第8話 Pawn


 Ⅷ  Pawn


 ロンドン郊外に位置する共同墓地。

 遥か頭上から雲の合間を縫って降り注ぐ淡い月光が、立ち並ぶ十字架の墓標達へと等しく降り注ぐ。遮る物のない墓地を吹き抜ける冬の夜風は、場所柄ゆえに、ある種の厳粛さすら纏っているように思われた。


 肩に羽織った、愛用の灰色と緑のタータンチェックの防寒ストールが風で飛ばされぬよう、華奢な両手で優しく掴むのは、漆黒のワンピースに身を包む女性。丁寧に編み込まれて、右前へと垂らされた栗色の長い髪が、風に靡いている。彼女の慈しむような視線の先では、複数の人影が激しい動きを繰り広げながら、入り乱れていた。


 狼のような尻尾と耳を持つ赤髪の少女が、十フィートを優に超えるような巨体の大男の首筋に両腕を回すと、彼の首を躊躇なく捩じ切った。


 他方、そこから少し離れた場所では、月光のカーテンの中に、金色の美しく長い残像を残しながら、少女が宙を華麗に舞う。その背中には彼女の金糸の髪の色と調和したコントラストを形成する漆黒の両翼が伸びている。その長い脚が、空中で横に薙ぎ、別の大男のこめかみを的確に抉った。


「あぁ~……もぉ~っ‼ ……あ~あ…」

 静かに佇む栗色の髪の女の隣で、ハスキーな苦悶の声が小さく上がる。年の頃は、栗色の髪の女と同程度といったところであろうか。その声の主は、肩の辺りで雑に切り揃えられたボサボサの茶髪を掻き毟りながら、ブツブツと小声で何かを呟き、そして消え入るようなため息をついた。

 陰気な雰囲気を纏った茶髪女。

 傍目にも明らかなほどに肩を落としてがっくりと意気消沈したその姿には、憐憫すら覚える。


「はぁー……。こっちの負けかなぁ。――今回の子達はわりと自信作だったのに」

 濃い隈の出来た両目で、隣に立つ女を恨めしそうに見上げる茶髪の小柄な女。その濃紺のブラウスには少女趣味を思わせるフリルがあしらわれている。その上に羽織るのは、黒の防寒用ケープ。


「あらあら、諦めが早いですわね、メアリ。戦いとは水物です。どうなるかはまだ分かりませんわよ。その顛末をご存知なのは、全てを定めたもうた主ただ御一人のみなのですから」

「はぁあ~……、もうっ……!」メアリと呼ばれた茶髪の女が、苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべる。

「相っ変わらずの狂信っぷり。ねぇ、ジェーン? ……よくもまぁ、飽きちゃわないね? 無償の愛が専売特許の神様も、君の重すぎる愛は流石にお断りなんじゃないの? 少なくとも私が神様だったら、とっくの昔にどん引いてると思うけど」

 ボソボソと聞こえるか聞こえないか位の声量で、メアリと呼ばれた女が悪態を吐く。

「お言葉ですが、メアリ」とジェーンが言う。

「手当たり次第に墓所を掘り返し、ご遺体を自由気ままに弄り回している貴女の行為こそ、死者をこれ以上ないくらい冒涜しているという意味において、わたくしには到底理解し得ませんわ」

「……奇遇。私の方こそ、ジェーンのやり方は、昔っから本当に悪趣味だなって思ってる。――君にいいようにこき使われている、あの女の子達が可哀そう」

 憂いを含んだ表情で、メアリが呟く。

「御心配には及びませんわ。彼女達は主の導きの下、自らの意思でもって行動しているのですから」

 満面の笑みのジェーン。それを見たメアリは、諦めたように首を力なく左右に振った。


「本当に……ほんっとうに、心からあの子達に同情したくなっちゃうね。――どうせ今も、拾ってきた子供たち全員に手当たり次第に、それこそ馬鹿の一つ覚えみたいに、カインの徴を試してるんでしょ? あんな実用性皆無なばかりか、とっても残酷なもの、未だに使ってるのは君くらいだと思うけど?」

