、行け行け!」

 岩場の頂上で、身体を伸ばすような仕草をし始めた真弓に気づいた晃が、面白そうに煽り始める。

「マユちゃん! 大丈夫?」 

 碧は、少し不安げに、頭上の真弓に声をかけると、真弓は碧の方を見て、笑顔で親指を立て、そして、ゴーグルを装着すると――ぴょん、と岩場から飛び、しなやかな弧を描いて、頭から着水する。一連の動作は、素人の碧が見ても分かる、実に無駄の無い動きであり、また、あの高さから、腕をしっかり伸ばし、頭から飛び込んでゆく彼女の肝の据わりっぷりにも驚嘆する思いで、海から出、ピースサインを送ってくる真弓に、拍手と歓声を送るのだった。


 その後は、ビーチバレーをしたり、砂浜を散策したりしながら、あっという間に日が傾く。泳ぎ疲れ、岩場で一息ついている碧に、遼がサイダーの五百ミリ缶を持って、

「飲むか? おふくろから、小遣い貰ってたんだ」

 差し出してくれたそれを、礼を言って受け取り、すぐと喉を鳴らして飲んだ。近場の自販機で買ってきたのだろう、良く冷えていて、体中に糖と水分が染み渡っていく感覚を覚えながら、岩場に仰向けに転がる。その横に、遼もどっかと腰を下ろして、

「どう、最近?」

 沈黙が照れくさいものか、何となく、といった風情で、聞いてくる。

「特になんもないよぉ。遼くんは?」

「俺も別に。でも、今年で学生最後だから、とりあえず思いっきり遊んでる」

「そっか。家継ぐんだっけ?」

「長男だっけ、仕方ねって。ジイちゃんもボケる前に、俺に色々教えたい、って言ってたから。とりあえず田んぼと畑はオヤジに任せて、俺は暫く修行」

「ホント、海の男だよねぇ」

「そんなカッコイイもんでもねぇけどな。でも跡取りだからって、皆アレコレ小やかましったらねぇよ! オフクロは、彼女がいるかとか、結婚が何だとか、まだ十八だってのに、よっぱらだ」

 笑い合う中で、そこで、彼女、というワードが出たのをきっかけに、碧は思い出したように、

「そうそう! 関係ないけどさ、マユちゃん。私ほんとにびっくりしてるんだけど、絶対カレシできたんでしょ!」

 対面時に抱いた推察を、何気なく口にすると、遼は大笑いして、

「それはねぇよ! アイツ、逆に振ったんだもんな」

 そんな事を言うので、これに碧は、驚愕して、

「どういうこと?」

 困惑の色を隠さず、遼に聞く。

「細かいのは……忘れたけど、後輩から噂は聞いてて、今年、卒業式で同級生に告られて振ったとか、その前に水泳部のOBの、チャラい奴に言い寄られてたとか……根も葉もない噂だし、本人に聞くのもアレだっけ、俺とか晃からは何も言わんけど」

 その話を聞いて、碧は何とも言えない思いを抱いた。彼氏がいないとなれば、あのまるっきり正反対な――陰から陽に変わったキッカケは、一体なんだったのか。それが、どうしたことか、知りたくてたまらず、

「てっきり彼氏とかできたから、イメチェンであんな感じになったのかなー、なんて思ったのよ」

 ストレートに、自身の推論を話すと、遼もまた、思案顔を頭上の晴天に向けながら、

「アイツがあーなったのは、俺も正直よう分からん。水泳始めたり、体をムダに鍛えたりし始めたのは小五の秋とかだったか……」

「小五の秋って、五年前よね?」

「いきなり水泳教室行くとか言って、通い始めたんだっけ……」

「じゃあ、彼氏とかはなんも関係ないのね」

「多分な」

「ふぅん……でもさ、私らの年齢なら、告られたら、よっぽどな奴じゃなきゃ、とりあえず付き合ってみよう、とかならないのかな?」

 そんな素朴な疑問を投げつつ、ここで碧は、中学一年の時に、別なクラスの男子に告白され、付き合い始めたものの、その彼の、当たり障りの無い、いい子ちゃんすぎる性格がどうにも肌に合わず、一緒にいても楽しくない、と感じたちょうど一ヶ月の節目で、碧から別れることを切り出し、先方もまた、どちらかと言えばグイグイ押して、ガンガン引っ張ってゆく強気なタイプである碧と反りが合わないと感じていたものか、とあれアッサリ他人の関係へ戻っていった顛末を、何となく話してみた。それを遼は、相槌を打って聞いた後――そこからまたちょっとした沈黙が流れ、やがて思い出したように、

