Murder Me If You Can
エルフェンバイン
第1話 London the Evil
Ⅰ London the Evil
吹きさらしになっている屋上には遮蔽物がなく、周囲に覆い被さる霧の合間を突き抜けるようにして、夜霧の合間から淡い月光が降り注ぐ。
屋上へと続く階段を登り切った赤毛の少女が、足を止めた。大きめの紺色のコートに身を包んだ彼女の頭頂部では、人間が持ち得ないはずの部位――獣のような両耳が、緊張したようにぴんと立っている。
煙突の縁に腰掛けて、整った形の唇から悲し気なグリーンスリーブスの旋律を紡ぐ金髪の少女の姿は、探すまでもなく視界に飛び込んで来た。怜悧な雰囲気を纏わせた横顔が見上げるのは、霧の向こうに浮かぶ月。
「やっぱり来てくれたんだね、エイミー」
エイミーの方を振り向いたミラが、凛と張り詰めた月夜の冷涼な空気を、嬉しそうな声色で震わす。その口の端から覗くのは、左右一対の鋭利な牙。そして、その背中には蝙蝠や烏を彷彿とさせる漆黒の両翼。
彼女の長く美しい金髪が、月の蒼く淡い光を反射して、幻想的に光る。
「ミラ……」
冬の寒空の下、白くなった吐息に交じって、エイミーの口から金髪の吸血鬼の名が零れる。
「ねぇ、エイミー。見て?」
ミラが眼下に広がるロンドンの街並みを指し示す。
「さすがロンドンだよね。夜なのにガス燈がこんなにも明るく辺りを照らしてるの。――持たざる者は、かじかむ両手を温めるための火すら、満足に手に入らないっていうのに。あれはね、そんな人達を見下すように、頭上高くで楽し気に踊っている灯りなの」
「……言いたいことがあるなら、はっきり言えば?」
エイミーが、静かに問う。
ミラは、煙突の縁に立つと、両腕を横一杯に伸ばした。
「エイミーは、創世記って読んだことある? ないかなぁ? ソドムとゴモラっていう悪い街が滅ぼされちゃう話。――この街も滅んじゃった方がいいと思うんだ。だってこの街って、こんなに歪で悪意に満ちてるんだから」
そう述べる彼女の紺碧の瞳は、これ以上ないくらいに真っ直ぐエイミーを見つめる。
はんっ、とエイミーが鼻で笑った。
「馬っ鹿らし。あの
「そう? でもエイミーは、私の匂いを辿ってここまでやって来たんでしょ? ――ふふっ、狼っていうよりも、身も心もまるで忠実な猟犬だね。
あからさまに安っぽい挑発。かつてのエイミーなら、すぐに激昂していただろう。だが、今の彼女の心は、そんな挑発に踊らされることもなく、なぜか不思議なくらいに落ち着いていた。
「――一応、聞いとく」
エイミーが静かに言う。
「戻って来る気、ある?」
彼女は、無言で紺碧の瞳をじっと見つめ、その返答を待つ。
ふっ、とミラが口許を緩めた。
「戻る? どこに? 私の居場所は、ヴィアの傍だけだったの。あの子を追い詰めた責任の一端は、エイミー、あなたにもあるんじゃない? なのに、そんなあなたが、よりによって、そういうこと聞いてくるんだ……。馬鹿にするのも大概にして」
あくまで柔和な笑みを崩さないミラ。だが、その声色には静かな怒りが確実に滲んでいた。
「あっそ。分かった。――もういい」
エイミーは、内心に秘めた罪悪感を悟られないように、短く吐き捨てる。
そんなエイミーを見て、ミラは満足そうに頷いた。
「ねぇ、エイミー? あなたはアリス。鏡をくぐり抜けてチェスボードに迷い込んだアリスなの。鏡の先に広がる、あべこべでめちゃくちゃな世界の駒」
ミラは、芝居がかった様子で、煙突の縁を往ったり来たりする。
「ならさ、赤の女王がそうだったみたいに、エイミーもさ、同じ場所に留まりたいって思うなら、全力で走り続けなくちゃいけないの。たとえどんなことが待ち受けていたとしても、ね」
そう告げるミラの姿はどこか自虐的ですらあった。
「……アンタに言われるまでもないけど」
「――さて」
そう言うと、ミラは煙突の縁から屋上へと降り立った。長い金髪が優雅に宙を舞い、漆黒の翼が、風を受けて柔らかく羽ばたく。
「おしゃべりは、もうおしまい。そろそろ始めよっか? ……いや、この場合は終わらせる、って言うべきなのかな?」
