第16話 念願の診断書
「お待たせしました、スキナーさん。ちょっとトラブルがあったもので」
パブロの揚々とした声が聞こえてくる。
彼が男性だと分かるのは声質のせいだと思っていたが、こうして声だけ聞いているとハスキーな女性の声にも聞こえてくる。
彼は本当に男性なのだろうか。
――いや、そんな疑いを持つのは失礼だろう。それに今は、患者のことに集中しなければなるまい。
「トラブル……ですか?」
「そう、実は褐色細胞腫の検査用スピッツに検出薬を入れ忘れてしまってね。しかしおかしいことに片方だけ尿が茶褐色に変わっている」
嫌な追いつめ方をする。
スキナーの青ざめた顔が目に浮かぶようだ。
「こんな奇怪な現象は今までに見たこともない。医学会に報告せねばならないだろう。それとも採取の際に何か問題があったとか……何か心当たりはないですかね」
しばしの沈黙があった。
「いいえ、私には分かりません」
「では、超常現象だな。お前は宇宙人かも知れん。解剖してバラバラにしよう」
「つまらない冗談はやめて下さい。不謹慎ですよ」
「これは失敬。最近、宇宙映画にはまっててな。宇宙怪獣ミュンヒハウゼンって知ってる?」
「話を戻しますが、事実として色が変わったのですから、本当は検査薬が入っていたのでしょう。誰かが入れ忘れに気付いて足してくれただけでは?」
「それはないな、確認済みだ」
スキナーが溜息をつく。
「なら、もう一度、同じ検査をしてはいかがですか。私はそれでも構いません」
「おお、それは名案だな。ちなみに訂正しておきたいんだが、検査薬と反応すると茶褐色じゃなくて銀色の沈殿ができるんだ。さっきは間違えて伝えてしまったな」
無音。
そして、ドンと何かを叩く音。スキナーが苛立っている。
「いったい何なんですか。さっぱりわけがわかりません。貴方、おかしいですよ。オートン先生を呼んでもらえますか!」
「大丈夫だって。諦めるのはまだ早い。売店にケーキ用のアラザンがあったからな。退院祝いを華やかにするのにも使えるが、あれを砕いたら銀色の沈殿も作れるんじゃないのか」
そして、また沈黙。
ここまで言えば、スキナーも気づいたはずだ。こちらが彼女のやったことを全部見抜いているのだと。
「あら、そう……全部、わかった上で……」
不穏な空気だ。
パブロは小柄ゆえ少々不安がある。が、ここは病院。さすがに危険にさらされることはない――と思いたい。
リズはそのまま息を潜めた。
「小細工した目的はなんだ」
「アンタら医者が、ちゃんと診断してくれないからよ」
スキナーが押し殺した声で言う。
「私が患者としてあるまじき行為をしたのは認めるわ。でも、私はこの苦痛に病名をつけて欲しかっただけ。そうでもしないと仮病だと罵られて、誰からも理解してもらえないから!」
「御託はもういいだろう。終業時間も近いからな。診断書が欲しいなら書いてやろう。褐色細胞腫でいい?」
「何が言いたいの」
「ご存じかと思うが、私は頭のおかしい悪徳医者だ。お前、超大手企業に勤めてるんだってな。傷病手当の詐欺をやるんだろ。何の診断にする?」
少々の沈黙。
それに続き――くぐもった笑い声。
「……幾ら?」
スキナーの声だ。
「お前のもとに何万ベルク転がり込むのか知らないが、私に一割程度の貢献はあるだろう?」
「そう、安いもんよ。話が分かる人は嫌いじゃないわ。分け前は診断書と引き換えでいいわね。ところで、今日は入院していきたいけど、いいかしら?」
これで、確定だ。
呆気ないものだった。
「このように金銭目的の場合は単なる詐病だ。ミュンヒハウゼン症候群なら金に釣られて嘘を撤回したりはしないだろう」
「急に何を言ってるの?」
「つまり詐病で確定だ。皆、入って来ていいぞ」
呼ばれるままに、リズらはぞろぞろと病室に入った。こうして診断を確定させ、悪巧みも暴いた。が、到底、いい気分ではなかった。
こんな時、どこを向いていればいいのだろう。そして、どんな顔をしていればいいのだろう。
患者を睨み付ける? 無視する? それとも、理解を示す?