「俺が思うに……晃が昔からあんな感じだから、それで男ってのが、なんか苦手になってんのかもなぁ」

 との、兄目線での予想を、ボンヤリと呟く。確かに、昔の晃は、碧とは比べ物にならない、悪ガキを絵に描いたような奴だったので、先述のように、色々からかわれたりしていた真弓が、彼を苦手としていたのは、推して知るべし、というところだった。

 ただ、今現在、どこから拾ってきたものか、それぞれサビだらけの銛と、ほとんどゴミのようなタモ網を持ち、浅瀬で小魚を捕まえようと四苦八苦している晃と、真弓のくだけた様子を見ると、どうにも、そんな予想は霧となって、空中へ散らばっていってしまうのだった。


 すっかり夕暮れになり、クタクタになって家に戻ると、夕食の支度が始まっていて、皆代わりばんこに風呂に入りつつ、準備の手伝いをする。するうち、夕食に出すための魚を釣りに、早朝より出掛けていた祖父が帰宅し、巨大な真鯛や、前日の夜のうちに獲っておいたという大ぶりのイカを、得意げにクーラーボックスから出すのを、皆で驚嘆しながら迎え入れ、やがてそれらを、生寿司やオードブル、漬物、煮物と共に、大皿に刺身として並べてから、祖父の挨拶の後、ようやっと一同が打ち揃っての、宴会が始まった。五年の間、積もりに積もった話は、やはり昼間だけでは尽きることなく、また、祖父が加わったこともあって、アレコレ近況を語り合っては、色々な話が、そこいらで爆笑と共にはじけてゆく――いかにも親戚の集まり、というこの状況は、碧にとって久しぶりのことであり、実に楽しい、幸福な時間であった。


 やがて宴もたけなわとなり――大酒飲みである祖父と伯父、そして碧の父の男三人を、焼酎や日本酒の瓶、残りのお菜と共に上座に残して、デザートを待っていた時だった。方言丸出しで、時折爆笑しながら、話に花を咲かせていた祖父が突然、どこか手持ち無沙汰となっていた碧たちに、テーブルから身を乗り出して、

「おいっ、ホレ」

 脂ぎった、浅黒い顔に笑顔を浮かべ、酒臭い息を吐きながら、コトン、と小さいコップに入った、日本酒を勧めてきた。

 この瞬間、碧の頭に、五年前の記憶が、突如、鮮やかに蘇ってきた。それは、長らく封印してきた、思い出したくない記憶である。


 ちょうど、この時と同じようなシチュエーション――五年前の、二泊三日の最終日。夕餉の後、碧の母や伯母、祖母らは手分けして台所で片付けと、デザートの準備をしており、客間では、碧たち四人がテレビゲームをしていた。その客間の上座では、最後の夜ということもあり、しこたま飲ませられた碧の父が、すっかり酔いつぶれ、座布団を枕にしてスヤスヤ寝入っていて、横で、祖父と伯父が、焼酎と日本酒をちゃんぽんに、まだガブガブと飲み続けていたのだ。そこで、ゲームに夢中になっていた子供達に、祖父が、

「飲んでみなっせ!」

 小さいコップに、氷を浮かせた麦焼酎を勧めてきたのだ。それを碧たち四人は、ゲームの手を止め、さて、誰が手をつけるかと、アイコンタクトをするが、好奇心は人一倍強い質があった、悪ガキの晃が、手を伸ばそうとしたところで、折りしもその時、遊んでいた野球ゲームで晃に負けたばかりだった碧は、何か対抗意識のようなものが燃え上がってしまい、晃に取られる前にと、立ち上がり、寸でのところでコップを掴むと、内なる液体を、一気に飲み干してやったのだ。

 祖父と伯父が驚嘆の声を上げ、遼、晃、そして真弓から、惜しみない賛辞が贈られるハズの、自分としては、ちょっと背伸びした、カッコイイことをしたような気分になっていたのだ。

