夕刻

西野ゆう

第1話

 近くに人口密集地や旧街道があるわけでもなく、他に人が多く訪れる観光地があるわけでもない。人里離れた小高い山に挟まれた細い谷。周囲の山には登山道も整備されておらず、登山ブームの中にあって、登山客も全くいない。

 この地域の日の入の三時間前だというのに、その谷には光りが届かなくなっていた。薄暗くなりゆく地表には、靄がゆらゆらと静かな風に揺れている。

 青々とした、というよりも、黒々としたと表現した方が相応しいほどに深い緑の中に、神社の鳥居を思わせる朱色の屋根をした建物がひとつ。その建物に向かう小路の途中に、「温泉宿・ゆうこく」と書かれた真新しい看板が立っていた。

「温泉か。それで余計に靄が立ち込めているんだな」

 一人の男が、その看板と奥の建物をひとつのフレームの中に収めて、スマホのカメラでシャッターを切った。

「うーん、ちょっと難しいか……」

 写した一枚を男がモニターで確認するが、靄に差し込んだ光が乱反射して、上手く風景を捉えきれていなかった。男は写真を諦めて「ゆうこく」の方へと歩みを進めた。

 小路は舗装されてはいなかったが、車が通った後のわだちが残っている。客か、宿の者か。いずれにしても人の往来は少なからずあるようだ。

 看板もそうだったが、建物自体もまだ新しい。ガラスの扉には、屋根と同じ色で「ゆうこく」と書かれていて、黒く四角い取手には、やはり屋根と同じ色で「ひく」と書かれてあった。

「ごめんください」

 そのドアを引いて、男が中に声を掛ける。すると、男が来るのを待ち構えていたかのように、女性が座礼していた。冷静に考えれば、すこぶる奇妙なことなのだが、この時男は、美しい居住まいにただ感心していた。

「いらっしゃいませ。遠いところお越しいただきまして、誠にありがとうございます。お疲れになられたでしょう。どうぞごゆっくりなさって下さいませ」

 さすがに男は奇妙に思った。どうやら他に予約でもしていた客と勘違いしているのだろうと、男は自分の顔の前で手を横に振った。

「あの、私は予約とかしていないんですよ。この辺りに来たのは初めてで、温泉があるのも知らなかったぐらいで……」

 顔を上げた女性は、その男の言葉を聞いて柔らかく笑った。

「ええ、承知しておりますよ。この宿に予約して来られる方などいらっしゃいませんから」

「え? しかし、誰かと間違われていたんじゃ? さっき『遠くから』なんておっしゃられたでしょう」

 今度はそれに大きく頷き、女性は立ち上がった。

「だって、遠くからいらしたのでしょう? この宿の『近く』なんてありませんもの。近くから来たと言うのは、猿か熊ぐらいでしょう。でも、猿や熊は言葉を話しませんものね」

 そう言いながら女性は男の背後に回り、男が背負っているリュックの肩ひもに手を掛けた。荷物はそれほど入っていない。サンドイッチとペットボトルのコーヒー、それに着替えのシャツとタオルくらいだ。男は女性に荷物を任せた。

「本日はどうなさいます? お風呂だけにいたしますか? それともお泊りに?」

 男のリュックをカウンターの上に置いた女性は、そのカウンターの向こう側に回っている。女性の背後の壁に視線を移した男は、そこに書かれている文字を見た。

 ご入浴三百円。ご宿泊三千円。

 素泊まりだとしても、今時三千円は安い。

「あの、あれって素泊まりの金額ですよね? 食事もお願いしたらいくらになります?」

 男が壁の文字を指さして尋ねた。

「いいえ。夕食、朝食が付いたお値段ですよ。こんな場所ですから、大したものはご用意できませんけれど」

 それを聞いた男は目を丸くした。三千円で二食付き。いったいどんな料理が出されるというのか。仮にとても食べられないものが出てきたとしても、たった三千円だ。話のネタを買ったと思えば高くはない。男は一泊だけしてみることにした。

「じゃあ、泊っていきます」

 女性はその言葉に頭を下げた。

「ありがとうございます。この宿は一泊しかできないですけれど、それだけはご了承くださいませ」

 一泊しかできないというのがどういう理由からなのか、男は少し気になったが、元々そのつもりだったので「わかりました」とだけ返した。

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