彼女は、無邪気に笑う。その口の端から牙が覗く。
「エイミー、
月光に蒼く照らされた吸血鬼が浮かべる楽しげで、でも僅かに物憂さもある表情に、一瞬だけ、――ほんの一瞬だけ、赤毛の狼少女は顔を悲痛そうに歪ませた。
狼と吸血鬼が、同時に駆け出す。
二人の少女の想いが、ロンドンの冷たい夜霧を切り裂いた。
*
セント・ジェイムズやメリルボンといった、大英帝国が誇る偉大なるヴィクトリア女王陛下のお膝元のみならず、ロンドン市民から唾棄されるイーストエンドの路地裏へも、その凍てつくような寵愛を等しく振り撒いていくからだ。
押し込められるようにして建てられた家並みの間、約四、五フィートほどしかない狭隘な路地裏。そこに死体とおよそ区別が付かぬ様で転がっていた、ぼろ布にくるまった不潔な浮浪者や物乞い達すら、いよいよ重い腰を上げ、段々とその姿を消し始める季節。霧深く仄暗い夕刻、悪徳の都ロンドンに厳しい冬の足音が近づく。
それでもなお、路上に取り残されているのは、寝床を粗末な長屋や
彼らが、白い煙の細く燻るごみの山に必死にすり寄るようにして、幾ばくかの暖をとっている光景には目もくれず、燃えるような赤毛の少女、エイミーは、足元で蠢く障害物がめっきり数を減らして通り抜けやすくなった路地裏を今夜の寝床へと足早に向かっていた。
年の頃は、およそ十二、三歳といったところであろうが、正確なことはエイミー本人にも分からない。だが、貧民窟の孤児として日々を生き抜くのに、そんなことはファージング硬貨ほどの重みも持たなかった。
何より重要なのは、今日を生き抜くための日銭と糧、それにねぐら。ただ、それだけである。
今日の収穫は、わりあい上首尾であった。通りを行き交う紳士淑女が、誰も彼も着込む時期は、
この悪徳の都において独力で生き抜く方法として、エイミーのような貧民孤児の少女に与えられた手札は、そう多くない。掏摸か、それとも路上で立ちんぼをして客でもとるか、だ。
女は路上に立てば、楽に金を稼げると言う者もいるが、少なくともエイミーはそのような方法を取ることはなかった。貧民窟で母娘二人きり、身を寄せ合うようにして暮らしてきた。二人分の食い扶持を稼ぐために、アイルランド移民の母は、毎日路上に立ち、数多の娼婦達の例に漏れず病気に罹り――そして死んだ。
その貧民窟さえも、今年の夏、官憲共に色々と難癖を付けられた挙句、新しい道路を建設するためだとか、疫病の蔓延を防止するためだとか言われながら、ついに取り潰されてしまった。いつだって蹂躙されるのは、貧民だった。
そんな突然に居場所を失った流れ者達が、行き着く先はそう多くない。エイミーが、新たなねぐらとして居付くことにした、イーストエンド・ホワイトチャペル地区もまた、そのような流浪者達が放浪の果てに自然と流れつく渾沌とした地区の一つである。
無節操かつ無秩序に並んだ通り沿いの家々が形成する迷宮の最深部、そこにエイミーのねぐらがあった。
老朽化した建物が数棟、通りの側へと倒壊し、完全な袋小路となっている先、瓦礫の間に僅かばかりの隙間が開いている。子供一人なら優に通ることができる程度のそれをくぐり抜けると、一軒の廃墟が目の前に見える。
六日ばかり前に偶然見つけた廃墟。
煉瓦造りの三階建てだが、二階より上は床が完全に抜けてしまっている。だが、雨風を凌げる屋根と壁は、途轍もなく贅沢品であった。しかも、ここには大人の男が容易に立ち入れないというのも、大きな利点だとエイミーは考えていた。産湯代わりにジンに浸かっていたような赤子の時分から、荒事や貧民街に身を置いているとはいえ、大の大人達がいつ何時狼藉を働いてくるとも限らない寝床では、身も心も休まらない。所詮、一少女にしか過ぎず、さらには偏見を持たれやすいアイリッシュであるエイミーが独力で生き抜くに際して、貧民街の大人というのは、獰猛で警戒すべき怪物でしかなかった。