 しかし、当然酒に耐性があるわけもない小学生女児に焼酎ロックは、いけなかった。飲み干したニ、三秒で、胃の腑からたまらない熱さがこみ上げてきて、それは食道を通り、口からどう、と衝撃波のように出てくる。目の前に星が散り、よろけたところで、思わずテーブルに手をついてしまうが、手の先に、飲みかけだったジュースのコップがあり、それは割れこそしなかったが、ガッチャンと、思いのほか大きい音を立てて、テーブル上に倒れてしまうのだ。そして、碧がそのまま、柔道の受身のように、バッタリと転がると、遼と晃がにわかに騒ぎ始め、同時に、コップの音を聞きつけた伯母が、台所から飛んでくる。

 そして、事の顛末を聞いた伯母は、それこそ叱られるヤンチャ坊主の如く、バツが悪そうにうつむいて、さきいかか何かを、ごまかすようにもぐもぐしている祖父と、実の夫であり、この件に関しては正直言ってとばっちりである伯父を、これ以上にない剣幕で叱り飛ばし、その間、碧の母と祖母も台所より戻ってきて、目を回している碧に、大丈夫かとしきりに声をかけるのだが、当の碧は、大丈夫、と言いたくても、如何せん舌も回らず、頭も思った以上にグルグルして仕方ないので、どうかおじいちゃんを責めないで欲しい、という嘆願も、言語不明瞭故に、助けを求めているようにも聞こえたらしく、とりわけ心優しい、孫思いの祖母は、急性アルコール中毒というものではないかと心配し、背中をさすって落ち着かせてくれる。この混沌とした状況の中で、酔いも醒めた様子でシュンする祖父と伯父、怒り狂っている伯母、心配そうに見守る祖母、母、遼、晃、そして真弓――かの光景は、お盆の浮かれた、楽しい夜が一瞬にして台無しになった瞬間として、碧の脳内タンスの奥深くに、思い出したくも無い記憶として、長らく埃を被っていたのだ。


 その記憶が強烈に思い起こされると、さて、目の前のコップをどうしようかと、碧は暫し逡巡する。祖父は、五年前のことなどすっかり忘れた様子で、面白そうにニヤニヤしながら、何も言わずに四人を見やっている。遼と晃に目線を向けると、やはり彼らも、かつての粗相を思い出したものらしく、困ったような視線を送ってくるが、するうち、やはり年長たる自分が言うべきだと思ったものか、遼が、

「やいや、ジイちゃん。前に碧が……」

 苦笑いを浮かべながら、やんわりと断り文句を言おうとした時だった。真弓が、手をニュッと出して、コップを掴んだかと思った瞬間――五年前に、碧がそうしたように、まるで水を飲み干すかのように、中の日本酒を一気に飲んでしまった。

 一瞬の、真弓のスタンドプレーに、碧はもちろん、遼も、晃も、そして酒が入っているとはいえ、まだ完全に出来上がってはいない様子の伯父と碧の父も、同じようなポカン顔を浮かべ、その中で、祖父は、

「よおぉ。ようやった。それでこそ俺の孫だ」

 顔を真っ赤にして、満足げに拍手をする、ぺちぺちという音が、シンとなった客間にこだまする、異様な空気の中で、真弓は、若干顔を赤くして、

「えっへへ、にがぁい」

 卒倒することもなく、碧に笑いかけるのだが、その時の、ぎこちないというか、明らかに無理をしているような笑顔は、不穏な衝動を我慢しているように見え、同時に、台所の片づけを終えた伯母の足音が、遠くの廊下より、こちらに向けて聞こえてくるので、五年前の再現を恐れた碧たちは、まるでスパイ映画のように、アイコンタクトで行動を起こした。まず、晃が、すでにいいパンチを何発か食らったボクサーのように、頭をグラグラさせている真弓を背中におぶり、それを支えながら、碧が障子を開け、外に出るより先に、遼が、日本酒のコップを、祖父たちの、つまみが乗っていた洗い物の皿の一角に紛れ込ませるように置いた後、座椅子に凭れ、軽く眠ってしまっている祖父を、呆れたような苦笑いと共に、一瞥した後、

