第9話 Effusion


 Ⅸ  Effusion


 驚くほどに冷静だった。

 それはまるで、肉屋が日常のルーティーンとして、食肉を掻っ捌くことに何の躊躇いも感じないように。


 目の前の女は、エイミーの知らない他人。

 母の皮を被っただけの見知らぬ女。


 ゆえに、乞われた通りに、その喉元を剃刀で薙ぐことに躊躇などしようものか。むしろ、母の面影を残したただの肉塊が、エイミーに歌を口ずさんでくれた母の声色で、これ以上狂乱の呻き声をあげないよう、阻止したに過ぎない。


 あなたなんか産むんじゃなかったという恨み節が、エイミーの脳内で鳴り響く。


 剃刀が右手からすり抜けて、冷たい床へと空虚な金属音を立てて落ちる。


 胸の辺りでめくれていた毛布を掴むと、頭をすっぽりと覆い隠すように引き上げた。


 そうすれば、エイミーにとって見慣れたいつもの光景。

 仕事から帰ってきて疲れた母が、いつも通りに寝入ってるだけ。毛布を膨らませたシルエットは、紛れもない母の姿。


 擦り切れた毛布の生地の一部に、じんわりとどす黒い染みが広がり始める。その下にあるのは、母の首筋。

 それを見たエイミーは、思わず後ずさる。


 嫌だ。


 その首筋から言葉が零れる。


 ――あなたさえいなければ。


 染みがまた広がる。


 ――あなたがいなければ、私はもっと自由だったのに。


 やめて。


 ――ねぇ、アミーリア?


 大好きな母さんの声で喋らないで。


 ――どうして私を殺したの?


 違う。本当はそんなことしたくなかったんだよ。


 寝台を伝って、血の雫が床へと落ちる。


 ――あなたなんか……


 エイミーは目を逸らすと、そのまま長屋の一室を飛び出した。慣れ親しんだ貧民窟は、まるで見知らぬ世界のよう。ぐにゃぐにゃに歪んだ曲線ばかりの世界へとその姿を変じていた。


 濃霧が月を覆い隠した暗闇。

 身体があちらこちらの煉瓦にぶつかるのもお構いなしに、エイミーは懸命に駆け続ける。何かに蹴躓いて派手に転んだ。木箱か何かだろうか。

 大きな物音を聞きつけた誰かがこちらへと足早に駆けて来る音がした。ウェリントンブーツが石畳を打ちつける足音。夜警の警官だ。


 擦りむいた掌をついて、エイミーが起き上がる。


 足音から逃げるように、夜の帝都を滅茶苦茶に、無我夢中で駆ける。

 自分が今どこにいるのかすらも、もはや判然としない。


 何処かの路地裏へと素早く飛び込むと、大きな木樽の陰に身を潜めた。建物の煉瓦壁に背を委ねて、エイミーは天を仰ぐ。


 霧の向こう側で、その輪郭をぼかした月が朧げに鎮座している。

 それはまるで、エイミーをじっと見下ろす瞳のよう。それは、全てを見通し、全てを知るという神様の瞳。だが彼が、貧民に手を差し伸べることはない。なぜなら、彼は差し伸べるための手を持たないのだから。あるのはただ、下界を見つけ続けるための瞳だけ。