だからこそ、廃墟の中から人の話し声が聞こえた時、エイミーが即座に警戒の構えを取ったのも無理からぬことであった。向こうも、エイミーが土と瓦礫を踏みしめる音が聞こえたとみえる。話し声が止んだからだ。鼓膜を震わすのは、どこかの共同住宅で繰り広げられている、巻き舌気味の
もし家の中にいるのが大人だったならば、ナイフで相手が怯んだ隙に、すぐさま踵を返して逃げ出す。瓦礫が追撃を阻むことになるから十分逃げきり得るであろう。次に子供だった場合は、どうするか。その時は、ナイフで脅して立ち去らせれば良かろう。折角見つけた好条件の寝床を易々と手放すわけにはいかない。荒事になったとしても、同年代の子供であれば、数人相手でも勝てる自信はあった。
いずれにせよ、先手必勝。出鼻で勢いよく相手を威圧した者が、主導権を手にするのだ。いかに機先を制するか。
出方の算段を講じると、エイミーは地面を蹴って、つむじ風の如く、入り口の扉を蹴破り、室内へと躍り込んだ。
素早く左右を見回し、留守を狙う無頼の輩を探す。
すると、奥の壁際に二つの人影を認めた。膝を抱え、肩を寄せ合うようにして、こちらの様子を窺っている。
一人はエイミーよりも上背がありそうだったが、少なくとも二人とも子供のようであった。
出来るだけ低く、威圧感のある声色になるように努めて、
「アンタら、何勝手にアタシの家に入ってんだよ。出てけ」
扉の方へ顎を軽くしゃくる。
小さい方が、「
「はっ」思わず吐き捨ててしまう。「警官だってぇ⁉ あんな青臭い溝鼠どもと一緒にしないで欲しいんだけど‼」
力の入ったエイミーの声に驚いたのか、小さい人影は、隣の人物に縋りついた。
背の高い方が、自分の身体で小さい方を隠すようにして、徐に立ち上がった。思わずナイフを握る右手に力が入る。
「先客がいるとは思わなかったの。ごめんなさい」
貧民窟に似つかわしくない柔和な声色。僅かばかりスコットランド訛りの混じった英語だが、玲瓏な発音は耳に心地良かった。身長は、五フィート程度であろうか。ややウェーブのかかった金色の前髪。猫のようなくりくりとした紺碧の双眸。路上に丸一日立っていれば、エイミーの一週間分の稼ぎ程度なら、すぐに得られそうな器量であった。
「アンタら、この辺じゃ見ない顔だけど、どうせ流れ者の孤児か何かでしょ」
「――うん、そんなとこ。この辺りには今日、妹と来たばっかりなんだ。ここは、てっきり空き家かと思って。あなたのおうちだって、知らなくてごめんなさい。行こ、ヴィア」
長い金髪の少女は、ヴィアと呼んだ小さな人影の手を優しく引いて立ち上がらせた。妹の方も姉と同じく金髪であったが、くせっ毛が強く、常に姉の陰に隠れるようにして、おどおどしている態度は、リスみたいな小動物を彷彿とさせた。
思ったよりも拍子抜けなほどに、あっさりと占拠者を追い出せそうだという感触を掴んだエイミーは、ついでに、もう一仕事しようと思いついた。上首尾だった今日の仕事納めとしては、手頃で与しやすい相手だろうし、丁度良かろう。
「待った」
退去しようとする少女二人に対して、左の手の平を突き出して静止を求める。
姉は怪訝な表情を浮かべ、妹の方は、姉の服の裾を両手で掴んだままエイミーの方を上目遣いで恐る恐る窺っている。
「何?」
姉の方が問う。
エイミーは、姉妹が何にも分かっていないことに呆れたふうを装いながら、少々大げさに首を左右に振った。
「アタシのいない間、ここに居たんでしょ? ならさ、ショバ代として有り金全部置いていきな」
ナイフをちらつかせながら、単刀直入に要求を告げる。鈍そうな輩には、直截に言った方が手間が省けて手っ取り早い。
姉の方は、少々眉を顰めて、
「同じ貧民孤児から、お金を毟るつもり?」
やや非難がましい口調。
「別に身ぐるみ剥いで、全裸で姉妹仲良く路地裏に放り出そうって、つもりじゃないさ。……大人しく有り金を全部置いていくなら、だけど」
お互い相手を値踏みするかのような静寂。腕っぷしで勝てるか否か。法など幾ばくかの意味すらも持たない世界。両者の脳内では、勝算の程度を求める計算が目まぐるしく行われている。
「ねぇ、ミラ……」
と、くせっ毛の少女が、不安そうに姉を呼ぶ。