「このこと、オフクロには言わんで。もう前みたいなんは勘弁」

 伯父と碧の父に釘を刺すと、室より飛び出して行って、丁度廊下の曲がり角まで来ていた様子の、伯母の元へ向かって行き、

「おお、スイカ? 俺が持っていくっけさ、塩と、ジュース。ああ、真弓の分はいらんて。つっかれたんだかなぁ。そこで寝てしもて」

 ごまかすように会話を交わしつつ、再び伯母を台所へ誘導する、その隙に、真弓を背負って部屋を出た晃を先導するように、碧は客間脇の階段を上がり、廊下の右側にある真弓の部屋の扉を開けると、電気とクーラーのスイッチを入れる。そして、

「水と袋持って行くよ」

 入れ違いに部屋に入る晃に、小声で耳打ちしてから、階段を一目散に降りていく。一連の、二度とあの事件を繰り返すまいとした、三人の行動は、長年夏を共にしてきた故の、阿吽の呼吸と呼べるものか、兎角一切の無駄が無い、鮮やかなものであった。


 伯母達が再び客間に戻った気配を、階段脇から感じ取った碧は、コッソリ台所に出向き、その際、それとなく碧の行動を察したのだろう、遼がスッと立ち現れて、彼の指示のもと、粗相があった際の備えとして、何重にも重ねたビニール袋を用意する。

 すると遼は、冷凍庫から、ビール用の、巨大なアイスビアジョッキを取り出し、氷水をたっぷり入れると、

「五年前もこうしたなぁ。思い出したよ。暫く冷えるから、いいんだ、これ」

 得意な笑みで差し出してくる。氷水を張ったビールジョッキというミスマッチが、何とも可笑しい思いで、碧は、それを受け取るのだが、そういえば、彼が言うとおり、五年前の記憶では、このジョッキに入れられた水が、やけにキンキンとしていて美味しかったのを、ふと思い出すと――もっと重要な、パズルのピースを忘れたような、得体の知れないモヤっとした思いが、かの景色を記録した、脳内テープを包み込んでゆく。その正体に、手が届きそうで届かない、実にもどかしい気持ちになるが、それより先に、まずは真弓の介抱が先だと思い、それらを抱えて、一目散に真弓の部屋へと戻ってゆく。室に入ると、晃はまずベッドに真弓を寝かせ、何か色々話しかけているようだったが、当の真弓は、んー、とか、はぁ、とか、返事とも取れない曖昧な声を上げるのみで、まるで要領を得ない。依然、真っ赤な顔をして、薄目を開け、虚空を眺める彼女の姿を見ると、どうにも心配でならず、ここで碧は、

「晃くん、私もここでもう寝ちゃうよ。心配だから」

 と言うと、晃は、いいのか? というような、気遣いの表情を僅かに見せた後、

「とりあえず布団持ってくる。母さん達には、俺と兄貴で、碧も疲れたみたいだとか、適当に話合わせとくから、ヨロシク」

 と言って、すぐと、来客用の布団一式を運んでくれ、何かあったらすぐに向かいの部屋にいるから呼ぶように、との言葉をかけてくれるので、それに礼を言った後、さて、部屋には碧と真弓の二人きりとなる。いまだ寝ているのか起きているのか分からない――時折、深く息を吐いたり、うー、などと軽く呻いたりしながら、真弓は輾転反側としているのだが、碧は、ここでまじまじと、真弓の姿を眺めてしまう。

 どこにでもありそうな、水色の、半袖とショートパンツではあるが、そのありきたりなパジャマから伸びる四肢は、きめ細やかでよく焼けた、艶のある肌をしており、顔を赤くして、荒めの息を吐く彼女の姿は、邪な目で見れば、劣情を催しているようにも見え、それに碧は、どうしたことか――胸に不穏なざわめきのようなものを感じてしまう。

