二、温かな雨
ボクは実の母だと思われる女性に促され、先ほどこのマンション、メゾン・ド・フルールまで連れて来てくれた彼、高宮悠一君と共に105号室の扉をくぐった。狭い部屋だ。あちらの家が他の一般家庭よりもはるかに広いのは承知していたが、ボクの目にはよくこんな狭い場所で、二人で暮らせていたなと思ってしまった。
キッチン部分を抜けた先のソファに促されて座る。二人掛けのソファにボクと悠一君が座り、母さんは奥の部屋からキャスター付きの椅子を持ってきてそれに座った。しかし母さんが腰かけるまでには少し時間がかかった。買い込んだ食料品を仕舞い、ボクたちにお茶を入れてからになったからだ。そして悠一君が荷物の片付けを手伝っている辺り、彼の方がこの部屋に慣れているようだった。
だが、声をかけてくれてここまで連れてきてくれた彼には悪いが、ボクは何となく悠一君への警戒心が薄まらなかった。なぜだか知らないが良くない何かを感じるのだ。
そんなボクの内心など知らない母さんは悠一君を僕の隣に座らせた。そして、自身もキャスター付きの椅子に腰かけて、
「行人すまんなァ、有紀が。私(アタシ)がなんも喋らんでいたから」
と関西弁で言った。玄関口で走り去っていった小さな背中を思い出す。そして目の前にいる女性に意識を移す。二人ともボクと容姿が似ている。血が繋がっているのは、明らかだった。有紀(姉さん)は何も知らなかった。それでも投げつけられた言葉は僕の心を貫いた。「弟なんて知らんわ!」まだ、頭の中でわんわんと響く。
「いや、その…」
何か言わなくては。それでもまともな言葉は出てこなかった。悠一君が母さんの方を向いて話し始める。
「晴香さん、行人から『あの家にはいられない』っていうようなことを聞いたんです。だから」
「分かった」
母さんは悠一君の言葉を遮るように了承した。そしてそのまま、
「ただ、有紀がどう思うかやけど」
と続けた。ボクは真っ黒に塗りつぶされていくように感じた。姉さんはボクのことなんか知らないと言った。母さんが良いと言っても、姉さんに追い出されるかもしれない。絶望感と恐怖感で手足から熱が無くなっていく。もうあの家には戻れない。じゃあボクはどうなる?
「晴香さん、有紀の様子を見てきます」
「…すまんな」
悠一君がすっと立ち上がり部屋から出て行く。彼が離れたら呼吸がしやすくなった気がする。ほっと息を吐いたところで彼が振り返った。ぎくりと身体をこわばらせる。悠一君が口を開いた。
「行人」
「な、何?」
「オレがそばにいると苦しい?」
「…!」
何も言えなくなった。図星だったからだ。何か言わないと、そう思っている間に彼は、何でもないことのように言った。
「いや、やっぱり有紀の弟なのな。今の今までそうだと思っていたけど、確信した。この後、色々大変だろうけど、力にはなるから」
人の好さそうな柔らかい表情を一瞬向けて、悠一君は外に出て行った。姉さんを探しに行ったのだろう。ボクは罪悪感に苛まれた。彼は良い人だ。それなのにその彼を警戒するボクはなんて…。
「イチ君、分かっとるなァ」
しみじみしながら言う母さん。「イチ君」とは悠一君のことだろうか。あ、ゆういち君か。と母さんのあだ名の考察をしていると、母さんが、
「もうここは行人の家でもあるからなァ。楽にしてええんやで」
と言った。頬に伝うものがある。ここは室内。いくら外が雨だろうが降るはずがない。
「あれ…?」
拭っても拭ってもあとからあとから溢れて止まらない。
「…ッ…うぅ…」
うるんだ視界の先で母さんがボクに手を伸ばした。背中に触れる小さな温もりはボクのこわばったものを溶かして行ってくれるようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます