山麓支店のパブロ
萩宮あき
第一章
第1話 受験、辺境の薬屋
――いったい私は何をやっているんだ。
大きく車体を震わせて公営バスが停まり、リズは顔を上げる。
ようやく終着駅だ。
肩掛けカバンに愛読の医学指南書を押し込んで席を立つ。何となく格好が付くだろうと選んだ踵の高い靴は、どうにも履きなれず歩きづらい。
今日はある薬屋の採用試験を受けに来た。
電車に揺られ、バスを乗り継ぎ、はるばる都心部から三時間の道のり。ここまで来たからには本気で挑むが、やや込み入った事情もあって、これは実のところ記念受験の類である。
合格の見込みがないというわけではなく、受かっても行くつもりがない、という意味で。
――こういうのって、普通に迷惑だよなあ。
用意しておいた小銭を手早く支払い機に投入、眠たげな運転手に愛想のよい会釈をくれてステップを降りる。
その先、出迎えた光景に絶句。
夏の日差しと盛大な蝉しぐれ。木々のむっとした匂いが立ち込め、地面には陽炎が踊っている。全身くまなく熱い湯にでも浸かっているかのようだ。
僻地とは聞いていたが――
額に浮かんできた玉の汗を拭い、リズは天を仰ぐ。
この先、主だった交通機関はない。タクシーを呼ぶにしてもどれだけ待たされるか分からない。となると、残るは徒歩だ。
「暑すぎでしょ」
柄にもなく死力を尽くしたお
純白のブラウスは体に張りついてアラレモナイ感じだし、黒のタイトスカートも既に蒸し風呂。キャラメルブラウンに輝く自慢のショートヘアは湿気を帯びて鳥の巣のようだ。
この上、慣れないメイクがどうなってしまうかなど、考えたくもない。
大きな溜息。
「動きやすい服でとは聞いてたけど、流石にそれもどうかと思うじゃん」
ぼやきに耳を貸す者はいない。
バスから降りたのはリズ一人。他の受験生は乗り合わせていなかった。もう先に着いているのだろうか。
仕方なしに歩き始める。
目的地は精々ここから十五分ほどの距離。この先は山へ向かう道で、見たところ木陰も多い。辛うじて舗装もされている。
――何とかなるだろう。
そう、何とかなる。ずっとそんな考えで生きてきた。
生意気な態度だとは思う。
だが、そうなってしまったのも仕方のないこと。今まで真に苦労したこともなければ、自信を砕かれたこともない。何とかなるだろうと生きてきて、実際、何とかなってきた。
――挫折も味わうべきなんだろうけどね。
まだ十七の小娘が
別に器用なわけではない。たとえ失敗しそうになったとしても、すぐに周りの誰かが奔走して成功に塗り変えたというだけだ。
それは、何故か。
裏には親の威光がある。
父は医者あがりの政治家で方々に顔が利くし、母も政治家でそれなりの有力者ときている。二人とも忙しいわりに子煩悩で、末娘のリズにも目を掛けてくれる。
それゆえ就活の不安もなかった。実際、オーストウッド病院から既に内定をもらっている。一流の医療機関だ。
不満がないこともない。
リズは努力家かつ自信家である。が、こんな分厚い下駄をはかされていては本当の実力が分からない。周りの評価は真に受けられない。
勝負をすれば百戦錬磨。
しかし、そのジャッジに親の七光りが差していないかと疑い出すと、どうもすっきりしない。深窓の令嬢などと揶揄されるのも気に食わない。
そんな思いを見透かすように、先日、妙な提案があった。
§
「一つ、腕試しをしてみないか」
言葉の主は、オーストウッド病院のジェームズ・ベア教授。
リズのボスとなる内科部の長だ。
革張りの椅子の上、熊のようなずんぐりした体が乗り出してくる。七色に輝くスポーツサングラスの奥の瞳は窺い知れない。
「ある薬屋の店主が新人を募集している。奴は変わり者でね、どんな試験をやるのか興味がある。見てきてくれないか。君が受かるかどうかも気になる」
その提案は突然のことで、あまり深く考える余裕がなかった。思い返せば、かなり不可解な内容である。
「雇われる気もないのに受験したら、先方が気分を害しませんか」
「そこは気にせんでいい、忌憚なくやってくれ。パブロという男なんだが、もし受かってしまったら俺が事情を説明する。君が受かろうが落ちようが、こちらでの採用が動かないことも約束しよう」
理由を作って断ることもできようが――
リズの好奇心が疼く。
むしろ渡りに船だ。両親に黙っておけば、勝手に口利きされる心配はない。失敗しても受け皿があるし、実力を測るには絶好の機会。
――だが、少し引っ掛かる。
「分かりました、先生の頼みとあれば。――ただ、この件は業務とは別の……個人的な頼みということですよね。こういうことって、よくあるんですか?」
昔から人の表情を読み取ることには長けていた。この感覚はよく人の裏を暴く。友人が減るので口には出さないが……。
今日のベアの顔には言い知れぬ妙な感じがある。
「そうだ、無論、個人的な頼みだ。そうである以上、何か見返りが必要だよな。幾らか報酬を渡しておこう」
そういう意味で言ったのではない。
ベアはポケットをまさぐって財布を取り出した。どうやら幾らか金を掴ませて詮索を阻もうという腹積もりだ。
依頼の意図もわからず金を受け取るのはマズい。リズは咄嗟に拒絶の言葉を探す。
言葉の選定は苦手だ。
面倒臭い。そつなく、自然に、相手を立てつつ――
「報酬というのなら、先生がいつも着けているサングラスを見せて頂けませんか。それだけで十分です。前々からブランドが気になっていたんですよ」
少し後悔した。かなり妙なことを口走ってしまった。
探りの目を向けると、ベアは豪快に肩を揺らして
「そうかそうか、これの良さが分かるか。ブランドというほどの物でもないが、このデザインは群を抜いて秀逸だろう」
彼は嬉々としてその個性の結晶を差し出してくる。
……ご自慢の品だったか。
何となく地雷を踏んだ気もするが、
何はともあれ、これで彼の鉄壁は取り払われた。
この際、素顔をよく観察させてもらおう。ギラギラしたレンズの下に隠れていた瞳は意外にチャーミングだ。
「先生、ところで、どうして私なんですか。新人なら一杯いますが」
彼の目に、底知れぬ感情が浮かぶ。
憐憫、もしくは、後ろめたさ。――あるいは、悔恨?
「君は優秀だからね、今期では随一だ。受かると思うよ」
「はあ、光栄です」
リズはサングラスを一頻り眺め、さっさと返してしまおうと手を伸ばした。すると、ベアはそれと引き換えに小箱を渡してきた。
「替えが幾つもストックしてあるんだ、持って行ってくれ」
……しつこいな。
まあ、彼の表情から悪意は感じないし、タダ働きさせるのは忍びないという気持ちも分かる。
賄賂ではなく報酬――ならば、意を汲んだ方が穏便か。
「ありがとうございます、大事にします。ところで、そのパブロさんとはどういう関係なんですか」
再びサングラスで表情を覆ったベアは、形ばかりの笑みを浮かべる。
「そんなに難しく考えることはない。君はただ試験を受けてみて、感想を伝えてくれればそれでいい。要件は以上だ。行ってよろしい」
何か裏があるには違いないが、ここは従うほかあるまい。それに、興味がないと言えば嘘になる。ちょうど少し退屈していたところだ。
「承りました。失礼いたします」
リズは従順な微笑を作って一礼すると、内科部長室を後にした。
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