 それを振り払うように、

「マユちゃん、大丈夫? 水いる?」

 言葉をかけると、意外にも、薄く目を開けて、ムックリと起き上がり、

「いる」

 寝起きのようなボンヤリ顔を碧に向けて、差し出されたジョッキを受け取るが、その手つきもおぼつかないもので、碧は、ジョッキを支えながら、

「ゆっくりね」

 コクコクと飲ませるのだが、その時、ふっと、先の台所で遼からジョッキを受け取った際の、モヤがかった記憶が、唐突に晴れ渡った。


 そうだ。この光景と同じものを、五年前に見ている。


 それに気づいたのと、ジョッキの中に浮かんでいた、小さい氷を銜えた真弓が、そのまま碧に口づけをしたのは、殆ど同じだった。


 氷の異常な冷たさと、真弓の、水に濡れた、柔らかく、熱い唇の感触に、碧はただただ圧倒され、抵抗することもできず、氷が溶け行くまで、ひたすらに、キスをされる。

 やがて唇を解放され、思考停止状態の碧に、真弓は、自嘲気味の笑顔を見せながら、

「あ……がんばってのんでみた、おさけ……」

唐突に、そんな事を、途切れ途切れに言ったのち、

「あたし……どぅ、だった……ぁ……?」

「え、な。何が」

 いつもより潤んだ――酔ったせいなのか、別の原因があるのか、うっとりしたような目で碧と見つめながら、切なげに小さく開いた口元から、

「むかひより、かぁ、いい……? あたし、ね……がんばったよ。だから」

 弱々しく呟くように言うと、まるでテーブルに落とした生卵が、床に滑り落ちるように、ベッドからズルリ落ち、


「わたしのこと、だいすき……?」


 これは、割とハッキリ、碧のほうをしっかり見ながら口に出して、後は何も言わず、落ちた体勢から、甘える子猫のごとく、碧の膝に頭を預ける――その満ち足りたような表情を眺めつつ、碧は、このキスをきっかけに、五年前のこと――だいぶボンヤリしてしまっている記憶を、唐突に、次々と思い出してゆく。


 視界が回る中、同じ六畳間――碧の部屋に担ぎ込まれ、すでに敷かれていた布団に寝かせられてから、伯母は、今回のように、ジョッキに入った氷水と、万が一のために、新聞紙を敷き詰めた洗面器を持ってきて、傍らに置き、そして、子供が酒を飲んで卒倒した際に、いったいどうすべきか、というのを、家庭の医学か、はたまたインターネット的なもので調べようとしていたものか、碧の隣で、心配そうに付き添っていた遼、晃、真弓に、容態がおかしくなったらすぐに言うように、と言い残して、慌しく部屋を出て行ったのだ。皆、一様に気が気でない様子でいるのを、薄ボンヤリした視界でとらえ、心配させないように、若干口角を上げた、今思えば、かなり怪しげな薄笑いを浮かべていたのだが、唐突にその時、晃が、

「飲みすぎたら、トマトジュースがいいって、父さん言ってたよな」

 遼に、伺いを立てるような口調で言うと、それを現状打破のための名案と受け取った遼は、近くの自販機に向かい、缶入りのトマトジュースを買いに行こうと、晃とともに立ち上がる。そこに、ついて行こうとする真弓に、

「お前は碧を見てろ!」

 晃が一喝すると、すぐに部屋から出て行く。ここで真弓は、過去に類を見ないほど不安そうな表情を見せながら、それでも、碧に、

「大丈夫?」

 とか、

「何か、ほしいものある?」

 色々声をかけてくれる。

 碧には、それが、なぜか分からないが、たまらなくありがたかった。

 こうした真弓の――心配で、不安でたまらないという様子や、慈愛の言葉を向けてくれることが、何倍にも胸を打ち、心を締め付けてくるのだ。その気持ちは、置かれているジョッキに入った水を飲ませて欲しい、との願いに、素直に答え、ジョッキを支えてゆっくり飲ませてくれる、甲斐甲斐しい姿を見て、より一層膨らんでしまい、感謝の気持ちと、ちょっとした悪ふざけのつもりで――いや、もしかしたら、悪ふざけではなく、碧の深層心理に、ずっと昔から沈んでいた、真弓に対する、愛情めいたものが、突如浮上したのかもしれない。カリ、と齧った氷を、そのまま口移しするように、真弓の口元へ運んで、そのままキスをしたのだ。それに、真弓は、顔を赤くして呆気に取られ、それが可笑しくてたまらず、ただただ、ケラケラ笑いながら――しかし、その真弓の、赤面顔と、ぱっちり見開いた二重瞼、ゆるく開いた、ちんまりした口元に手を添え、心の整理がつかない様子で碧を見やる姿が、言い様に無い、愛玩動物的な魅惑を秘めていて、思わず、