 メアリの言葉にジェーンが目を丸くした。

「あら、むしろわたくしとしましては、あれほどに素晴らしいものを何故ほかの皆さんがお使いになろうとしないのか、それが不思議でならないのですよ?」

「いやいや、あり得ないから。……そもそも条件を満たした適合者を探すだけでも、干し草の山から針を見つける位に大変なのに、いざ適合したとしても、自我がそのまま残ってるせいで抑制剤も精神調律も効かないんだよ? そんなのを手元に置いとくなんて、言ってみれば、自分の寝室の外でリヴァイアサンを放し飼いにできるかって話。君みたいな命知らずの物好きはともかく、まともな神経してれば、普通に無理でしょ」

「残念ですわ、メアリ。あれほど素晴らしいものはないというのに、それを分かって下さらないとは。主の導きと自らの自由意思との狭間において、苦しみ、悩み、そして自身の召命を知り、ひいては信仰心に目覚める過程をこれ以上ないくらいに、詳らかにできるというのに」

「ごめんね、ジェーン。君は知ってるでしょ? 私が信仰心の欠片すらない女なんだってこと。……生きてる人間なんて、正直なところ大っ嫌い。虫唾が走る。自分の欲を満たすためだけに、誰かを羨んで、騙して、憎んで、傷付けて、奪って、弄んで、殴って、犯して、裏切って、売り飛ばして、そして、殺して。その繰り返しばっかりなんだから。――私が信じられるのは死者だけ。彼らは嘘なんか吐かない」

 そこで言葉を切ると、メアリは仄暗く笑った。

「だって、死んでるから。死者は何も喋らないし、何も思わない。悪意を抱くこともない。――だから……私は死人しか愛せないの」

 メアリが徐に正面を指差す。その先に見えるのは、立ち並ぶ墓標を容赦なく薙ぎ倒しながら大暴れする異形共の狂乱の活劇。大立ち回りを見せる少女達に次々と打ち倒されるのは、継ぎ接ぎだらけの巨躯の動く死体共。

「私の可愛いトマス……彼は、自分を攻撃してきた相手にしか反撃できない優しい子に創ったの。そして、あれはロバート。……他の子達を庇って常に矢面に立ってくれる勇敢な子として創り上げたんだ。……みんな、君の女の子達に壊されちゃったけど、私は怒ってないよ。――だって、肉片さえ残っていれば、また同じのは創れるから」

「実に寛大ですわね、メアリ。お礼申し上げますわ。――だからこそ残念でなりません。貴女のその寛容さ、そして慈愛。それらが、僅かでも今を生きる隣人へも向けられれば、と常々思っておりますのよ」

「……悪いけど、それは無理」

「実に、本当に残念です。――しかしながら、貴女がどう思おうとも、少なくともわたくしの方では貴女の善き友人でありたいと思っておりますのよ、メアリ。だって、かつて共に肩を並べて医学を修めた旧知の仲ですもの」

「……私に愛されたいのならさ、死体になってからおいで? ジェーン」

 メアリは、右腕を徐に伸ばすと、骨ばった小さな手でジェーンの頬から顎にかけて、そっと撫でた。血の気のないメアリの顔に、幾ばくかの紅が差す。それは、妖艶な微笑み。

「私は君のこと、昔っからずっと理解できなくて嫌いなんだけどさ、ジェーン。……だけど、君の整った顔だけは別。私好みで、とても気に入ってるんだ。

 ――私達が寮で相部屋だった頃、書き物机の上に聖書を広げて読み耽る君の横顔。一途に恋する乙女のような表情。それをベッドに寝転んで微睡みながら眺めるのが、私のお気に入りの時間だったんだよ。でも、君は口を開けばいつでも、聖書のことばっかり。聖書なんて薄っぺらくて嘘っぱちの戯言しか書いてないのに。そんなものをさも有難そうに、楽しく語る君は嫌い。……だからね? そんな空虚な言葉すら紡げない、物言わぬ冷たい躯になった君の頬に口づけをしたら、一体どんな味がするんだろうって考えるのは、とっても大好き。

 ねぇ、ジェーン? 君が死んだらその時は、私の箱庭でずっと大切にしてあげるから。死は二人を分かつどころか、むしろ永遠に結びつけてくれるの。楽しみだね」

 恍惚の笑みを浮かべて、メアリは自分の華奢な両肩を抱いて、身悶えする。

「あらあら、それは素敵なご提案ですわね。

 ――ですが、やはりわたくしには貴女のお考えは理解できかねますの。何故、貴女がそれほどまでに肉の身体などに執着するのか。

 大事なのは、肉体ではなく魂なのですよ、メアリ。肉体など所詮は魂の牢獄、ないしは器でしかありませんのに。いかに花瓶の造形が素晴らしくとも、大抵の人は、それに目を奪われるのではなく、その花瓶に活けられた美しい花の方を愛でるものでしょう? なぜなら、主役は花瓶ではなく花なのですから」

