第2話 Orphans


   Ⅱ  Orphans


 鼻孔を突き刺すような不快な臭いと煙で目が覚めた。

 獣脂蝋燭に用いられている羊の脂が燃焼する際に出る、あの微かな臭気だ。背中に感じる硬い感触は、この廃屋での寝泊まりに供している、所々斑点模様のカビが生えた、木製の長いすだろう。その上で、毛布にくるまって一夜を明かすのが、ここに住み着いてからの常であった。毛布は、先日まで住んでいた貧民街の木賃宿で共用にされていたものを、官憲の手入れのどさくさに紛れて、かっぱらってきた。


 仰向けになったエイミーの身体には、件の毛布が首元までしっかりと掛けられていた。鳩尾には、痛みの余韻がまだ残る。ゆえに顔を顰めつつ少しだけ首を傾けると、蝋燭の揺らめく炎に淡く照らされている、室内の廃材に腰掛けた金髪少女と目が合った。この鈍痛をもたらした、紛うことなき張本人である。

 もぐもぐと口に何かを頬張りながら、「あっ、気が付いたんだね」と飄々と言ってのけたのには、怒りや驚き、呆れすら通り越して、戸惑いを覚えた。

 こういう時、第一声として何を言うべきか。エイミーが答えに辿り着くより先に、ミラの方が続けて口を開いた。


「これ? さっき近くの路地裏を歩いていた物売りの子から、売れ残りを安く譲ってもらったんだ。ゆでプディング。二個で半ペニー、相場の半値。まぁ売れ残りだから、すっかり冷めちゃってるけど。あなたの分もあるよ。食べるでしょ? 一人二個ずつね」


 勝手に持ち出したエイミーのずた袋から、ややひしゃげたプディングを二つ取り出すと、徐に手渡してきたので、つい上体を起こして受け取ってしまった。左右の手の平に一つずつ。客観的に見れば、実に滑稽な光景であろう。問いただしたところで、人間に手が二本あるのは、右手と左手にプディングを一つずつ乗せるために神様が作ったから、などと嘯きそうな勢いだった。

 妹の方はと言えば、姉の奇怪な言動などもとより気に留めるべくもなく、小さな手に余る大きさのプディングを両手で掴んで、もそもそとリスのように齧りながら、ちらちらとエイミーに視線をやっていた。睨み返してやると、即座に目線を手元のプディングへと落とす。

 てっきりあの後、ナイフでとどめを刺されたのかと思えば、気が付くと、自分をのした相手とその妹が、自分のねぐらで呑気にプディングを頬張っていて、あまつさえ命のやり取りをした相手にさえも勧めてくるという。


「わけわかんない」と、口から本音が思わず零れるエイミー。

「何が?」

 本当に何のことか、さっぱりな様子で首を傾げるミラ。

「いや、だからさ。あの時アンタ、ナイフ拾ってたでしょ。アタシにとどめ刺すつもりだったんじゃないのか、ってこと」

「ああ、なるほど」

 ミラは、得心がいったとばかりに、首を縦に振った。

「あれは単に拾っただけ。あそこに落ちたままだと、ヴィアがケガしちゃうかもしれなかったから。はい、返すね」

 そう言うと、友人の借り物を返すかのごとく、燭台代わりの皿が乗った煉瓦の隣にナイフを置いた。

「あとさ、誰彼構わず、喧嘩を吹っ掛けるのは、良くないと思う。いつか危ない目に合っちゃうよ」と、幼子でも諭すかのような口ぶり。


「うっさい、余計なお世話だ」

 吐き捨てるようにエイミーが呟く。

「あっ、ふーん。少しやり過ぎちゃったかなって、せっかく心配して、介抱までしてあげているのにそういうこと言うんだ。――確か何だっけ? 負けた方はひん剥かれて寒空の下、路地裏に転がされるとか何とか。そうされた方が、もしかして良かった、とか?」