「あはぁ、マユちゃんは、かぁいーね……」

 噛み締めるように、呂律の回らない口調で言うと、

「な、何、どしたの……そんな……」

 いまだ動揺が隠し切れない真弓を見ると、その表情に、先の可愛らしい表情はなく、皆によく見せがちな、自信なさげな顔色が見え始めていたので、酒も入り、若干感情の制御が難しくなってしまっていた碧は、その表情に、勝手ながら面白くないものを感じて、

「そんな顔、こんどからだめ! マユちゃんは、もっとかーいくて、かっこよぃくて、すてきな人になれるんらかぁら……いっつも晃くんに、およげないとか、いわれて、くやしくなぃの!?」

 中々の声を張り上げて言うと、真弓の表情は、当惑から、いかにも図星、というような、真剣味を帯びたものに変わる。酔った碧は、彼女の返事を待たずして、

「だから、だんしなんか、どーんと。マユちゃんはねぇ! もっとかわぁいくて、びじんな、およげるひとに、なれるから。きっとおよげるし……かわいぃから! だから」

 この辺で、記憶は途切れてくるのだが、最後に、

「がんばれ」

 という、真弓からしたら、一体何を頑張るのか、という話なのだが、兎角碧は、そんな要領を無い、励ましのようなことを言いたいだけ言った後、泥のように眠り、翌日に、ほとんどグロッキー状態のまま、祖父からお詫びの小遣いを貰って、この家を後にしたのだった。


 この、長年、飲酒ゆえに引き起こされた、黒歴史じみた騒動と共に封印されていた、真弓に対する、ファーストキスを交えた一連のやり取りを、この五年の月日を経て、驚くほど鮮明に――まるで温泉を掘り当てたかのように、記憶の源泉が溢れて来、また、その内容にも、自身で思い出しておきながら、碧は、やはり圧倒される思いでいた。

 真弓のキスで、スイッチが入ったかのように、かの記憶を思い起こしていくうち――どうしたことか、碧の心臓、奥深く――真弓に対する熱く、儚い気持ちが、わき出て止まらないのだ。幼少期から、いつも隣にいて、気弱で、自信なさげにいた真弓のことを、無意識のうちに、そういった目で見ていた、という事実を、碧は、案外すんなりと、この時、受け入れていた。

 それは、やはり、先ほどの口づけが、大きく作用しているように思えた。長く隠れていた真弓への愛情を引き出し、それを確たるものに昇華させるには、十分すぎるものであった。

 そして、今、膝の上で、すうすう寝息を立てている真弓を見ると、夕方、岩場で遼と話した内容を、思い出してしまう。そうだ、五年前は、ちょうど真弓が、華麗な変貌を遂げた、その嚆矢となる年度だった。その直接的な原因が、酔った碧による、エールだったとすれば――


 オープンで快活な、外見と、内面の変化。

 バイク。食事。着替え。水泳。飲酒――


 今日見た、真弓の姿、行動を考えて見ると、もしや全てが、碧のために、自分を変えようと、五年前から今日まで、がんばった結果だったのはないか。


 変わった自分を見て欲しいがために、その集大成、というように、碧をこの日、リードしてきたのではないか。


 これは、あくまで碧による、ご都合主義な推察に過ぎない――実際は、もっと別なきっかけでもって、かような性格、容姿に変わったのかもしれない。

 しかし、かのキスと、その後の、


「がんばったよ」

「わたしのこと、だいすき……?」


 という言葉の意味を考えると、やはり、その推察は、正しいような気がして、ならなくなった。

 すると、不意に視界がぼやけた。次第に、よく分からない、熱い涙が、こみ上げてきて、とまらなくなる。自分のために、こんなに可愛らしくなってくれた彼女が、たまらなく愛らしかった。そんな彼女が、自分の膝の上で、全てを預けてくれている状況が、幸せでたまらなかった。

 

 そして、思った。これからも、真弓と共に、泳ぎ続けるのだろうと――

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泳ぐ 豊原森人 @shintou1920

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