「意見の相違だね、ジェーン。……今は可憐に咲き誇る花でも、いつかは醜く枯れちゃうんだよ。たとえどんなに、その美しさを繋ぎ止めようと必死に手を尽くしたとしてもね。――人間だって同じ。……今は高潔な人柄であっても、時間が経てばどうなるかは誰にも分からない。それこそ、貴女の大好きな聖書にだって書いてあるでしょ? 人間は皆、堕落した罪深き存在なんだって。……人はすぐ変わる。何かの切っ掛けで、容易にその腐り切った醜悪な内面を曝け出す。でも、花は枯れても花瓶はいつまでも同じ姿でそこにあり続ける。腕の立つ職人が、欠けた部分に接ぎを当て、表面の曇りを磨き取り、しっかりと手入れを怠らなければ、美しい花瓶は永遠に美しいままでいられる。大事なのは、器の美しさ。……だから、そこに挿しておく花なんて、正直なところ、何だっていい。どうせ、すぐに枯れちゃうんだから。なんだったら、別に造花でも構わないでしょ?」

「マタイ福音書第九章」

 ジェーンが言う。

「『だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである』。――器は所詮、器でしかありませんわ。むしろ、注ぐ中身に応じて、それに見合った器が選ばれるべきでしょう。現に、あそこで自身の使命に従っている彼女達は、生まれ持った人としての古き器をもはや捨て去り、その魂の変化に見合った新たな器を手にしたのですから」


 メアリは小さくため息をついた。

「結局さ、……私達って、お互いに平行線を辿るだけなのを分かっているのに、顔を合わせれば、いっつもこういう不毛なやり取りを繰り返しちゃうものなんだね。……もう回数も忘れちゃう位に、ね」

「そう悲観すべきではありませんよ、メアリ。少なくとも、貴女との問答を通じることで、わたくしは自身の歩むべき道、主がわたくしに授けて下さった福音を改めて認識することができるのですから。

 つまるところ、貴女は貴女の、わたくしはわたくしの、それぞれが信じる道を歩むしかないのです」


「……そうだね」

 メアリが憂いを含んだ目で、怪物共の戦いを見つめる。

 残された最後の一体、巨躯の大男を赤髪の少女が執拗に追い詰めていく。

「私だって本当は、可愛い死体達にこんなことはさせたくないんだけどさ。……だって、そうでしょう? 顔も知らない何処かの権力者達の間で揉め事が起きる度に、それを解決するための代理戦争の駒として、私の可愛い子達が使われるなんて、本当は嫌」

 ぎゅっと奥歯を嚙み締めるメアリ。

「でも、私の理想の箱庭を守るためにはお金が要る。新しい死体を手に入れる時にも、手持ちの死体の維持管理にだって、お金はいくらあっても足りない。だから私は、身を切る思いで、いつも送り出すの。いくら復元できるといっても、可愛い子達が傷つくのは、やっぱり見たくはないから。……君だってそうでしょう、ジェーン? 君が振りまく愛は無償でも、抱えるたくさんの孤児達を養うには、どうしたって運営資金としてたくさんのお金が必要。……だから君も、愛すべき子供達を断腸の思いで戦場へと送り出しているんじゃないの? ……それとも、あの女の子達は、君にとっては所詮、稼ぎの良い殺戮人形に過ぎないのかな……?」

「わたくしは」ジェーンが口を開いた。

「彼女達を使役しているつもりなど、毛頭ありませんわ。そもそも、私達の間にはその前提となり得る上下関係すらなく、もとより対等な立場に過ぎません。――だって、そうでしょう? 人は皆、主の前では平等なのですから。わたくしはただ、彼女達が隣人愛の素晴らしさに気づきを得るよう、拙い言葉を尽くしたに過ぎません」