どれも違う。ただただ、気まずい。
「私を……だましたのね!」
スキナーの激しい言葉を受けて、ジミーが無感情に一言、呟いた。
「……誰が?」
それで、スキナーはすっかり黙り込んでしまった。騙しだまされ、いったい誰が嘘つきで、誰が悪者であったのか。
そんなことに、もはや意味はない。
ここにいるのは、素行の悪い医者と、ただの健常人だ。
「今日は入院されたいとのことでしたが……」
木蓮が愛想のよい顔で問い掛ける。彼女はいつでもこの顔ができるらしい。心が鋼で出来ているのかも知れない。
「いいえ、ここにはもう来ないわ」
ここには……か。
スキナーは大きなため息をつくと、不機嫌そうに荷物をまとめ始める。また、理想の診断を探す旅を始めるのだろうか。
すっきりしない幕引きではあったものの、これでこの一件は落着。
と、なるはずだった――
ふと、病室の入口のところでノックする音が聞こえた。
皆が振り向くと、そこには白衣を着た一人の男が佇んでいる。よくよく見れば、尿検体の分析を引き受けてくれた検査技師だった。
悪い予感を覚えたのだろう、パブロが頭を抱えた。
「出た?」
パブロの問いかけに男は頷く。
「はい」
「何倍?」
「四倍です。ここで話しますか?」
検査技師の男は患者に聞こえてしまうのを気にしていたが、この情報はむしろ今すぐにでも伝えなければならなかった。
手招きに応じて彼は病室に入り、検査結果表をパブロに手渡した。
「液クロ質量分析でメタネフリンとノルメタネフリンの合計が正常値上限の四倍以上あります。疑い濃厚ですので精密検査を」
「ありがとう」
検査技師はそのまま立ち去り、パブロは憮然として腕を組む。
「あんたは痙攣発作の演技をしたよな、あの前に昇圧薬を飲んだか?」
「いいえ、今朝の起き掛けには飲んだけど……」
またしても居たたまれない無言の時間が流れた。
昇圧薬であるミドドリンの効果はそこまで持続しない。これは、発作時の高血圧が作られたものではなかったことを意味する。ほとんどの症状は彼女がでっちあげたものだが、あれだけは本物だったのである。
「その薬はもう飲むな、病状を悪化させる」
「病状ってなに、いったい、どういうことなの?」
スキナーは一人、なにが起きたのか分からずに首を回していた。
それでも自分に関することだというのは伝わったのだろう。肩にかけた鞄をベッドの上に降ろす。
事態は難しくない。
彼女は本当に、褐色細胞腫の患者であったというだけのことだ。
パブロはスキナーに背を向けて話し始める。
「微小な褐色細胞腫かあるいは……オートンが見逃したことを考えると異所性の褐色細胞腫の可能性もあるな。本来とは違う場所に病巣があって見落とされたんだ」
「ねえ、説明してよ!」
「いずれにしてもほぼ間違いないだろう。後は、MIBGシンチグラフィーをやって部位をはっきりさせればいい。オートンに引き継ごう、我々の仕事は終わりだ」
「ねえってば!」
パブロは喚き立てるスキナーの方にようやく向き直る。
「神か悪魔が願いを聞き入れたな。おめでとう、あんたは本当に褐色細胞腫に罹患している可能性があるようだ」
「そんな……まさか。今度は、何をだまそうとしているの……?」
「もうだます意味がないことは分かるだろう。私を信用できないのなら明日オートン先生から説明を受けるといい。今日は入院できるよう手配してやる」
「まさか、本当に……重い病気なの?」
「本当だとも。とうとう念願の病名を賜った気分はどうだ」
スキナーはしばし唖然として動かなかったが、やがて涙を流して俯いてしまった。病室にすすり泣く声が虚しく響く。
「済まない、言い過ぎたな」
パブロは一言つけ加えると、足早に病室を後にした。
受験生一同もそれに続く。
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