「うっさぃ‼ もういいでしょ、その話はさぁ‼ あっ、痛――」

 声を荒げたせいで、鳩尾の疼痛がぶり返す。反射的に摩ろうとしたが、両手にプディングが乗っているせいで、それもままならない。この忌々しい痛みも、両手のプディングも、意味不明なこの状況も、全部目の前にいる、つかみどころのない少女のせいだと思うと、抑えようのない怒りがふつふつとこみ上げてくる。


 だが、こんな不愉快な状況を招いた一端に、やや思慮を欠いた、エイミーの欲心が存在していることも、また確かであった。そのことを差し置いて、あらゆる不平不満を手頃な相手へと、まるで屠殺場でベーコンにされる口汚い豚のように、感情的にぶちまけるほど、エイミーは子供ではないつもりだった。行き場を失った怒りの感情は、貴重な肉がはみ出し、毛布の上に零れ落ちるほどに握り潰すことで、両手のプディングが吸収していく。


 目を閉じ、鳩尾を最大限に労りながら、細く、そして長く息を吐く。

 自分の見通しの甘さ、そして直情的な行動が、今回の失態を招いたのだ。もしこれが貧民窟のとびきり柄の悪い連中であったなら、命はなかったかもしれない。

 怒りを手当たり次第にただぶちまけても、あるいは不遇な身の上について泣こうが喚こうが、それで空腹が満たされることは決してない。せいぜい、新たな厄介事の種火にでもなるのが関の山だ。

 重要なのは、自分の怒りを上手く抑えること。そして下水のどぶさらい達やテムズの泥ひばりの連中が泥水の中から鉄くずや石炭の欠片を拾い上げるみたいに、できれば手足を突っ込みたくない自分の失敗の中からでも、拾えるものは何でも拾ってやるという気概だ。

 それが、物心ついてから僅か十年程度の人生と、周囲の貧民達を反面教師に得た、エイミー自身の細やかな信条。ハイソな連中の言葉を借りれば、哲学とでも称し得るものだった。


「ねぇ」と、エイミーが発した。

「何?」

 自分のプディングを食べ終え、エイミーの潰れたプディングに物欲しそうな視線を送るミラ。


「アンタらさ、この辺りに来たばっかりで、行くあても何もないんだろ」

「そうだよ」

「――どうしてもって言うなら、ここに居てもいいけど」

「ほんとにっ⁉」

 ミラが、声を弾ませながら廃材から腰を浮かせた。

「その代わり」今にも踊り出さんばかりのミラを諫めるように、エイミーは、「アンタらには明日からアタシの仕事を手伝ってもらうから」

「仕事って?」

「そりゃあ、小金持ってる連中の懐から、ちょいとばかし頂戴する感じの――。まぁ安心して。少なくとも路上に立って客取るってわけじゃあない。今まではアタシ一人でやってきたけど、人数が増えれば仕事の範囲も広がるし」

「分かった。ヴィアもそれで構わない?」

 プディングを口一杯に頬張る小動物が、姉の問いかけに無言で頷いた。

 ミラはその様子を見て満足そうに頷き、「じゃあ決まり。明日からよろしくね。――そうだ、あなたの名前教えて」

「アミーリア、けどエイミーでいい」

「うん、よろしくね、エイミー。私はミラ。で、こっちは私の妹のヴィア。オリヴィアって言うの。――ところで、それ食べないの?」

 エイミーのプディングをミラが指差す。

「あんまり食欲ない。アンタに蹴られた鳩尾がまだ痛むんだよ」

「それはごめんね。でもあれは正当防衛だったし」

「別にもう責めちゃいないけど。アタシは一個で十分だから、こいつはアンタら二人で分けて食べたら?」

「やった!」

 エイミーが放ったプディングを両手で受け止めると、ミラは二つに裂いた。やや大きい方を迷うことなくオリヴィアに手渡す。

 そんな様子をぼんやりと眺めながら、毛布の上に落ちた肉片をプディングの生地の中に押し戻すと、エイミーはひしゃげたプディングを一口齧る。

 生地とそれに包まれた肉と野菜は、完全に冷え切っており、お世辞にも美味しいとは言えなかったが、どこか懐かしい味がした。


 獣脂蝋燭が、パチパチと芯の爆ぜる音を出しながら、熱をほんのり帯びた蝋を一筋垂らした。



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