「相変わらず胡散臭い女だね、ジェーン」

 メアリが呟くように言う。

「君さ、寮母のおばさん覚えてる?」

「ミセス・フォレスタでしょうか? とても敬虔な女性でしたわね。彼女と語り合うのは、実に素敵で有意義な時間の使い方でしたわ」

「そうその人。……昔ね、水差しの水を廊下に零しちゃったときに、彼女が私に何て言ったと思う? 怒鳴りつけるでもなく、まるで教え諭すように私に言ったの。『人の渇きを癒す恵みの水が、時として誰かを傷つけることもあるのだと知りなさい』、ってさ。笑っちゃうよね? 誰かが滑ると危ないから気を付けろって、普通にそう言えばいいのに。君みたいな人種の人達は、いつもそう。わざわざ持って回ったような言い方ばっかり……」

 遠くの少女達を見つめながら、憂愁に沈むメアリ。

「ねぇ、ジェーン? 対話が成り立つのはさ、お互いが対等なときだけなんだよ。……あの女の子達が他に選べる手札をいくつも持っていたのなら、君との対話の結果、その中から君の下で戦うというカードを切ったとしても、それはそれで一つの自己決定だろうね。……けどさ、どうせ彼女達も孤児なんでしょ? 配られたカードなんて、たった一枚っきり。君の顔が描かれた絵札一枚だけ。対話なんてあってもなくても、そのカードを切るしかないの。それを隣人愛の素晴らしさを説いただの何のって、所詮、君は、自己正当化のために空虚な詭弁を振り回しているだけのエゴの塊。――ますます私は、生きてる人間が大っ嫌いになりそう」

 ジェーンが慇懃にお辞儀をした。

「御高説、痛み入りますわ。メアリ」

 それを横目でちらりと見やると、メアリは明後日の方を向いた。

「別に。……私も君の所業について言えた義理じゃないことくらいは自覚してるから。それに、今夜私に勝てば、アッパークラスも見えてくるんでしょ? さっきのは、未だにミドルクラスの底の方をうろついている弱者のただの独り言。あるいは負け惜しみかも。……でも別に良いんだ、負けても。だって、最低保証分は貰えるから。私の箱庭を守るには、それで十分」

 ふっ、とメアリが自虐気味に微笑した。

「それにしてもさ、ジェーン。皮肉だよね。富と権力と階級が全てで息の詰まる表社会が嫌で嫌でたまらないから、こういう世界に引き篭もったのにさ。ここでもやっぱり物を言うのは、それぞれの支部運営者の財力や人脈なんて、ね。……有史以来、生きてる人間が集まるとこには、あっという間にこういう階級のアーキテクチャが必ず構築される運命なのかな。――やっぱり、生きてる人間はろくでもないよ」

「わたくしの愛すべき子達が、方々からそのような高い評価を頂いていることには常々感謝しておりますわ。ですが、わたくしは今までも、そしてこれからも、ただ為すべきことを為していくつもりですの」

「ほんっとうにマイペースだね、君は。私もジェーンくらい図太ければ、少しは生きてる人間にも関心を持てたのかなって、思うよ。……君は興味もないだろうけど、ここまで送ってもらう途中に今回の外馬について御者くんに教えてもらったんだ。……ここまで強敵相手に番狂わせの二連勝を挙げた君の勝ちに掛けられる額が多すぎて、胴元がテコ入れしないと賭けが成り立たないくらいだったって。私としては複雑な気持ちだけど、まぁ仕方ないかなって――あっ」

 言葉の途中でメアリが小さな声を上げた。

 最後の大男が、狼少女に手足を折られ、土埃を巻き上げながら地面へと突っ伏したからだ。

「負けちゃった……かぁ」

 メアリは残念そうに呟くが、その声色にはさほど落胆の色は見られない。もう既に分かり切っていた結果だと言わんばかりの様子。そのまま背を向けると、彼女は、横並びで停まった二台の黒塗りの馬車、その内の一台へと向かって歩き出す。

「あら、もうお帰りになるのですか? メアリ」

 ジェーンがその小柄な背中へと問いを投げ掛ける。

 メアリは足を止めると、ジェーンの方を振り返った。

「これ以上、私の可愛い子達が壊されるのを見たくないから。……肉片の回収は、もう手配してあるし、私がここに留まる理由はもうないの。――それに、アレのとばっちりなんて御免だから」