 輪郭の朧げな弓なりの月は、まるで下層民の悲惨な身の上を嘲笑っているかのよう。


 さながら月は、霧に煙る悪徳の都を見下ろす、無慈悲な神の瞳。


 救いの手も差し伸べることができない神様にどうして祈ることができようか。

 所詮は、ただの傍観者に過ぎないというのに。


 ――なら、そこで黙って見てればいい。


 救いの手を差し伸べてくれない神様なんて、いないのと同じ。


 エイミーは、血の滲む拳を天へ向かって突き出した。


 ――アタシを咎人として裁きたいのなら、好きにすればいい。


 その罪を受け入れる覚悟など、とっくに済ませている。


 自分は望まれない子だったのかもしれない。


 でも。


 それでも、生まれてきたんだ。


 自分の存在は、母が確かにこの悪徳の都で生きていたという証そのもの。

 なら、どんなに地べたを這いずり回ってでも、絶対に生きて、生き抜いてみせる。

 たとえその先に何が待ち受けていようとも――。


 ――運命になんか負けるものか。


   *


 寝汗で湿った絹の肌着が、身体にべったりと張り付く不快な感覚で、エイミーは夢から目覚めた。

 もうすっかり見慣れた教会。その台所の硬い床の上。自分で持ち込んだ毛布を払いのけて、のろのろと起き上がる。動く度に、床の上で寝た時特有の痛みが、硬直した身体中を駆け巡る。


 窓の外を見ると、もう昼が近そうであった。

 イーストエンドは今日も相変わらずの曇天模様。


 昨夜、というよりも今日の未明といった方が適切であろう。共同墓地から帰る馬車の中、エイミー達は誰も言葉を発しなかった。馬車が教会に到着するなり、エイミーは寝室から毛布だけを引っ掴んで、そのまま台所で寝たのだ。


 オリヴィアやミラに暴言を吐いた手前、二人と同じ部屋で顔を付き合わせて寝ることに、多少の気まずさを感じたからである。


 きっとオリヴィアほどではないにせよ、例の紳士の言葉を受けて、エイミーもまた、少なからず動揺していたのだろう。彼女自身がそれとは気づかなかっただけで。


 だからこそ、一眠りして心の平静さを取り戻した彼女は、墓地での言動を悔い始めていた。一時の激情に駆られて、発してしまった暴言の数々。


 少しばかり軽率で配慮に欠けていたかもしれない、とエイミーは思った。それは、母を失って以来、他人を押しのけてでも自分が生き抜くことを最優先にしてきたエイミーが、変わりつつあるということの現れ。

 ほんの偶然から他人と共に盗みの仕事をすることになり、そして共に理不尽な目に見舞われ、いくつもの命の危機を共闘して乗り越えてきた過程。それが、これまで他人に対して築いてきた高い心の障壁へ亀裂を刻んだのだ。


 全ての元凶たるジェーンは、相変わらず虫唾が走るくらいに大嫌いだが、あの姉妹は少なくともエイミーにとっては嫌な相手ではない。


 ミラは、――妹に甘いところが短所ではあるが、それでも心身ともに信頼が置ける少女だ。窮地に陥っても冷静に機転を利かせて突破口を見出してくれる。初めて相対した時以来、常にエイミーの一歩先を行く彼女には、ある種の対抗心が芽生えないではなかったが、それでも今は頼れる仕事仲間であることは間違いない。


 オリヴィアは、――常におどおどしていて、姉の負担になっているばかりか、皆の足を引っ張る場面もあるため、エイミーは正直なところ苛つくことも多いが、それでも彼女に悪気があるわけではないことくらい理解していた。現に、臆病でもやるべき時は一生懸命に務めを果たそうとする姿をエイミーは知っている。


 思い返せば、自分を取り巻く状況が、あまりにも目まぐるしく、そして激しく移り変わったため、こうして冷静に自身を俯瞰する機会すら、エイミーにはなかなか訪れなかったのだ。


 ――謝ろう。

 二人から距離と時間を置いて、頭を冷やしたエイミーは、そう思い至る。かつてイーストエンドの片隅で一人で生きていた頃のエイミーであれば、まずあり得ない決断。自分の非を認めることは、負けを認めることであったから。

 だからこそ、自分を今のように変えてくれた二人に謝りたいという気持ちが、エイミーには生じていた。確かに、照れくささと気まずさはあるが、それでも別に命の危機があるわけでもない。きっと素直に謝れば、あの人の良い姉妹は、そんなエイミーを多分許してくれるだろう。


 エイミーは、肌着を脱ぎ捨てて、椅子に掛けたままのシャツを羽織ると、二人を探すべく台所を出た。


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