「大丈夫だから、心配しないで」
ミラと呼ばれた少女は、温和な声で返事をしながらも、視線はエイミーから一切外さない。
「で、どうすんの?」エイミーが問う。
「嫌、って私が言ったら?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、質問に質問で返すミラ。その余裕ぶった態度がエイミーの神経を逆撫でする。
「あっそ。――なら、仲良く路地裏に裸で転がしてやるよっ!」
エイミーは、ナイフを握った右手を勢いよく、ミラの左肩口辺り目掛けて突き出す。対するミラは、エイミーの右手首に内側から自身の左腕を素早くぶつけて防御を図る。
予想とは裏腹な、その反応の良さに、一瞬怯むエイミー。
その隙を逃さなかったのはミラだった。間髪を容れず、右手の平の付け根で、エイミーの喉から顎に突き上げるようにして一撃を繰り出す。
気道から空気が押し出され、蛙が潰れたような声が口の端から零れる。一瞬、呼吸ができず、意識が飛び掛けた。が、考えるよりも先に、荒事慣れした身体の方が反応した。そのままの勢いで、廃屋の外へと飛び出すように後転して、一旦彼我の距離を取り、迎撃の態勢へと即座に移行する。他方ミラは、エイミーの手を離れ、廃屋入り口に転がったナイフには目もくれず、一直線にエイミーの方へと駆けて来る。
エイミーは、ポケットに右手を突っ込んで、ファージング硬貨を取り出すと、軽く拳を握りしめた。二度ばかり大きく咳き込んで呼吸を整え、エイミーも、相手目掛けて突っ込む。
正直なところ、頭の片隅で自身の見通しの甘さに辟易しながらも、眼前の相手を打ち倒すための最短経路について、計算し続けることも忘れない。
両者の身長差と荒事についての経験値、それらを考慮すれば、このまま組み合うには、不利な要素が多かった。
――ゆえに、出し惜しみはなしで、一気に勝負を決める。
ギリギリまで敵を引き付ける。駆け寄る両者の距離は、一気に縮まる。すかさず、右腕を後ろに大きく振りかぶったエイミーは、左足で大地を力一杯踏み切ると、大きく跳躍した。黄昏時の帝都の空を背負い、握りこぶしを頭上高く掲げ、赤毛を半ば逆立てながら宙へと舞う。
身長差の不利を限りなく打ち消す渾身の一撃。窮地は、いつもこれで切り抜けてきたのだ。
――もらった。勝ちを確信した。
が、その瞬間、長い金髪が夕闇の中、横薙ぎに一閃、眼前を通り過ぎたかと思うと、エイミーの視界はぐらりと反転し、華奢な体躯は、容赦なく後方へと吹き飛んだ。
砂埃を辺りに巻き上げながら、背中を大地へと強かに打ち付ける。
その直前、身体の重心を左脚に預けつつ、もう一方の脚を空中に突き出した金髪少女の華麗な様が目に入った。
エイミーの切り札は全くもって読まれていたのだ。いや、そもそも誘い込まれたのかもしれない。向こうにとっても恐らく切り札であろう、リーチの長い、右上段後ろ回し蹴りは、狭い廃屋内では廃材や家具が多く、使いにくい。だから、最初に組み合った時、エイミーを屋外へと追い立てたのかもしれない。さらには、妹に危害が及ばないよう、敵をできるだけ引き離すためにも。
全て所詮は、エイミーの憶測に過ぎないが、立ち会った瞬間に、相手を組み伏せる最終局面まで、本当に脳内で描けていたのであれば、大したものだ、と率直に思った。
事態の把握に追いつくように、鳩尾の鈍痛が自己主張の度合いを激しく高めていく。呼吸も上手くできず、胃液が空っぽの胃から食道を逆流していく。口の中に独特の酸っぱさが広がる。
薄れゆく意識の中でエイミーが目にしたのは、落ちたナイフを拾い、刃先を細く長い華奢な指で丁寧になぞりながら、こちらへとゆっくりと近づいてくるミラと、廃屋から飛び出して姉に後ろから抱きつきながら、何か泣き叫んでいる妹の姿であった。彼女達が何を喋っているのかは、上手く聞き取れない。
――エイミーの意識は、路地裏に迫る薄暮へと溶けてゆく。
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