 メアリが遠くを指差す。

 そこでは、地面へ横倒しになった巨躯を囲んで、三人の少女が何やら揉めているようであった。

「やっぱり自我なんて残すとろくなことないね、ジェーン? ……じゃあ、またね。次に会う時には、棺の中に綺麗な顔で収まっててくれると、すっごく嬉しいな」

 そう言い残すと、メアリは、小さな声で歌いながら、馬車へと歩き出す。口ずさむのは、カザリスが詩をつけたピアノ伴奏の歌曲、『死の舞踏』。肩に羽織った防寒ケープの黒色が、白霧の中で愉し気に揺れる。


 Zig, zig, zig, Death in cadence

 ジッグ、ジッグ、ジッグ、リズムに合わせて死が躍る


   Striking with his heel a tomb

  墓標の上で小気味良く踵を打ち鳴らす


 Death at midnight plays a dance-tune

 死神は真夜中に舞踏の旋律を奏でるの


 Zig, zig, zig, on his violin.

 ジッグ、ジッグ、ジッグ、その鎌で奏でるの


 The winter wind blows and the night is dark

 木枯らしに吹かれ、闇の色は濃い


 Moans are heard in the linden-trees

 菩提樹からは嘆き声


 Through the gloom, white skeletons pass

 薄暗がりを過ぎるのは、真っ白な骸骨共


 Running and leaping in their shrouds

 白布を纏いて、飛び跳ねはしゃぐの


 Zig, zig, zig, each one is frisking

 ジッグ、ジッグ、ジッグ、皆が皆、飛び跳ね回る


 The bones of the dancers are heard to crack

 踊り手共の骨がカラコロカラコロ鳴り響く。


 But hist! of a sudden they quit the round

 しーっ、静かに! 皆が急に踊りを止めちゃう


 They push forward, they fly

  押すな押すなの大慌てで方々へ


   the cock has crowed

  だって、鶏が夜明けを告げちゃったんだもの



 メアリの乗った馬車が遠ざかるのを静かに見送ると、ジェーンは、徐に三人の方へと歩き出した。


   *


「ほら、さっさと殺りなよ。アタシだって今夜の自分のノルマは済ませたんだからさ。今日、一体も仕留めていないのはアンタだけだし。――ほら、簡単でしょ? アタシがここまで御膳立てしてあげたんだから。後は、千切るなり、潰すなり、その剣で切り裂くなりするだけ」

 怯えた小動物のように震えるオリヴィアの華奢な肩をエイミーは小突いた。その足元には手足を折られて身動きの取れなくなった巨躯の死体が、時折痙攣しながら横たわっている。


 倉庫での一戦から三日が経った。

 例の不愉快な紳士から告げられた事実にショックを受けたオリヴィアは、あの後、寝込む日々が続いた。だが、そんな彼女の精神的状態とは無関係に、今宵、新しい任務がジェーンより無慈悲にも、もたらされた。ゆえに、本調子には程遠いオリヴィアを前線には立たせずに、エイミーとミラの二人だけで、自然と敵を引き受ける格好となる。

 それがエイミーにとっては、どうしても納得がいかなかった。精神的に不調で足手まといにしかならない者なら、下手に戦いに参加してこない方がマシだということは、確かに頭では理解している。

 だが、自分達が手を汚している後ろで、吞気に佇立しているだけのオリヴィアへどうしても不満がつのることも、また事実であった。


「エイミー、……無理だよ、やっぱり私にはできない。……だってっ! この人も元は私たちと同じっ…」

 目尻に涙を溜めたオリヴィアは、出掛かった言の葉を喉奥で苦しげに押し殺すと、バツが悪そうに足元へと視線を落とした。

「は? 何さ? 言いたいことがあるなら言えば?」

 エイミーは、僅かばかりいらただしさを滲ませながら、中途までしか紡がれなかった次の句を促す。だがそれでもなお、小刻みに肩を震わせながら、オリヴィアは押し黙ったままであった。

 エイミーは、大きな溜息を長く、そしてわざとらしくついた。吐息が、蒼月の淡い光の下で、闇夜の冷えた空気へと儚く溶けていく。

「はー……くっだらない。アンタさ、もうやめたら? 何もかも。ロクに殺しもできないなら役に立たないし。アタシらの足引っ張るだけで、正直邪魔」

「……ごめんなさい」

 オリヴィアは、か細い声で呟く。

「謝るだけなら誰でもできるけど? 大事なのは結果でしょ? ホンット、使えない」

「…………ごめんなさい」

 再びの謝罪。

 ガリッと不快な音が響いた。エイミーの歯軋りの音だ。

「それしか言えないの? この化け物っ!」

「……私たち皆、一応化け物なんだけどね」

 ここまで静観していたミラが、ボソリと皮肉混じりに呟く。

 その言葉にエイミーが過敏に反応した。

「ミラ、アンタもさ、いつもスカした態度とってるけど、そもそもオリヴィアはアンタの妹なわけでしょ? アンタからも少しは何とか言ったらどうなのっ!」

 憂さ晴らしとばかりに、足元で痙攣する巨躯の腕をぐりぐりと踏み潰すエイミー。その度に、くぐもった呻き声が足元で響く。


 ミラは、激昂するエイミーを横目に無言でオリヴィアを横へと押しやるようにして、前へと徐に歩み出た。それに気圧されて、エイミーが思わず僅かに後ずさる。


 次の瞬間、間髪を容れず、足元で横たわる化物の首が、鈍い衝撃音と共に、放物線を描きながら鬱蒼とした茂みの中へと消えて行った。

 蹴り飛ばしたのだ。ミラが。夜の支配者たる吸血鬼が有する、その強靭な膂力でもって。

 その突然の行動にオリヴィアだけではなく、エイミーまでもが、あっけにとられた。

「なら、ヴィアの分も私が殺すよ。――これからも、ね。それで文句はないでしょ?」

 オリヴィアへと投げ掛けられた数々の暴言に対して怒るでもなく、恐ろしく淡々とした様子でミラが言う。


「は……はぁ? いいわけないじゃん⁉ これからのことはともかく、少なくとも今回は、一人につき一体ずつがノルマだったでしょ⁉」

「違うよ」ミラは静かに言った。

「ジェーンは、皆で協力して三体倒せって言ってた。一人一殺じゃない。つまり、エイミーが一体、私が二体殺しても構わないわけでしょ?」

「そういうことを言ってるんじゃなくて……っ⁉」

 パクパクと陸に打ち上げられた瀕死の魚のように口を開くエイミー。自分の主張を上手く言葉にすることができないもどかしさに、苛ただしさを覚えているようであった。


 三人の間にある種の緊張感が漂い始める。

 しかし、すぐさまその空気が断ち切られた。二回手を叩く、はっきりとした乾いた音が闇夜に響いたからだ。エイミーが振り返ると、そこにはジェーンが立っていた。


「テモテへの第二の手紙第二章、『主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである』」

 良く通った玲瓏な声。

 ジェーンは、三人を見回すと再び口を開いた。

「一体何をめぐって貴女方が争っているのかは存じませんが、『あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい』とローマ人への手紙第十二章にもある通り、争いは避けねばなりません。それが仲の良い友であれば、なおさらです」

 彼女達がこうして揉めるに至った因果の糸を手繰れば、確実にその先にいるはずなのに、さも他人事のように滔々とのたまうジェーン。その相変わらず人を食ったような態度に、エイミーの怒気が急速に白けてしまう。


「アンタ的には良いんだ? オリヴィアが何もせずに、ただ突っ立ってるだけでも。えぇ? どうなのジェーン?」

 吊り上げた目でエイミーが、鋭く睨め付ける。

「箴言第二十六章、『自分に関係のない争いにたずさわる者は、通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ』。――その点については、わたくしの関知するところではございませんわ。もとより貴女方に全て委ねておりますので」


「あっそ」

 エイミーが吐き捨てた。その言の葉が、真夜中の墓地の空気へと霧散する。


「関係ない、か。――だろうね。ジェーン、どっちみちアンタは、痛みも感じないし、自分の手も全く汚さないんだから、心底どうでもいいんでしょ? きっと、アタシらの前に使ってた連中に対しても、そんな感じだったんだろうね。……アンタに聞いたアタシが間抜けだった」

 そう毒づくと、エイミーは、ジェーンを押しのけるようにして踵を返すと、馬車の方へ大股で歩き出した。その歩調に合わせて、左腰に差した刀が、カチャカチャと揺れる。丁寧に手入れされてアキから戻ってきたエイミーの武器。しかし今宵、何となく気が引けたエイミーは、結局使わずじまいであった。


 振り返ることもなく、脇目も振らずに進む赤髪の少女の背後で、下を向いてじっと立ち尽くすオリヴィアと、その肩を優しく抱くミラ。金髪の姉妹の輪郭線が、夜を覆う霧の中に次第に埋もれてゆく。


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